驟雨

石川ライカ

マントウの海


 直方体の細長い食パンほどの質量をもった水の塊が、なんのためらいもなくコンクリートの階段にぶつかり、はじける。たちまちここで失われた過去など何もなかったかのように、水は散り散りになって姿を消し、巨大なマントウを思わせるはち切れんばかりの海という塊に逃げ込んでいく。春のやわらかな日射しがさんさんとふりそそごうとも、その内部を充たす餡まで到達することはないだろう。

 コンクリートの階段は無数のフジツボに覆われていて、その階段自体が海の中から少しずつ這い出てきたかのような得体の知れない感触がする。海の中へと続いているその階段は、突然すとんと真っ暗な海の底へと転落死するために歩かされる痛みに満ちた処刑台のようであった。彼はその上を歩いていく自分を想像し、その時果たして自分は靴を履いているのだろうかと自問した。それが天国に向かう階段であれば出発の証明として律儀に靴を揃えてもいいが、ただ海のなかに足を浸すために靴をそこに置いておいたというだけにしか受け取られないかもしれない。素足でその階段を下りる時、足の裏はフジツボの形に変形し、それは海の形を上から模った鋳型のようになるだろう。そしてその足が真に海を知るのはそのズボンの裾口がびしょりと濡れることによってだ。むしろ靴を履いたまま海に足を踏み込む方が冒涜的だろうか? 海水浴客や釣り人に混じって土足で海に踏み入れる。彼はそんな自分の後ろ姿を見送ったあと、波に洗われている長方形のコンクリートの塊から腰を上げた。


 自分の生活は素潜りのようなものかもしれないな、と彼は思った。彼の肉体は現実を離れて冷たく暗い水の中に沈んでいく。それも自然の力によってではなく、息の続く限り、力を振り絞って。しかし頭の片隅では常に帰り道の長さを考えながら、その時の最高深度を求めて水を蹴っていく。水中は暗く、苦しい。そこに何かが見つかることはない。何かを見つけようとするのなら、それは陸上に流れている無限にも似た日中の時間を使って広大に、計画的に行わねばならないだろう。水の中に足の指先からそろそろと入っていく時、自分は茫漠とした闇の世界に身を浸している。

 彼は海に向かって無謀にも突き出した防波堤の先っぽから引き返しながら、いま自分がその上底を伝って歩いているケーソンの巨大な直方体を想った。そして海から突き出した階段を下へ下へと歩き続ける自分をどこまで維持できるか試してみることにした。自分が複数いるというのは彼にとっては別段不思議な事ではなかった。彼は別行動を行う自分を自在に夢想し、存在させることができた。それは例えば向こうの川べりに、それは例えば対向車線の向こう岸に、彼は歩いている自分の姿を容易く見つけ出した。川のような何かを挟み込むことで、線対称の向こう側に自分が現れる。それは幾何学的な操作と言ってもよかった。点対称だって容易だ。彼はリオデジャネイロの港をとぼとぼと歩いている自分を容易く見出した。その自分は彼と変わらずに憂鬱そうな顔で歩いていたが、彼はそんな自分が堪らなく憎かった。防波堤から突き落としたいと思った。しかし海の中に沈み、魚の餌となる自分の姿すら容易に現れてくるのだった。「とぼとぼと」という言葉もまた点対称だった。真ん中の「と」を中心としてそれは彼の頭の中でぐるぐると回転していた。こんな言葉が「私」を構成する原子の運動だとでもいうのであれば、リオデジャネイロの彼が直方体の上の自分を憎む理由も充分にある、と彼は思った。――私は私の中の海がこわい。それは砂浜のように地続きにこの私の意識と繋がっているだろうか。それとも、切り立ったコンクリートで固められた港のように、すとんと見えない深淵まで落ち込んでいってしまうのだろうか? そして「海」の中を泳ぎ回っている無数の「私」がこわい。


 しかし、彼は海の中へ階段を下りていく彼をまだ維持することに成功していた。彼は海に沈んでいく肉体の冷たさを感じた。彼は泳ぎが得意な方ではないので、活発に海で泳いできた経験を持たないのだが、それでも、海の上を漂っていたある瞬間に、見えない境界線を超えてしまった途端に、自分を包む布のように感じていた海の体温が突然布を引き剥がして残酷な冷たさに変わる、そんな瞬間を思い出した。彼は身震いし、身体の芯を冷やす海の途方もない冷たさに慄いた。その冷たさは真夜中だった。その暗さ、覗き込めばどこまでも広がる巨大な黒も真夜中だった。彼はまだ降下している。階段はいつの間にかなくなってしまい、それは「降下」というよりはむしろ「落下」という方が正しいのかもしれないが、彼は自分の意志で、制御できなくても彼の選んだ方向にむかって、降下しているのだった。たとえば真夜中の交差点で、四方の暗闇から最も暗い道を見つけ出すみたいに。やがて見えてきた海底はうすぼんやりと明るく、水底にはほのかに白く光る横断歩道が見えた。チカチカと心細く光っている信号機は無数の珊瑚に覆われ、何か別の意味を伝えようとしているオブジェのようだった。彼の心はさざなみめいてきた。彼は信号機の真下へと漂っていくと、それが硬化した自分の集合体であることに気づいた。この明かりに引き寄せられ、息絶えて、もはや構造物と何ら変わらないような存在になってしまったのだろうか? しかし、珊瑚がそうであるように、彼らは、死につつも生き延びるために寄せ集まっている。おそらく、彼らは光に集められたのではなく、彼ら自身が「彼」から「彼ら」となることを選択したのだろう。何か複数の生きものの集合体に。彼は骨になってしまった自分の上にやさしく体を密着させた。それは歪で、ごつごつしていて愛想のかけらもないが、かわりに背中や耳元でそよぐ海流が流れ込み、彼らの骨の中を通り抜けると歌になってまたマントウの塊に戻っていくような、不思議な交流の気配がした。彼は複数体の自分を想った。あの巨大なマントウはあまりに恐ろしいが、自分もまた焼きあがってわずかな時間の間だけ熱と香りを放出するパンたちの一員くらいにはなれるだろうか。彼の中のイースト菌が「無茶いうなよ」という顔をしていた。

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