真夜中の交差点

 そうして硬化してしまった彼を、躊躇したまま横断歩道を渡ることの出来ない臆病な彼が見つめていた。彼は渡ること、歩くことが許された深海の、真夜中の時間であってさえも、自分の中の海に揺るがされて、身動きが取れなかった。彼の心はさざなみめくことすらできなかった。彼が逡巡している間にも、交差点は五差路、七差路、九差路と増殖を続けていた。交差点もまた大きな、海底に根をはる生物であったのだろう。彼が渡ろうとしていた対岸はもうすでに何本もの横断歩道を渡らねば到達できない深淵へと落ち込んでしまった。彼は巨大な環状交差点の上に――深淵にひそむRoundaboutという名の怪物の上に――ぽつんと立っている哀れな一人の彼に過ぎなかった。珊瑚と化してしまった彼らのように、何か硬くて大きなものにならなくてはならなかったのだろうか。しかし、真夜中の交差点にたどり着いてしまった彼は、本当は波になりたかったのだった。寄せては返す、明滅を繰り返す一人一人の彼に、その一人一人になりたかったのだった。だが同時に彼は彼の心の奥深く、海中でうなりを巻いている性欲が、何かと結合しようとする欲求が、はらわたに潜む淋しさが、恐ろしかった。下腹部の海と、脳の中の海と、その混淆が恐ろしかった。彼はいつもたくさんの彼が押し寄せてくることに怯えて防潮堤を築き上げることばかりを考えていた。だのになぜ、こんなところまで来てしまったのだろう? 冷たい海流が押し寄せてくる。もはや抵抗はできない。僕はパンになりたかっただけなのに。横断歩道の向こう側に、もう一人の彼が立っていた。振り返ると、背後につづく横断歩道の先にも、もう一人。それどころじゃない。彼の足もとには無数に続く横断歩道が蜘蛛の巣のように伸びており、その先には無数の彼が立っている。信号が青になる。無数の彼はさざなみのように押し寄せてくる。彼らは無数のペニスを奮い立たせて、こちらに歩いてくる。彼らは間近に迫るやいなや、いっせいに放尿した。しかしそれは水中ではもやとなって漂うばかりで、彼は曇り硝子のような透明な煙に包まれていた。彼の太腿や手の甲やうなじに、彼の四方に、温かなさざなみが寄せては返していくのがわかった。彼ははじめて、肉体の体温を、彼自身の海によって温められた体温を、その全身をもって感じているのだった。


 彼の瞳に、春のきめ細かな雨が、粒子のように降り注いだ。驟雨だった。

 彼は空を見上げていたわけでもなく、ただ心ここにあらずという体で、海の底を懐かしみながら、老犬よろしくぶるっと身震いした。雨に濡れることは、そこまで不快ではなかった。これほど細やかな雨だからだろうか。大気の熱に温められて、彼の身体はしっとりと濡れつつも、どこか温かな海流に流されている心地がした。

 向こうでも雨が降っただろうか? 覚えていない。彼は港をぐるりとまわるように家路を辿りながら、先月訪れた香港の情景を思い出そうとした。一週間近く滞在して雨に降られていないというのは何かとても大きな損失、果たせなかった経験のように感じてきた。しかし彼は何度となく香港島と九龍半島を往復し、時にはマカオまで高速船にすら乗ったのであり、海には親しんでいたように思える。しかし、船の窓を洗っていた飛沫は決して雨ではなかった。香港の海は彼にとって――そして多くの旅人にとって――海路であり、そこに身を沈めるような生々しい接触を伴う海ではなかった。彼がそのことに気づいたのは帰って来てから観た香港映画の死体を海から引き上げる場面によってであるということに、彼は今更ながら思い至った。彼は香港で降らなかった雨を頭の中で降らせてみることにした。高層ビルの大群に両側から睨みつけられても平然としていた大河のようなあの海をもう一度思い浮かべ、絵筆をとり、その絵筆の大仰さに引け目を感じ、シャープペンシルに持ち替えた。眼を閉じて、息を吐きながら、斜めに線を引いていく。歌川広重の描いた隅田川の大橋のように。あの絵を知っていてよかった。香港を歩く膨大な数の人々が俄雨に慌て

て走り出す。そして彼もまた、不意に強くなる雨の下をたくさんの彼と共に走りながら帰らねばならなかった。香港と彼の海はこうして繋がった。

 彼は濡れそぼった身体で玄関に辿りつき、そのまま浴室へと向かった。彼はいつも横着をして入浴時に髭を剃るのだが、洗面台で充電している電動シェーバーをいつも浴室に持っていくことを忘れて……その時は忘れなかった。彼は遠慮なくぼこぼこ顔にぶつかってくる大粒のシャワーを浴び、髭を剃り、湯に浸かった。彼はぶるぶる震えながら洗面台まで電動シェーバーを取りにいくはだかの彼を思い浮かべた。間抜けだがどこかいじらしいところもある。

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驟雨 石川ライカ @hal_inu_

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