あの美しい水平線が、私に生きる希望を与えてくれた

千織@山羊座文学

私がどん底の人生から立ち直る話

 内陸に生まれ、内陸で育った私は、大人になって初めて海に行った。


 磯の香り。絶え間ない波音とうみねこの声。眩しいくらいきらめく海面。視界の端まで海と空ばかりの青い世界。海は広いな、大きいな。その歌の意味を、初めて実感した。


 お気に入りのワンピースを少しめくりあげて、海に入った。砂の柔らかい感触が足裏に広がり、ひんやりとした水が足首をくすぐる。


 後ろを振り向くと、サトルは浜辺に降りるための階段に腰掛けて、タバコを吸っていた。こちらを微笑んで見ている。私にお父さんがいたら、こんな感じなんだろうか。


 私は自営のネイリストをしていた。でも、なかなか仕事が軌道に乗らない。足りないお金をホステスの収入で補っていた。そこで出会ったのがサトルだ。話が面白くて人懐っこくて、でも男らしくて。あっという間に男女の仲になった。


 サトルは建築関係の仕事をしていて、日雇いだから収入が不安定だった。でも、先輩との付き合いは断れない。夜遊びのためのお金が必要だった。


 最初は多少貸してあげるだけだったが、徐々に小遣いのように渡すようになり、さらにサトルは家に転がり込むようになった。生活費は私が出すことになっていった。


 貯金を使い果たし、消費者金融から借りた。でも結局返済期限にお金が間に合わず、さらに別のサラ金に手を出す。こうして借金を借金で返しているうちに、借金はあっという間に雪だるま式に増え、闇金に手を出さざるを得なくなった。


『返せないなら、それなりの仕事をやるしかない』


 そう言われて、とうとう風俗までやるはめになった。そうまでしたのに、ある日からサトルは帰って来なくなった。どうやら、本命の女がいたらしい。



♢♢♢



 サトルを職場で待ち伏せて、本命の女のアパートに帰るのを尾行した。


 さびれたアパートの一階。


 サトルが鍵を差し込み、家に入った瞬間に、背中に体当たりして押し入った。


 よろけたサトルの頭に金槌を振りかざす。


 躊躇してはいけない。反撃されたら絶対に敵わない。今、この瞬間に殺さなくては。


 何度も何度も何度も金槌を振り下ろした。鈍い衝撃に手が痺れたが決して金槌を落とすまいと握りしめ柔らかさやべちゃりという感触やマスクにやゴーグルに飛び散ってくるあれこれを受けながら私はひたすら作業に没頭した。


 サトルは、私を認識する前に死んだ。


 私は、飛び散った頭を寄せ集めて、ビニール袋で覆った。


 路駐していた車をアパートのドアの前に移動させ、バックドアを開けて、後部座席を倒した空間にサトルの死体を積み込む。


 誰も、近くを通らなかった。


 神様というものは私の味方なのか、そもそもいないのだろうか。



♢♢♢



 私のお気に入りの水平線が見える崖に辿り着いた。そこからサトルを転がして落とす。途中で引っかかることなく、うまく荒波に落ちていった。


「お見事ですね。どうでしたか、初めての殺人は」


 いつの間にか、後ろに黒いスーツの男が立っていた。


「はい。想像以上にうまくいきました。自分がこんなにあっさりと人が殺せる人間だったとは、知りませんでした」


「普通、銃で殺すよりナイフで殺す方が罪悪感は強くなります。つまり、直接的に手を下す方が躊躇いが大きいはずなのです。そこから考えると、初めての殺人で金槌を選び、自分より力のある男を仕留めるとは、その大胆さには恐れ入りました」


「ええ。もしかしたら、彼の姿を見たら楽しい思い出が蘇って、殺せないかもと思っていましたが、一秒たりともそんなことは思い出しませんでした。殴っている間に、楽しくなってきてしまって。人間の顔や頭がこんなにぐちゃぐちゃになるなんて、滅多に見られませんから」


「お約束通り、今から貴女の身の安全は私たちが保証します。今後も私たちと一緒にこのような仕事をやって、その報酬で借金を返済しましょう。あの程度の金額なら、すぐ返せますよ。平気で人を殺せる女性は貴重ですから」


「はい! よろしくお願いします! 殺人の才能があるかどうかなんて、知る由がなかったんで、今回、機会に恵まれて良かったです」


「では、こちらの場所に改めて集合で」


 男は私に地図を渡してきた。そして、男は先に車で行ってしまった。


 辺りはすっかり暗くなり、海と空の境目がわからないくらいになっていた。あたりに明かりはなく、何ごともなかったように星が輝いている。海は、昼間の穏やかさと変わらぬ波音を立てていたが、今は巨大で真っ黒な液状の生物がそこに蠢いているように見えた。サトルは、その生物と一体になって、溶けて無くなっていくのだろう。


 初めて風俗の仕事を終えた日、ここに来た。死のうと思っていた。自分がバカすぎて、嫌になったのだ。でも、あの水平線を見たとき、「地球って、丸いんだな」と、思ったら、なんで私がこんなことで死ななきゃいけないんだよ!と怒りが湧いてきた。


 せめて、アイツを殺してからにしよう。


 この海の偉大さに比べたら、死は、生物が自然に還るにすぎない。”殺人”なんてただの死の内訳であって、地球規模で見たらちっぽけな話だ。警察に追われて、面倒になったら私も死ねばいいのだ。元々死のうとしてたんだから、タイミングがちょっと遅くなっただけ。ささいなことだ。


 そう思って、海を眺めていたときに、さっきの男に話しかけられたのだ。


『人を殺せる人材を募集しています。応募してみませんか? 採用試験の内容は、誰でもいいから、一人以上殺すこと。殺人計画を提出していただき、実技を観察させていただきます。合格基準は、死体発見まで一日以上空くこと、または、逮捕まで一日以上空くことです』


 目撃者もおらず、死体は海の中、奴の彼女は夜の仕事だから通報は明日の午前だ。まず、死体がすぐには見つからない。即合格というわけだ。


 昼の海も爽やかで輝いていて好きだったが、今の私には夜の海が似合う。ウキウキ気分で車に乗り込み、指定された場所に向かった。


 あの美しい水平線が、私に生きる希望を与えてくれた。あなたも、生きるのが辛くなったら、海を見に行くといいですよ。



(完)


▼数字男▼※世界観が繋がっています。

https://kakuyomu.jp/works/16818093080305872752/episodes/16818093080305887437

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