ぴーひょろりな水曜日
香久山 ゆみ
ぴーひょろりな水曜日
むーちゃん熱を出して、今日は学校お休みです。
いつもは弟のともくんと二人で寝る部屋なのに、昼間からひとりでお布団に入っているのは何だか変な感じ。ともくんはいつも通り幼稚園へ行きました。
下の階からは、お母さんがカチャカチャと朝ごはんの片付けをしたり、ゴウゴウ洗濯機を回してパンパンとベランダに干す音がします。
お母さん、早く様子を見に来てくれないかなあ。むーちゃんは少し心細く思いました。だって、病人なんですもの。咳が出るし、熱もあるし、頭も痛い気がするし、お腹もぐるぐるして気持ち悪い。げえ出そう、ってむーちゃん思いました。それで、寝たままゲロゲロゲロとげぼを吐きました。髪の毛にも枕にもげぼが付いて、むーちゃんは悲しくてしくしく泣きました。
そうしたら、お母さんが飛んできました。
「むーちゃんたら! また寝たままげえしたの?!」
げえする時は洗面器に吐いてねって言ってるのに、ってお母さんはむーちゃんの枕元の洗面器をポンと一回だけ叩いてから、慌ててタオルを取りに行きました。お湯で塗らしたタオルでむーちゃんの顔と髪の毛を拭いて、枕カバーとシーツを交換してくれました。
「次はちゃんと洗面器にげえするのよ」
と、ぴかぴかの枕の上のむーちゃんのおでこに掌を当てて「大丈夫?」と言いました。
「……しんどいの……」
むーちゃんはなるべく元気のない小さな声で答えます。
本当は分かってます。弟のともくんだって洗面器にげえできます。けど、お姉ちゃんのむーちゃんはいつも寝ながらゲロゲロしてしまいます。それでいつもお母さんが助けに来てくれるの。
「お昼ごはん、うどん食べれる?」
「うん」
って返事したのに、むーちゃんは「もういらない」とうどんを少し残しました。「大丈夫?」って聞かれて、「しんどいの」と答えました。
「何か食べられそうなものある?」
「みかんのゼリー」
それでお昼ごはんの後、お母さんは買い物へ出掛けました。
おうちの中はしんとしています。
今日の給食はカレーライスだったな。お昼休みは皆でドッジボールしてるのかな。そんなことを考えながら小学校の方角へ耳を澄ませてみたけれど、車の走る音や鳥の鳴き声が聞こえるだけです。こっそりテレビをつけてみたけれど、ひとりで見るテレビはなんだかあまり面白くありません。
お腹へったなあ。だってげえ吐いたし、うどんも残したんだもの。
キキッと家の前に自転車の止まる音がしました。お母さんが帰ってきた! 玄関のドアが開いて、台所でゴソゴソ物音がします。むーちゃんはそっと布団から抜け出して、階段を下りて、台所を覗きました。
「ゼリー、あった?」
「あったよ」
お母さんはみかんゼリーをむーちゃんに向けて見せてくれました。
「食べる?」
「うん」
テレビを見るお母さんの横でみかんゼリーを食べました。むーちゃんのお気に入りのやつです。
「おいしい?」
お母さんに聞かれて、むーちゃんはこくんと頷きました。
「ゼリー食べたら、寝なさいよ」
「一緒に寝よう?」
「お母さんは掃除して夕ごはんの準備しなきゃいけないから、駄目だよ」
「少しだけ」
「仕方ないなあ、少しだけね」
そう言って、お母さんはむーちゃんに布団をかぶせて、おでこに冷たいタオルを乗せてから、むーちゃんの布団の横に寝転びました。
「絵本読んであげようか?」
「ううん、大丈夫」
お母さんはむーちゃんの布団をやさしくぽんぽん叩いてくれます。ふんふんと小さな鼻歌を聴きながら、むーちゃんはいつの間にか眠っていました。
途中で一度目を開けた時、隣でお母さんもすうすう寝息を立てていました。それで安心して、むーちゃんはまた眠りの国へ行きました。
夢の中で、むーちゃんはお母さんと二人だけの秘密のことを思い出していました。
もう二年も前のことです。むーちゃんはまだ幼稚園生でした。体が丈夫であまりお休みすることのないむーちゃんでしたが、一度だけ幼稚園をズル休みしたことがあります。
「むーちゃん、今日は幼稚園お休みして、二人でお出掛けしようか」
ともくんを幼稚園に送ったあと、お母さんがむーちゃんにこっそり言いました。
「いいの?」
だって、むーちゃんどこも病気ではありません。
「いいよ」
それで、むーちゃんはお母さんの自転車のうしろに乗って、近所のショッピングモールまで行きました。ゲームコーナーでコインゲームをしたり、お母さんとエアホッケーゲームもしました。お昼ごはんはお母さんがラーメンとチャーハンセットで、むーちゃんはミニラーメンを頼んで、小さなお椀にお母さんのチャーハンを分けてもらいました。本屋さんで絵本も一冊買ってもらって、ともくんの送迎バスが来る前に家に帰って、「ともくんには内緒ね」と言いました。
内緒だから言っちゃいけないんだけど、むーちゃんは幼稚園をズル休みしてお母さんと遊んだのがうれしくって、何度も何度もその時のことを思い出しました。お母さんは秘密の遊び相手にむーちゃんを選んでくれたんだ。
その思い出はむーちゃんの宝物で、だからむーちゃんはいつだって安心して布団に寝たままげえ吐くことができるのでした。
いつかむーちゃんが大きくなったら、今度はむーちゃんがお母さんをどこか遊びに連れて行ってあげよう。けれど、それはきっとずーっと先のこと。だって、今日一日さえこんなに長いのに!
むーちゃんの目が覚めた時、隣にお母さんはいませんでした。
窓の外からは、小学生が下校する声が聞こえます。三時半です。弟のともくんのお迎えの時間です。
喉が渇いたな。お茶を飲んで横になると、また少し気持ち悪くなりました。吐きそう。
家の前で、ともくんとお母さんがお喋りする声が聞こえます。帰ってきた。吐きそう。
むーちゃんはぎゅっと目をつぶったまま少し考えて、よろよろ起き上がりました。それで、洗面器の上でげえしました。ゲロゲロって吐いて、髪の毛の端っこに少しだけ付いちゃったけど、ちゃんと全部洗面器の中に出しました。
ふう。とても疲れて、むーちゃんは布団の中で丸くなりました。
お母さんが部屋に戻ってきました。
「あら、むーちゃんまた吐いちゃったの。大丈夫?」
お母さんが頬をぺたっと触って、むーちゃんはこくんと頷きます。ちゃんと洗面器にできたこと褒めてくれてもいいんだよ。と思っていたのに、お母さんはさっさと洗面器を持っていって、新しいのに交換して、「夕ごはんできたら、また声掛けるね」と言って部屋を出て行ってしまいました。
リビングからは、テレビの音とともくんの元気な声が聞こえます。
むーちゃんはそろりと布団から出て、ティッシュペーパーを一枚取って髪の端に付いたげえを拭きました。それをゴミ箱に捨てて、布団に戻って、もう少しだけ寝ることにしました。吐いたら少しだけ気分が良くなった気がします。
枕元に洗面器があることも分かっています。大丈夫。
だって、むーちゃんはお姉ちゃんなのですから。
ぴーひょろりな水曜日 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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