わらを燃やす話

 以上の手記は一月ものあいだ行方不明になっていた叔父の懐から発見されたものである。その叔父というのが積まれたわら山の下から、干からびた遺体として発見されているからには、常であれば決断力に乏しき我が一族が、積みわらをひとつ残らず焼くと決めたのも大いにうなずけることであろう。

〈積みわら〉が出たのだ。

〈積みわら〉が出た野は、残らず焼き払わねばならない。

 躊躇している暇はない。〈積みわら〉は巧妙に積みわらに擬態する。大半の積みわらが無辜の積みわらであることは理解しているが、選り分けるあいだにもどれほどの犠牲が増えるとも知れない。収穫物を焼くのは心が痛むが、身内から犠牲者が出ている以上、痛む心があるうちにやるべきことを行うべきだろう。〈積みわら〉を焼く。それがいまの我々の使命だ。

 もっとも、我々はいささか勇み足であったようだ。畑には叔父の事件を捜査中の警察関係者が大勢詰めていて、とても火を投じるどころではない状況であったのだ。どころかしばし現場に近づかぬよう、つとめて現場を保存しておくよう、ゆめゆめ妙な真似をおこさず大人しくしておくようにと厳命がくだされた。

「みなさまのお気持ちは重々、ええ、重々理解しておりますので」

 警棒を手にした年寄りの警官は、額に汗をびっしりと浮かべ、言葉につっかえながら我らを説得した。「わらの山から針を探すという言葉もありますが、我々の仕事はまさにそのたぐいでして、針の一本にも等しき証拠を探しているところなのです。どうか早まった真似をなさらず、どうか」

 まるで気が触れたものをなだめるような物言いではないか。我らからすれば火急の用事であるが、彼らにはその意図が伝わらぬと見える。我らが声高に危険を示してもまるで押し問答。地面にちらばっていた制服姿のものたちも寄ってきて壁になる始末。これ以上はどうにもならぬ。目口鼻を布で覆い、耐火グローブの手に松明とバケツを装備した重武装の我ら一族としても、顔を見合わせ、すごすごと引き下がる他なかったわけである。

 これは決して国家権力に恐れをなしたからではない。ひとまずは従うのが得策と判断したからだ。その場には警察関係者以外にも、騒ぎを聞きつけて集まってきた村人たちがひとかたまりほどもいた。これだけ人数がいればいくら〈積みわら〉といえどひと飲みにすることなどできないだろう。やぶれかぶれの家長は、絶対にうちの土地をひとりで出歩かぬよう厳命しかえした。

 このときに、問答無用で火をまいていればよかったのだろうが、あいにくと我々は、人質とばかりに叔母が牽引されていた。かわいそうな叔母は、叔父を殺した最重要容疑者と目されていたのだ。夫婦で管理する田園から片割れの遺体が発見された以上、もう片割れが疑われるのは単純と言えば単純だ。おまけに叔母は遺体の第一発見者でもある。得意先が引き取りに来たわらを、荷台に移すのを手伝ってやっているときに、見事に行方不明の夫をわらの下から掘り当てたのだ。もしもこれで叔母が真実、夫殺しの犯人だとしたらあまりにもまぬけすぎる結末と言えようが、警察はそう考えなかった。彼らは彼らなりの職務意識をもって、叔母がわざわざ第三者たる目撃者を用意したうえで死体を発見して見せたのだと疑った。もちろん我々は否定した。我々の知る限り叔母はそのような狡猾な毒婦ではなかったし、なによりも、そんなことを言っている猶予は一刻もなかった。

 幸いなことに疑いはすぐに晴れた。検死と現場検証の結果、叔父はわらの中で少なくとも一週間程度は生きていたことがわかったのだ。我らがその結果にどれほど恐れおののいたかは言うに及ぶまい。叔父の遺体は、わらを口いっぱいにほおばり、全身に干し草が絡みつく異常な姿ではあったが、警察はそれをただのわらだとみなした。つまりただの枯れた草だとみなしたのだ。編んでもいない草で人を拘束することはできない。薬を盛られた形跡もない。叔父は自力で出ようと思えば出られたはずで、出られなかったのは草が引っかかったのかもしれないし、もっと言えば、叔父がなのではないかと、彼らは考えたのだ。

