思い出の部屋

壱単位

思い出の部屋


 見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。


 窓から差し込む午後の日差しをうけて、ざらりとした感触の紙は穏やかな橙色に染められている。その表面をゆっくりと手のひらでなぞりながら、わたしは小さくため息をついた。


 彼の家、駅から十分ほどの中層のマンション。

 賃貸だから、彼が亡くなった以上は、ほんらい解約されるべきものだ。

 だけど彼の両親は、そうしない。

 彼の死は事件として扱われたから、その直後は警察の捜査のために部屋をそのままにしておかなければならない。が、すでに半年が経ち、あらかたの捜査はとうに終わってしまっているはずなのだ。

 それでも、部屋は残されている。

 その意味はわたしには、痛いほどによくわかる。


 彼は、両親がともに三十代半ばになってから生まれた子だった。

 大事にされたらしい。といって過保護でもなく、良い躾をされたのだと思っている。彼がそう言ったのではない。ずっと、ずうっと、彼を見てきたわたしにはそのことがよくわかるのだ。

 よく笑い、よく食べ、ときおり拗ねる、少し甘えん坊な彼は、両親の、そしてわたしの宝物だった。


 合鍵を返さなければ、と何度も思った。

 だけど、できなかった。

 それをすれば、本当に二人の時間が停止してしまうと思ったからだ。 

 あの日、歩みを止められてしまった、彼とわたしの時間が。


 時おりわたしは、こうして彼の部屋をひとりで訪れる。

 家具も服も、本棚も、最後にここで彼と会った日のまま。

 それでも、ひとつだけ違う点がある。

 部屋のまんなかにわずかに残った、黒い染み。

 刃物を突き立てられた彼の胸から流れた、いのちの跡だ。

 わたしはそれを、怖いとは思わなかった。


 革のしっかりした装丁の日記帳を、彼は使っていた。

 いまどきの二十代後半、わたしと同世代で、そうしたものを使うひとが何人いるだろう。携帯端末やパソコンで手軽にメモをとれる時代だ。わざわざ毎日ペンをとり、ページをめくる行為は、彼の心のどんな部分を埋める役割を果たしていたのだろうか。

 表紙をゆっくりと持ち上げ、静かに空気を押し潰し、閉じる。デスクの抽斗を引き、元の位置にそれを戻す。


 ちょうどその時に、玄関のほうから音が聞こえた。

 居間と廊下を隔てる扉が静かに引き開けられ、二人分の影が入ってくる。

 彼の両親だった。

 先月、今日と同じようにこの部屋で出会した。両親の目的もわたしと同じだ。彼の匂いを、感触を、更新するためにやってくるのだ。

 だが、わずか数週間で、彼らの頭には白いものが目立って増えていると感じた。


 わたしは窓のそばに避け、小さく会釈をした。

 父親はわたしのほうをちらりと見て、なにも言わずにソファに腰を下ろした。母親はそのまま台所にはいってゆく。


 「……日記帳、ごめんなさい、見てしまいました」


 わたしは俯きながら、小さな声を出す。


 「この間、お父さん、お話されていたから。あのひとの日記帳、やっと警察から帰ってきたって。辛くて、いままで見ることができなかったけど……今日、読ませていただきました」


 父親は眼鏡を外し、膝の上に置いた。ふう、と息を吐く。

 

 「……でも、わたしが知ってることばかりでした。彼はぜんぶ、ぜんぶ、わたしに伝えてくれていたんです。どこに行き、誰と会い、なにをしたのか。なにが好きでなにが嫌いか。毎日の暮らし、息遣い、わたしは、ずうっと……」


 堪えきれず、わたしは口を押さえた。いくつかの深呼吸でようやく落ち着く。


 「だけど、ひとつだけ、わからないこと……わたしが知らないことがありました。彼が亡くなる数日前の日記です。警察……通報、って読み取れました。だけど、あとは文字が掠れてしまって、読み取れなくて……」


 さっきそのページに辿り着いたとき、わたしはめまいのような違和感を感じたのだ。まるでなにかの液体をかけたかのように全体が歪み、文字が消え掛かっていた。前後のページには問題がなかったから、飲み物をこぼしたというわけでもなさそうだった。


 「……警察は、このこと、気づいたんでしょうか。気づきましたよね。きっと、犯人につながるヒント、ですよね。お父さん、警察のひと、なんて言ってたんですか」


 が、父親は言葉を返さない。

 こちらをじっと見て、眩しいものを見たかのように目を擦り、立ち上がった。わたしの声など聞こえなかったかのように台所の方に向かう。


 「お父さん……」


 二、三歩、追いかけて、わたしは足を止めた。

 間違っているのだろうと思った。

 もう、時間は止まっているのだ。

 そうして、止まった時間に、彼らは生活を……心を、適応させようとしている。

 ふいに涙を堪えられなくなり、わたしは立ったまま、顔を手で覆った。

 

 「……なあ、かあさん」


 台所から父親の声が聞こえてくる。


 「そろそろこの部屋、引き払ってもいいんじゃないかね」

 「……そう、ですね。もう半年ですものね」

 「いくら待っても、あいつが帰ってくるわけじゃない。事件の捜査だって終わったんだ。もう、いいだろう」

 「……犯人、残念でしたね」

 「ああ。捕まってほしかった。捕まって、しっかり罪を償ってほしかった……まさか、自殺していた、なんて」

 「あの子もねえ……あの日の日記、ストーカーの女に家をみつかってしまった、警察に通報しなければ、なんて書くくらいなら、すぐに通報するなり、わたしたちに相談してくれていれば……」




 <了>

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