隣の別荘の家政婦

鐘古こよみ

【三題噺 #62】「チェーンソー」「家政婦」「客」


 念願のFIREファイア、即ち経済的自立を果たして、俺はサラリーマン生活を卒業した。

 さっそく憧れの別荘を買い、平日は基本的にそこで過ごし、週末だけマンションに戻る二拠点生活が始まった。


 別荘敷地内の木は景観を損ねない程度に、自由に伐っていいことになっている。

 薪ストーブを設置したので、一年後には自作の薪を使えるよう、準備しておくというのが当面の目標だ。

 庭を見ると、先の台風で倒木したアカマツがあったので、まずはその処理を行うことにする。

 エンジン式のチェーンソーで枝払いを終え、いったん休憩のつもりでイヤーマフを外すと、どこからか人の声がした。


「こんにちは。隣の別荘の管理をしている者です」


 見れば、共有道に女性が立っていた。

 隣の区画には確か、ホンマ機械工業という株式会社の保養所があったはずだ。

 首の汗をタオルで拭きながら、俺は敷地の緩やかな斜面を伝って、共有道へおりた。


「初めまして。須藤と申します。エンジン音、うるさかったですか?」


 規約では、週末やシーズン以外にはエンジン式チェーンソーの使用も許されているはずだったが、まずは低姿勢でそう訊いてみる。

 女性はにこやかに目を細めて、首を横に振った。


「いえ、大丈夫ですよ。ただ、エンジン式を使っていらっしゃるのが気になって……やっぱり電気式より、パワーがありますよね?」

「ええ、まあ。その代わり重いですし、音もうるさいですが」


 よく見れば、彼女もチェーンソー作業用の防護ズボンを履いている。


「もしかして、そちらも作業中ですか? 太い丸太が切れなくて困ってるとか?」


 女性が使うなら、小型で軽く、音も静かな電気式チェーンソーだろう。あまり長時間は使用できないし、太い丸太は切りにくい。何か困っているなら助けてやろうかと、俺は多少の色気を出した。


「ええ、ちょっとね。モーターが焼けてしまって……」


 女性は曖昧に笑って、俺が倒木の脇に置いてきたチェーンソーに目をやる。


「少しの間、あれを貸していただくわけには、いきませんか?」

「えっ」


 俺は思わず、彼女のつま先から頭の先までを眺めた。ごく一般的な女性の体つきで、特に力が強そうには見えない。電動式に慣れているにせよ、重いエンジン式を貸して怪我でもされたら困る。


「もし良ければ、手伝いに行きますよ」

「ありがとうございます。でも、許可なく人を敷地に入れてはいけない決まりなんです。私、派遣の家政婦なものですから」

「ああ、そうでしたか」


 合点がいって俺は頷いた。

 最近では家事代行業者も別荘の管理業に参入している。正規管理会社の一律な対応では望めないような、細かな要望に応えるオーダーメイド的サービスが好評を博していると聞く。明日の土曜から世間は三連休になるから、社員が保養地を利用しに来るのだろう。そのために、事前のメンテナンスを行っているというわけだ。


「モーター焼けでお困りでしたら、電気式も持っていますから、そちらをお貸ししましょうか。人から譲られた古いもので、壊れてもそんなに惜しくないので」

「本当ですか? とても助かります」


 彼女は俺の電気式チェーンソーを持って、礼を言って帰っていった。

 それから一時間後、道具が戻ってきた。


「本当に助かりました。夜にはお客さんが来てしまうので、時間がなくて」


 ホッとした顔の彼女からチェーンソーを受け取って、俺はふと異臭を感じる。

 どことなく、生臭い。


「若い社員さんがたくさん来るので、すこしうるさくなるかもしれません。それで、もしかしたら誰かが、ご挨拶に伺うかもしれませんけれど、私がチェーンソーをお借りしたことは、言わないでくれませんか?」

