貴妃の男、あるいは緩慢な死

雨 杜和(あめ とわ)

第1部

第1章

あなたに耽溺し身をやつすことを私に求め




 泡沫の夢のように、中庭で黄橙に色づいた葉が死にいそぎ、はらりはらりと散っていく。


 後宮という牢獄から見る景色は四季折々、常に変わらない……、と。


 そのさまを眺めていた淑華シューホアは、とげとげした気分を隠そうともせず佇んでいる。つまるところ、彼女は少し退屈していたのだ。

 その理由を夕闇が近づく魔の刻に問題があると思うことにした。


 常のことだが、夕刻がせまると後宮は落ちつかない空気におおわれる。それはこの場に住むものの宿命かもしれない。

 帝が、どの部屋に訪れるのか。

 声をひそめ、固唾を飲み、どの妃も、たとえそれが寵妃であろうとも、帝の足音に聞き耳を立てる。


 淑華シューホアも、この空気がまとう重苦しさに影響される。


 文机に頬杖をついたと思うと、ついっと立ち上がり、あっちの部屋に行ったり、こっちの部屋に戻ったりと、無闇に歩きまわった。

 この衝動的な気分には馴染みがあった。


「やはり、退屈って虚しいものね」

「わたくしの聞きまちがいでしょうか、貴妃さま。退屈とか虚しいとか聞こえましたけれど」


 侍女の楊楊ヤンヤンは、ふたりしかいない時は常にあけすけである。


「聞かなかったことにしてなさいな」

「そこは、よろしいのですが。そのように歩きまわる姿を見ているわたくしの虚しさをご存知でしょうか」

「愚かな子ね」


 淑華シューホアは仏頂面をする楊楊ヤンヤンを眺め、ようやく安心したような笑みを浮かべた。


 帝である朱棣林シュ・ディリンの妃として後宮に入り、すでに二十年という歳月が流れた。


 いくつかの不幸な思い違い。

 いくつかの女たちとのいさかいや嫉妬。

 わずかばかりの愛情。


 淑華にとって、それらの歳月は単なる時の流れでしかない。


 幼い頃から絶世の美女と評判だった彼女は、しかし、美人にありがちな冷たさがなく、ほっこりと包みこむような優しさをもつ稀有な女性だ。


「さあ、鏡の前におすわりください」

「……皇后さまが亡くなったからといって、差配(後宮の運営)をするなど、わたくしが代わりを務められるはずはないのに」

「ですから、愚痴などという贅沢を言っている場合じゃございません。もう亡くなられて半年も過ぎているのです。いいかげん、お役目を全うしてくださらなければ」

楊楊ヤンヤン、きちんと各局からの報告には目を通したわ」

「それはご苦労さまでした。では、夜着にお着替えください。わたしめも、休みたいのです」


 淑華はその言葉に素直にしたがって、鏡台の前をすわった。


 楊楊が化粧を落とし、髪飾りを外すに任せながら、冷徹な目で鏡に映る自分の顔をながめる。

 三十五歳の肌、三十五歳の容貌。

 首に刻まれた一本の線を、目尻に薄く入ったシワを、頬の軽いたるみを、絵師のように丁寧に観察した。


 自分の美貌に気を使い、帝の寵愛に血道をあげる他の妃とは異なり、淑華シューホアにとって、それは単なる観察に過ぎない。

 どのように、若かった自分が老いていくのか。それに抗う別の淑華シューホアが苦笑いを浮かべている。


「貴妃さまは年を重ねられても、お美しゅう存じます」

楊楊ヤンヤン、それは、あなたの願望なの?」

「いえ、これだけは事実を申し上げております。帝が貴妃さまの美しさを理解されてないのが不思議です」

「帝にとって、後宮も女も占める割合は二割くらい。妃たちにとって、帝は全世界でしょうけど。これは悲劇じゃなくて喜劇ね。永遠に埋まらない溝だわ」


 あの麗しく勇ましい朱棣林シュ・ディリンは、誰に対しても愛情など持っていない。いっときの情熱と打算はあるのかもしれないが。


 無意識に淑華シューホアの唇から吐息がもれた。この動作は帝との夜を思い出させた。それがいつのことだったのか、もう定かではないのだが。


 それは、ただの吐息で、そう、ただの吐息でしかない。


 過去の情景が思い浮ぶ。まだ暑さの残る頃だった。

 あの夜の帝がどんな顔だったのか思い出せない。ただ、彼の体に流れる汗が懐かしい。


 夜の燭台に照らされた帝の身体を一筋の汗が伝っていく。


 筋肉質で引き締まった身体には多くの刀傷が刻まれている。

 その古傷からも戦国時代を勝ち抜いた彼の過去は、容易ではなかったと知れる。それだけで、彼女は帝を許したい気持ちになる。


 あの夜、胸から腹部のかけた最も深い傷にそって、一雫の汗が流れていった。思わず、彼女は快楽の吐息を漏らす。帝の動きが止まった。

 

