第5話
「おはよう。今日は酷い天気だね。」
この日は、朝から雨が降っていた。ただでさえ寒い季節というのは気分が落ち込むというのに、雨まで降っているとまさにどん底だ。だから、「……おはよう。」と返した彼女の声が、いつもよりも冷たく聞こえたのも、きっと雨のせいだろうと考えていた。
「ちょっと、今は思考を止めて良い時間じゃないわよ。」
時計は十一時を少し回った頃だった。週末はどこへ行こうか、ぼうっと考えていると、聞き慣れない罵声が部屋にこだました。恐る恐る顔を上げると、般若と目が合った。
「……そうかな、いつものことだと思うけど。」
「ええ、何度言っても治らないものね。」
吐き捨てるように、嫌味まで言われる始末だった。
確かに、今までにも同じようなことを注意されたことはあった。だが、こんなにも怒っている彼女を見たのは初めてだった。思わず阿左美さんの方を見たが、彼はこの状況を気にしている様子もなく、黙々とキーボードを叩いている。
ふと、朝のことを思い出していた。
「もしかしてだけど、何か嫌なことでもあった?」
今度は大きなため息が聞こえた。「……これ以上増やさない努力をしてくれないかしら。」
「もっともな意見だね。」
これ以上の会話は、事態を悪化させることしかない。そう悟った僕はいそいそと仕事に取り掛かることにした。
「彼女、いつになく怒り狂ってましたね。」
休憩中、廊下で出会った阿左美さんにそう声をかけた。同意が得られるものだと思ったが、彼は首をかしげた。
「そうか?いつも通りだろ。」
いつも通り。氷柱のように、冷たく鋭く尖った彼女が、いつも通りの彼女だと、どうやらそういうことらしい。では昨日まで僕が見ていたものは、いったいなんだったのだろう。彼女に理想像というテクスチャを貼り付けて、僕にとって都合よく認識していた、とでもいうのか。
そんなはずはないと否定したい気持ちと、あるいは本当にそうかもしれないという恐怖が入り混じって、少し息苦しかった。
「下田さん。」そう呼んだ僕の声は、少し上ずっていたかもしれなかった。
「何?あなたがそう呼ぶの、一月ぶりに聞いたわ。」
「忙しいところ申し訳ないとは思っているんだけど……。は?」
目線を上げた彼女が最後に付け足した言葉の意味を、すぐには理解することができなかった。僕が彼女を、「下田さん」と呼ぶのが、一か月ぶりだと。机上のカレンダーに目をやった。今日は十一月の五日。少なくとも、僕にとっての昨日が彼女にとっての昨日でなかった、ということではなさそうだった。
「せめて用件までは話しなさいよ。」声をかけておきながら、カレンダーを仰視して黙ってしまった不届き者に、嫌気が差してきた頃合いかもしれない。だが僕は、本当に彼女がそう思っているか確認することはできなかった。事実、僕はこの数刻、彼女の顔をまともに見ることができなくなっていた。
「そうだった。……っと、これなんだけど、改善点があったら教えて欲しいと思ってね。」
彼女はノートパソコンの画面に写ったプロトタイプを、隅から隅まで確認した。
「この前教えた色の使い方はちゃんと実践できてるようね。情報の選び方も……これについてはあなたの方が詳しいか。強いて挙げるなら、この情報はもう少し見やすくしたほうが、就活生の目に留まりやすいんじゃないかしら。こことか、図表を使ったらどう?」
模範解答のようなアドバイスを聞きながら、やっと彼女の横顔をうかがうことができた。
普段がそうでないということは断じてないが、真剣に画面を見つめる彼女は、いつも以上に絵になった。今この瞬間、彼女はまさに規範の擬人化であり、秩序の体現者であった。それほどまでに完全であることが、逆に不自然に感じられてしまうほどだった。
「ありがとう、……絵里さん。いつも助かるよ。」
「参考になったようで何より。」
そう言葉を残して、彼女は手元のブラックコーヒーを口に含んだ。少し顔をしかめた後、再び自らのパソコンに目を戻した。
その後もしばらく彼女の様子を伺ってみたが、仕事への姿勢や髪をかき上げる仕草は、普段の彼女と何ら相違なかった。なにより、彼女のつけている香水の香りは、間違いなく彼女のものだった。
「ううむ。」
カモミールティーを啜りながら、今日の出来事について考えていた。
彼女は誰だったのか。今までが勘違いだったのか、疑問は尽きなかった。だが、ある意味で今日見たものは新鮮だった。これまでの生活では想像だにできない、彼女の新しい側面を垣間見た気がした。
「明日はどうなるんだろう。」
いずれにしても、それは明日になればわかることだ。今僕にできることは、明日を迎える準備であり、それはつまるところ、コップに半分近く残ったカモミールティーを片付けることだけだった。
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