「え?」


 それを伝えると、何か困ることがあるのだろうか。

 俺の戸惑いを見て取り、彼女は慌てたように付け加えた。


「よそにご迷惑をおかけしたと、会社に知られては困るので……」


 どこか違和感を覚えたが、反対する理由もなく、俺は頷いた。

 何度も礼を言って帰っていく彼女を見送り、返してもらったチェーンソーの手入れをしてからしまおうと、俺はブレード部分に目をやる。


 木くずは一つもついていなかったが、よく見ると、何か赤黒い、小さなものが引っかかっていた。

 それは触れると柔らかく、指先でべちょりと潰れた。


     *


 親切な隣人にチェーンソーを返し、別荘に戻ってすぐに、携帯端末が鳴った。

 出ると、本家のメンテナンスを任されている家政婦仲間だった。


『旦那様、そっちに行ってる?』

「いいえ、見ていませんけれど」

『全然帰ってこなくて、さすがに奥様が心配しているの。もし見かけたら、連絡をちょうだいね』


 通話を切って。ふふっと少し笑う。

 旦那様の居場所を、私だけは知っているのだ。


「さて、仕上げをしなくちゃね」


 養生シート代わりに使っていたブルーシートを壁や床から引きはがし、窓を開け放つと、室内にこもった生臭い匂いが逃げていった。

 汚れてしまった防護ズボンや上着は、まとめてビニール袋に入れて荷物の中に突っ込む。

 ダイニングに掃除機をかけながら、壁やテーブルに目を光らせた。飛び散った形跡はないか、怪しい汚れはないか。


 夕食は作らず、食材を用意しておけばいい約束だったけれど、お客様が到着したらすぐに何か摘まめるよう、サラダとカナッペを作っておくことにした。

 冷蔵庫を開けると、キッチンペーパーとラップに巻かれた塊が所狭しと並べられている。

 その量の多さに、随分働いたものだと、ため息が出た。


 まさか、こんなことにチェーンソーを使うはめになるとは、思ってもみなかった。

 それもこれも、全て社長の本間ほんますぐるが悪いのだ。


「まずいって言われても恨まないでくださいね、社長」


 静かに冷えている塊の群れを見つめて、私はそっと呟いた。

 そうだ。親切なお隣さんにも、後でお裾分けしに行こう。


     *


 共有道をマイクロバスが通過するのが見えた。

 仕事を終えたホンマ機械工業の社員たちが、到着したのだろう。

 入れ違いのように、俺は明日の朝、マンションへ帰るつもりだ。

 でもその前に、あの事を言った方がいいのだろうか。

 

 俺は、とっくの昔に洗った手の指を見つめる。

 赤い、べちょっとした付着物。

 チェーンソーで切るべきものの中に、あんなものはない。

 あれは一体、なんだったのか。


 玄関のチャイムが鳴った。

 ビクッと肩を揺らし、恐る恐るインターフォンのカメラを見て、俺は息を呑んだ。

 チェーンソーを貸した家政婦だ。


 なんとなく、嫌な予感がしたが、無視するのはもっと落ち着かない気がして、応答ボタンを押す。


「はい」

『こんばんは。昼間はありがとうございました。帰る前にお礼をと思いまして……これ、大したものではありませんが、良かったら召し上がってください』


 そう言って、ビニール袋に入った何かを、ディスプレイ越しに見せてくる。

 なんだ、礼か。そう思いながらも、俺は渇いた喉をごくりと鳴らす。


「わざわざありがとうございます。ちょっと今、出られない格好なので、ドアノブにでも引っ掛けておいてもらっていいですか」

『わかりました。なるべく早めに召し上がってくださいね』

「……あの、それ、なんですか?」


 荷物を置いてさっさと遠ざかろうとする背中に声をかけると、彼女は振り向いて、ああ、と照れ笑いのような顔をした。


『社長のホンマです』


     *


 帰宅するため、車に乗り込んだところで携帯端末が震えた。

 ディスプレイには雇い主の名前。

 まさかこんな狂気じみた仕事になるなんて、どう文句を言ってやろうかと思いながら、私は通話ボタンを押す。


「どうにかさばきましたよ」

 開口一番にそう告げると、相手は少し黙り込んだ。


『ご苦労だった。だが一体、どうやって……』

「チェーンソーですよ。他に道具がありますか?」

『え、料理用の……』

「んなわけないでしょう。普通に木とか伐るやつですよ。解凍の過程で塩水使ってよく洗いましたし、まあ大丈夫じゃないですかね」

『おいおい、雑菌とか入ったらどうするんだ!』

「知りませんよ! そもそも社員にいい格好しようとして大口叩いた社長が悪いんでしょう!? 次の三連休に自分が釣り上げた40キロ級のホンマをご馳走する、でしたっけ!?」