 とんでもないことだ。

 誰がそのように馬鹿げたな死に方を選ぶだろうか。調べるべきは叔父の死体ではなく、叔父の死体が発見されたわらのほうだ。そのわらこそが〈積みわら〉、叔父を殺した干し草なのだ。

 だが警察はそうは考えなかった。わらが意志をもって動くなど、それこそ馬鹿げた発想だと我らの抗議を一蹴したのだ。だが、彼らのほうでもわらが怪しいとは考えたらしい。どうやら叔父の懐から見つかった手記は、叔父の狂気の裏付けの役目を果たしたようだ。警察の見解はこうだ。頭のおかしくなった叔父がわらに飛びこみ衰弱死した。手記を見る限りこの男はわらが人を襲うという妄想に取り憑かれていた。さも見てきたようにわらに取りこまれるさまを語っている。もしかすると実際に彼は見ていたのではないか。どころか妄想が命じるまま、わらの仕業だと言って人を殺したのではないか。そしてわらの下に死体を隠したのではないか。だからこそ罪の意識から、自らわらの山に飛びこんで衰弱死するなどという死に方を選んだのではないか?

 つまり叔父という死体が一個見つかった以上は、他にまだ百個死体あるという考え方だ。彼らは〈積みわら〉と言わず、地中も含めて順調に掘っては破壊した。が、彼らの懸命な捜索にもかかわらず、死体は発見されなかった。

 我が一族は安堵した。〈積みわら〉が百も二百もあるわけではないとわかっただけ幸いだ。警察諸君は全身草まみれになって意気消沈した様子であるが、ともあれこれでようやっと我らは本懐を果たすことができる。


 破壊され尽くした積みわらにより、野は一面の干し草の海だ。我らは互いに声をかけあいながら、周縁部から少しずつわらを中央へ押しこみ、まとめるところから作業をはじめた。もはやどこからどこまでが〈積みわら〉なのか、〈積みわら〉自身にも見分けがついていないのではないか。もしも〈積みわら〉がこの海全体へと波及していたのならば、我らはたかだか十数人。海に飲まれるがごとくにして干し草に飲みこまれることになるだろう。だから我々は熊手を長く持ち、決して草の海には足を踏み入れず、一人ずつが懐に火の手を持ち、最悪のときは〈積みわら〉もろともこの身を焼き尽くす覚悟をもって作業にあたった。〈積みわら〉に意志があればさぞ悔しい思いをしたに違いない。実際には、わらは死を待つもののように静かにしていた。凪いで風のない海だ。見つめていると、わらが動いて人を襲うなど、まったくの妄想なのではないかとまで思えてくる。叔父も〈積みわら〉など関係ないただの病死だったのではないか。ならばせっかく収穫した一冬分の穀物をむざむざ無に帰すことなどないのではないか。そのように思えてくる。一族のものはみな〈積みわら〉を伝聞の中でしか知らず、実際に人を捕食しているところを目にしたものはいない。だから叔父も異様な興味でもってあのような手記を妄想から記したのだ。干し草は静かで、人を襲うモンスターなどとはまったくの無縁だ。もちろん、それが〈積みわら〉の戦略であることは言うまでもない。〈積みわら〉は静かで人を襲うそぶりなどみせず、好奇心で近づくものをただ襲うのだ。一番火は叔母が務めた。叔母にはそうする権利があったし、少なくとも一族のものはみなそうするべきであると見なしていた。

 干した草は燃えた。よく燃えて、よく焼き尽くした。

〈積みわら〉はある。この炎の下、何割ほどが〈積みわら〉なのかは知れないが、〈積みわら〉はここにあって、静かに燃えている。我々はいま〈積みわら〉の死骸を見ている。〈積みわら〉の死体を燃やしている。〈積みわら〉の死は、〈積みわら〉が与えるのと同じだけ静かな死であった。





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〈積みわら〉が人を襲う小説 深夜 @bean_radish

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