第8話

長い沈黙だった。ゆっくりと脈が落ちていくような、言いようのない不安が続いた。


「……その話は、私としたでしょ。」絞り出すように、彼女は言った。


「だから、君も覚えているはずだって」


「ええ覚えているわ。私が言っているのは、それは私の記憶だってことよ。」

今度は僕が黙る番だった。何を言っても、認識の齟齬がなくなることはない気がした。


「じゃあ、つまり。」彼女は再び口を開いた。「あなたが昨日一日話してたのは、私じゃなかったとでも言いたいの?」


「絵里さん自身も知らないとは思ってなかったけどね。」


彼女は大きなため息をついた。そして「馬鹿馬鹿しい。」と一蹴した。


「そうだね。僕もそう思う。」

ソファを立ち、自販機の前まで足を進めた。

「何か飲むかい? おごるよ。」


「……ブラックコーヒー。」


価格を見る。きっかりの硬貨を入れ、ボタンを押す。がこん、とペットボトルが音を立てて落ちた。


「おまたせ。」あたたかい、と言うには少し熱く感じるそれを彼女に手渡した。


「……なにこれ。」


「まさか同じ値段とは。でも僕の記憶が確かなら、それで合ってたはずだ。」


彼女は何も言わなかった。ただ黙って、いちごミルクを開けて啜り始めた。しばらくして、軽くなったペットボトルが仲間のもとへ投げ込まれる音が聞こえてきた。


「それで、なんでこんな不愉快なことが起こっているわけ?」


「実は、原因がこいつにあるってことだけはわかってるんだ。」


僕は、鞄から例のものを取り出して、小さい丸テーブルの上に置いた。

テーブルの上に置かれたそれは、何の変哲もない、スーパーならどこにでも売っているような見た目の、ティーパックだった。唯一特異な点といえば、残りがその一つだけだということだった。


「これを飲んだ次の日は、絵里さんの性格がもう一方に変わるんだ。いや、変わったように見えてただけなんだっけか。」


「飲んだあなたの性格が変わるならまだしも、なんで私の?」


「そんなこと、僕に聞かれても。」


わかるわけがない。だが、僕にとっての「下田絵里」の見え方が変わっているのだから、案外正しい作用なのかもしれない。


「というか、そんなおかしなものをよく飲めるわね。どこで買ったの?」


その通り。おかしいのだ、この飲み物は。こんなものが普通に店頭に並んでいいはずがない。

そう思って、昨日このティーパックを買ったスーパーを訪れた。先日と同じように茶葉のコーナーを前にして、僕は目を疑った。僕が手に持っているものと同じパッケージが、どこにもなかった。「ちょうど入れ替わったんだ。そうに違いない。」そう思い込もうにも、不安は膨らむ一方だった。こらえきれず、僕は近くの店員に声をかけた。

「すいません。先週まで、このティーパックが売られてませんでした?」

そう言って、手に持っているパッケージを見せた。店員はしばらくそれを見つめた後、店の奥に引っ込んで、しばらくしてまた戻ってきてこう言った。

「そのような商品は、過去にも取り扱っておりません。」


僕はこの顛末を彼女に話した。


「レシートは? そのスーパーで買った証明になるはずよ。」


「いちいちレシートなんか取っておく人間に見える?」


「……。」


「……そんな顔もしないでほしいな。」

しばらく「そんな顔」を貫いた彼女だったが、やがてテーブルに置かれたティーパックを指さして言った。


「それ、今日も飲むの?」


「そのつもりだよ。」


「じゃあ私にこんな話、しなくてもよかったのに。今後私と話すことはないんだから。」


確かに。茶葉が原因であるということがわかっているのなら、今日も黙ってカモミールを飲んで、何事もなかったかのようにふるまうこともできた。むしろそうするほうが自然だったとさえ、今なら思えてくる。


「こんな話、しなくてもよかった。そうだね、その通りだ。」


僕の話を彼女は想像以上に信じてくれたが、僕を完全な狂人扱い、なんて未来もあったわけだ。それでもなお、僕はなんでこの話をしたんだろうか。


「原因があると思ったんだ。こいつを飲んだから、とかそういう次元じゃない。もし僕が見たものが全くの幻覚だったとしても、それを見るに至った原因があるんじゃないかって。なんとなく、絵里さんと話したらわかる気がしたんだけど。」


はあ、とため息が聞こえた。見ると、彼女はもう荷物を持って立ち上がっていた。


「帰るの?」


「もう遅いし。それに、この話の続きは、私からするべきではないもの。」


「なるほどね。」

彼女の凛々しい立ち姿を眺めていると、「まだなにか?」と睨まれた。


「いや、これで最後かと思ってさ。」


「どうせまた会うことになるわよ、多分。」


「そっか。」彼女がそう言ったからか、なぜだか本当にそんな気がした。


「じゃあ、またね。」


「ええ、また。」彼女を見送って、僕も帰り支度を始めた。

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