『どうしたのだ』

『いえ、ただ』

『ただ?』


 ただ、こんなふうに人は快楽で死ぬのだろうか。

 その言葉を秘め、夜の燭台の灯りに浮かぶ帝の身体を眺める。胸が高鳴り、どくんどくんと身体中の血管が脈打った。


『何も言わないで……、つづけて』と、細い声をもらす。


 あの夜が境だったかもしれない。その頃から帝は部屋を訪れはするが、それだけで帰っていき、淑華を抱くことはなくなった。


 これから先も、枯葉が土に埋まっていくように、この後宮に閉じ込まれたまま緩慢に死んでいくのだろう。


 吐息が、ひとつ、ふたつ……、半ばに開いた唇からもれる。


 枯葉の舞う優雅さよりも、散ったあと泥にまみれた葉の重なり。打ち捨てられた自分を甘んじることに苦痛がないと言えば、きっと嘘になる。

 

「散るときは、あのように未練なくしたいもの。打ち捨てられたものなど、美くしゅうもない……」

「貴妃さま。それは」

「聞こえないふりをなさいな、楊楊ヤンヤン

「茶を淹れて参ります」


 ぼんやりと庭に視線を移すと、ふと背中に気配を感じた。そっと振り返る。

 しかし、そこに誰もいない。


 同じ部屋、同じ季節、同じ時間、少しひんやりとした空気。


 しばらくして、夕闇にまぎれ、多くの人が歩く騒音が聞こえてきた。

 帝が侍従や女官たちを背後に後宮に訪れたのだ。


 淑華シューホアの部屋は『秋の間』と名付けられ、紅葉の時期がもっとも美しい奥院にある。

 彼が渡り廊下を歩く姿が、『秋の間』の丸窓から目に入った。背筋を伸ばした帝は、堂々とした態度で大股に歩く。


 その姿に、どこか寂寥感が漂う。


 四十歳をすぎた頃から、彼の顔から甘さが消えた。

 誰にも、決して「否」と言わせない厳格な顔になった。彼は命じ、他の者は「御意」と答える世界は、孤独でしかないだろう。


 帝は休む間もなく働きつづけ、半ば義務のように後宮を訪れる。


 今、帝が執心なのは後宮に入ったばかりの若い紅花ホンファである。その部屋は『春の間』と呼ばれ、淑華の部屋からは中庭を隔てた対面にあった。


 先日、紅花ホンファは四夫人のひとつ『徳妃』の地位に任じられ、紅花ホンファ徳妃と呼ばれるようになった。


 帝の一行を横目に戻ってきた楊楊ヤンヤンは、憎々しげにつぶやいた。


「くやしゅうございますね。あの女、若いだけの、なんの取り柄もない。それどころか、頭のなかに綿でも詰まっているのかというほど愚かな振る舞いばかりしていますのに」

楊楊ヤンヤン

「淑華さま、もう少し、お怒りになってもよろしいのです。あの女に尊い身分まで与えられるなんて。帝は何を考えてらっしゃるのか」

「その意味があるからよ。帝は無作為には動かない方だから」


 後宮に住まう妃たちには階級がある。

 もっとも高い身分は皇后であり、それにつづくのが四夫人。貴妃、淑妃、徳妃、賢妃と順に呼ばれる。その下には、さらに九賓、世婦がいる。『徳妃』は四夫人にあたり、後宮では四番目に高い地位だ。

 半年前に皇后を失った今、紅花ホンファは後宮で二番目の地位である。


「紅花さまは丞相の孫娘よ。徳妃の地位でも低いくらいだと思うわ」

「まさか、彼女が皇后になられるのですか? 貴妃さまは、お人が良すぎます」


 帝には亡くなった皇后との間に三人の皇子と、別の妃が産んだ皇子がひとりいる。


 二十年近く後宮に住む淑華シューホアは、貴妃の身分を与えられ地位は高いが、帝の子を産んではいない。


 将来の禍根を断つために、皇后の命で妃たちが子を産まないように「不妊薬」を飲まされていたからだ。

 しかし、その皇后も四十八歳で崩御した。帝と同年であり、若いころは彼とともに戦地を巡り歩いた戦友であった。


 人の世は儚いとは言うが、こうした時は、なんと遅く、ゆったりと過ぎていくことだろう。


 脇息きょうそくに身体をあずけたまま、淑華は頬から、首もと、そして、薄ものの下に隠れた白磁の肌に触れる。しっとりと吸い付くように脂がのる女盛りの肌に、もう触れる者は誰もいないだろう。


「茶が入りました」


 侍女の声に、「そう」と応えるのも億劫なことだった。




(つづく)

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