あの山に行ってはいけない

紫栞

「あの山に行ってはいけない。」

古くから山の麓に位置する大神谷村は、四方を山に囲まれた小さな集落だった。

学校はなく、高齢者が町の7割を占める。

大抵の家は自分の家で食べる分の農作物を育てるのみで目立った産業はない。

村の中心部には小さいが、とても澄み切っている川が流れており、夏には鮎釣りに訪れる人がいる。森の近くに行けば蛍を見ることも出来る。

そんな平和な村だがこの村にはある禁忌があった。

それは村の北にある黒姥山に入ること。


その昔、黒姥山は姥捨て山として弱った高齢者をそこに捨てたと言われていた。

だが、姥捨て山としての文化は短く、いざそこの山に来ても置いて行かずにつれて帰ったり他の場所にかくまったりする人が多かった。

そのため実際に置いて行かれた人はほとんどいないとされている。


ただ、閉山後しばらくしたある日、たまたま登山客がやってきた。

何も知らない登山客はいくらか上ったのち、真っ青な顔で両手も唇も震わせながら転げ落ちるように下山してきた。

大神谷村の人は大変に驚いて、その人たちを介抱してやった。

しかし話すのも恐ろしいのかその登山客たちは一切黒姥山の話しをしなかった。


元々産業もなく、観光に訪れる人も少ない村では登山客も現れなかった。

村民が登山客のことを忘れかけたある日、一人の青年登山家が再び黒姥山に登山にやってきた。

登山が趣味だという青年は大神谷村を探索し、一泊したのち黒姥山を登り始めた。


閉山している山だけにかつての山道には雑草が生い茂っていた。

青年は念入りに足元を確認しながら踏みしめるように歩みを進める。

日は天高く昇り、今が昼間であることを感じさせる。

登り初めのうっそうとした雰囲気に比べ、山頂に近づくにつれてどこか開けてきた印象がある。

辺りには変わらず木々が生い茂っているがまるで手入れされているかのように整っている。

下草も適度な長さに揃えられており、いくらか歩きやすくなっている。

青年は手ごろな切り株に腰をかけ休憩する。とても爽やかな風が吹き抜け、疲労を吹き飛ばしてくれる。山頂まで頑張れそうだ。


と、その時見慣れない看板を見つける。今までこの山には看板らしきものは存在していなかった。はたまた草に覆われて見逃していたのか。

看板にはただ『神社』と書かれている。

山に神様を祀っている地域はたくさんある。由来は様々だが、昔から山には神が宿っていると考えられていることからそのような文化が広く浸透しているように思う。

元から青年は山にお邪魔するつもりで登山を行うようにしていた。今回も当然のように山頂を目前に山の神様への挨拶を優先することに方針転換をした。

神社に向かう道は草が刈られ、枝一つ飛び出していない。木の根も岩もまるで何かに抑えられているかのように土から飛び出していない。

やがて遠くの方に光を見つける。それはまるで祭りの提灯を思わせた。

どこかから祭りの神楽のような音も聞こえてくる。

驚いて辺りを見回すが、人の気配は感じられない。

提灯におびき寄せられるように神社に向かって歩みを進めていく。


どのくらい歩いたのかまるで想像が出来ない。

先ほどまで天高く昇っていた太陽も西の空に沈み始めている。

木々や草から影のように黒い人のような何かが提灯が照らす道に引き寄せられるように向かってくる。

何もなかった場所から次々に黒い何かが出てきては一本の参道に並んでいく。

青年は恐怖を感じながらも好奇心に溢れていた。

噂に聞いたことはあったが、こんな場面に遭遇したのは初めてのことだ。

実際に目の当たりに出来たことに喜びすら感じていた。

黒い影について行くように参道を歩き続けついに少し朽ちて壊れかかった鳥居をくぐる。

黒い影はそのまま神殿に入っていく。かなりの人数が入っていくように見えるが、あふれる様子はない。

青年は恐る恐る階段を上り神殿に向かう。

神殿の前にはどこにでもある賽銭箱と本坪鈴が設置されている。

黒い影が入ったはずの神殿の扉はまるで外部からの進入を防ぐかのようにぴったりと閉じられており、電気はついていない。外の提灯に照らされているのみ。


青年は好奇心から扉に手を掛けた。

そっと力を入れると鍵はかかっていないようだった。

扉を開くと、まるで呪いにかかっているかのように円になりながら低く唸り声をあげている黒い影はみなこちらを静かに見据えていた。目は人の三倍近くあり、黒目がその目の大半を占めていた。

驚いて引き返そうとすると「助けてくれー」「置いて行かないでくれー」と低く唸るような声が耳の鼓膜を揺らしてくる。それはすぐ耳元で囁かれたかのように鮮明に聞こえてくる。

たとえ耳を塞いでもその悲鳴にも唸りにも聞こえる声はいつまでもついてきて離れない。

「うわああああああああああああああああああああああ」

耳を塞ぎ叫びながらもと来た道を必死に走る。

そこに提灯はなく、岩がごつごつとあり、下草は自分の足の長さ以上に伸びていた。

枝も至る所から出てきており、走っている間に幾度も青年の服を破いた。


ふと気が付くと辺りは開け、山の入り口に戻ってきていた。

耳を塞ぐことをやめても風の音が通り抜けるだけで、不快な声はもうどこにも聞こえてこなかった。

山の方を振り返ると黒い影が無表情のままこちらを向き、口角をにっと上げる。その口角は目に届きそうなほどに大きく吊り上がっていた。


息も絶え絶えに大神谷村に舞い戻った青年はいつかの登山客のように真っ青な顔で、両手足をぶるぶると震わせていた。

黒姥山の話をしようとすると今でも唸り声が聞こえて悩まされるそうだ。


その後山には立ち入り禁止の立て看板が立てられ、村の言い伝えとして残った。


「あの山に行ってはいけない」

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