第6話

「おはよう、上村君。」事務室に入ると、昨日より温かい声が僕を出迎えた。

「おはよう。」僕はその温かみを噛みしめながら席に着いた。


しばらく仕事をしていたが、昨日の出来事について、彼女から触れる様子はなかったし、後に来た阿左美さんも同様だった。


あるいは今日も何か違うかもしれないと、一日中気を張り詰めていたが、昨日感じた違和感はついに見えることがないまま今日が終わってしまった。


「やはり、おかしかったのは僕一人だったんだろうか。」

醤油皿の隙間から漏れ出る湯気を、ただただぼんやりと眺めることしかできなかった。


昨日今日と過ごしてみて、自分の認識を信じられる要素が何一つなかった。こんなにも自身に不信感を抱いている人間もそういないだろう。いずれにしても、僕が考えている「下田さん」と、昨日の「絵里さん」の、どちらかは幻覚なのではなかろうか。

「本当に?」それさえも確かなことではないような気がした。


こんな時は逆転の発想が必要だと、どこかの偉い人が言っていた気がする。この場合の逆というのは、つまりどちらの彼女も幻覚か、どちらも本物か、ということだろうか。どちらも幻覚だった場合のことは考えないことにした。もしそうなら、僕の頭は完全におかしくなっていて、今更どうこうできるものでもないだろうから。


どちらも本物、というのは?もしかしたら彼女は二人いて、昨日から交代制になったのかもしれない。どちらも幻覚と言われるよりは、いくらか現実味がありそうな気がした。


けたましく鳴るタイマーを止めようとした手が、コップと接触した。熱冷めやらぬ流体は吸水性を持つものに吸い込まれ、残りがテーブルから滴り落ちた。

「……考え事なんてするもんじゃないな。」


吸われ損ねた液体をティッシュで集め、次々とごみ箱に放っていった。気力までごみ箱に吸い込まれていく感触がした。


明朝、事務室にはすでに誰かがが来ていた。僕はそれが誰なのかが判断できなかった。

「……上村君、どうしたの?」ドアの前で立ち尽くす僕に、彼女はそう声をかけた。


「さっきそこに虫がいたんだけど、もう飛んでったみたい。」


「やだ、この辺にまだいるかな。」辺りをきょろきょろと見回していた。


そうか。今日は「下田さん」なのか。失態を犯す前にその事実を認識できたことは大きい。ただ、なぜ今日彼女は「下田さん」なのか、これが問題だった。


翌日。その答えを確かめるべく、終業後に「絵里さん」を休憩所に呼び出した。

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