第3話

あくる月曜日の午後四時、阿佐美さんがパソコンから顔を上げて言った。

「上村。採用から新卒向けのウェブページ制作の依頼が来た。頼めるか。」


「僕じゃなくて下田さんに頼んだほうが良いものができますよ。」と反射的に答えようとして、はたと思いとどまった。

本当にそうだろうか。僕だって彼女に色々訊きながらだが、前より良いデザインができるようになっていた。彼女に頼んだ方が良いものができるなんて、断言できるはずはないし、断言してはいけないのだ。だというのに、僕はこう信じてしまっている。彼女から生まれ落ちるものが僕のそれより劣っていることなど、万に一つも有り得ないと。


「どうしたものか。」


我ながら、気持ち悪いことを考えていると思った。何より、そんな自分の思考が彼女に知られたらと思うと、ひどく不快になった。何としてもそれは避けたかった。とはいえ、思考してしまったものはどうしようもない。何人も、僕自身でさえも、僕の思考を阻むことはできないのだから。


「ともかく、落ち着かなくてはいけない。」


冷静に、自分自身の感情を見つめなおそう。そのためには、全てのしがらみを捨てる必要がある。例えば仕事や人間関係など、この場にあるすべてを。少なくとも、それで回らなくなるほど僕は社会にとって大きな存在ではない。


「おい、上村。聞いてるか?」僕は長いこと返事をしていなかったようだった。


「……それは来週やるんで、今日は帰ります。ついでに明日は有給を頂こうかと。」


「随分と唐突だな。構わないが、体調でも悪いのか?」彼は怪訝そうな顔をした。


「ありがとうございます。まあ、そんなところです。」


帰り支度をしていると、下田さんが声をかけてきた。

「大丈夫? 最近さらに寒くなってきてるし、お大事にね。」


世界が寒くなっていても、僕の胸は熱くなっている。あるいは、世界が寒くなっているからこそ、この胸の熱さが際立っているのかもしれない。とすると、この冬が僕にとって厳しいものになることは、回避できない未来のようだった。


「ありがとう。そうだね、ゆっくり休むことにするよ。」彼女の優しさに後ろ髪を引かれながら会社を出た。


何でもいい、リラックスできるものが欲しい。そう思いながらスーパーに立ち寄った。しばらく目的もなく店内をさまよい、茶葉のコーナーの前で立ち止った。ある商品の置かれている棚に、「安眠のお供に!」というポップを発見した。


これこそ僕の求めていたものだと、かごの中に放り込んだ。ついでに袋菓子や、缶酎ハイなども買った。いちご風味の酎ハイに手が伸びそうになって、思わず引っ込めた。気が触れそうだった。急いでレジで会計をして、店を飛び出した。


コップ一杯分と少しの水を火にかけ、沸騰させる。個包装されたティーパックをコップに入れ、煮えたぎったお湯を注ぐ。五分ほど蒸らすと書いてあったが、いい感じに蓋になるものはないだろうか。食器棚から醤油皿を見つけ、コップの上に裏返した。五分間コップを眺めるのは、現代人にとってあまりにじれったい時間だった。


三十秒ほど残したところで、待ちきれずに皿を外した。白い湯気とともに香りが拡散したように見えた。ティーパックを皿に引き上げて、香りのほとんどはこの袋からしていることに気づいた。パッケージには優しいりんごの香り、などと書いてあったが、実際には熟れていないさくらんぼのような、青臭い香りだった。


ともかくも飲もうと口を近づけて、やめた。火傷をする未来が見えてしまったからだ。この期に及んでまだ待たなくてはいけない。たまらずスマホに手を伸ばしそうになるのを、何とかこらえた。スマホやパソコンの画面から出るブルーライトなるものが、快適な休息に悪影響を及ぼすと、先程スマホで調べたばかりではないか。


さらに五分待った。湯気も大方収まってきたので、まずはほんの一口啜った。藁からエキスを抽出したのだったか、と思わせる苦味を感じた。慌てて破り捨てられた包装を見る。確かにそこにはカモミールを使用していると書かれていた。


確認のため、再び口に含んだ。どれだけ味わっても、絶望的な感想が変わることはなかった。だが、最低な口腔内とは裏腹に、気分は不思議と悪くなかった。

いつしか空になったコップを、僕はのぞき込んでいた。味に対する怒りも、今まで抱えていた悩みも、まるで残っていなかった。あるのは驚くほど穏やかな心だけだった。

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