 そう。事の発端は、社員に対する社長の見栄っ張りな発言だった。

 彼は海釣りを趣味としていて、いつか自分で釣ったマグロを社員たちにご馳走するのが夢だったらしい。

 最近、相模湾でホンマグロがよく獲れると聞いて、すっかりその気になり、前述の大口を叩いて出かけてしまったのだ。たまたま奥さんと大喧嘩をして家に居づらくなったことも、きっかけの一つだったらしい。


 約束の週末までにどうにか40キロのホンマグロを釣ろうと、家出同然の海釣りに勤しんでいたものの、釣果はなかなか現れず、時間ばかりが過ぎていく。

 そして社長は、ついに決断したのだ。

 今回は買ったマグロでお茶を濁そう、と。


 一本買いしたホンマグロが別荘に届くから、俺が釣ったということにして、社員たちに振る舞う準備をしてほしい……というダサい依頼が私の元に舞い込んだのは、ほんの数日前のこと。

 呆れながら別荘へ赴き、本日の午前中に届いた巨大なクーラーボックスを開けた私は、慄いた。


 凍ってるじゃん!


「冷凍のホンマを丸のまま送られても困るんですよ! あれの解体は市場で専用の電動ノコギリ使ってやるって知らないんですか!」


『いやあ、別荘を任せている家政婦が前は築地市場で働いていて、どんな魚も捌けるって話と、冷凍ホンマグロ一本買いしたいって話が、いつの間にか、冷凍ホンマグロを捌ける家政婦がいるって話に勘違いされたらしくてな……』


 そう。私は家政婦をやる前、築地市場で働いていた。そこではホンマグロのことをホンマと呼んでいたから、今でもつい癖が出てしまうのだ。


 私は頭を抱えた。個人が釣ったマグロは普通凍らせたりしないから、冷凍状態のものを見せたら、社長が釣ったのではないことが一発でバレるだろう。

 どんなに馬鹿げた依頼でも仕事である以上、ないがしろにしたくはない。

 どうにか捌いて解凍するしかないと決意して、チェーンソーを持ち出したら、負荷がかかりすぎてモーターが焼けてしまったというわけだ。


「お隣の親切な方が代わりのチェーンソーを貸してくださったから良かったようなものの!」

『なに、お隣を巻き込んだのか。そこからバレないか!?』

「念のため、チェーンソー借りたことの口止めはちゃんとしときましたよっ」


 言いながら私はふと思った。さっきお隣さんに、社長が釣ったホンマグロってちゃんと言ったっけ? うっかり、ホンマって言わなかったっけ?


 以前、ホンマを捌いたことがあると言ってしまい、社長にどんな狼藉を……と、家政婦仲間を震撼させたことがあるのだ。


 ま、いっか。


「チェーンソーなんかで捌いたら断面の組織はぐちゃぐちゃで味の保証はできかねますけど、私は知りませんからね。社長の熟成の仕方が悪かったことにしてくださいね!」

『ぐぬぬ、くそう、次こそは必ず……!』


 ちなみに社長は今、青森県に向かっている。ホンマグロを釣るならやはり本場へ行かないと、だそうだ。受け入れ先はマグロ漁師をやっている私の親戚。喧嘩中の奥様にはもう少し心配させておきたいそうで、口止めされている。


 まったくもう。解体料と口止め料、賃金に上乗せしてもらうんだから!


 翌週、隣の別荘は売りに出されていた。



<了>

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