或る飛び降りの記憶
小村野火
或る飛び降りの記憶
“死とは待つものであり、選び取るものではない。
首を長くして待ち、向こうからやってくる死は、神の賜物。それはまばゆい天の光。豊かにたゆたう永遠の命。
対し、自ら選び取った死は、人間の愚かな選択にすぎない。それは文字通りの死、すなわち、狭く苦しい永遠の闇。命はそこになく、従って神もいない。偉大なる天の光は、もはや二度と再び訪れることはない。”
〜古代無名ヨギの直観〜
「死ぬにはいい日だ。」
死ぬにはいい日だって?
昔の人はそんなことを言ったらしい。
だけどどうだ。
今日は、まったく、死ぬには絶好の日じゃないか。
こうやってビルの屋上に寝転んでいると、もう自分が死んじゃったんじゃないかと思えてくる。
どこまでも続く青空。360度どこを見回しても空。
ただただ青空。
ああ、だけどいいね。
雲もちゃんとある。
丸い雲が、青い空にひとつふたつ、
あっちにもみっつよっつ、
のんびりと浮かんでいる。コッペパンのようだ。
知らなかった。
僕は今日のこの空が世界で一番好きだ。
空を見上げたことは何度もあるけど、今日の空ほど空が好きだと思ったことはない。
神様とやら。
どうして今日で命を終える僕に、この空を見せるのですか?
ふっ、
神様なんていないって思ってきたけど。今日のこの空をじっと見ていると、神様もどこかにいるような気がしてくる。
今日、これから、
僕はこのビルから飛び降りて、死にます。
あっちにも世界があって、もしも本当に神様がいたら、神様とやらは僕を怒るだろうか。
ふん。怒られたってかまうものか。
だいたい怒っているのは僕の方だ。僕の方こそ神様に怒りたい。
どうして、
どうしてまだ30歳の僕を末期の膵臓がんなんかにしたのですか?
30年間何をやっても長続きせず、頑張って勉強してせっかく入った高校だって、いじめられて1年も経たずに退学してしまったこの僕を。以来ほとんどずっと家に引きこもりだったこの僕を。これ以上苦しめて、神様、あなたにはどんな徳があるのですか?
そもそもこの僕に人生を生きる意味なんてあったのですか?
余命半年。
神様とやら。
あなたは僕にこの時間を突きつけた。今日までの30年間、ほとんどずっと家でゴロゴロしていた僕に、与えられた最後の時間がたったの半年。そんな短い時間で今さらいったい何ができるのか?
できるわけがない。
そうだ。
神様、これが、僕の答えです。
これから、僕はこのビルの屋上から飛び降りる。そして自ら命を断つ。
神様、僕の人生は今日までずっと受け身で、未来から何か良いことが来るのを家でじっと待っているだけでした。
だけど良いことなんて一度もやってきたことはありません。
それどころか、癌になるなんて。それも末期。最悪だ。
だけど神様。最後だけは、最後は僕の人生を僕自身で締めくくります。
それが僕の答えです。僕はもう受け身ではありません。
もう僕は待ちません。
僕は自分から死をつかみ取る。どうせ半年後には間違いなく死ぬんだ。だったら僕は最後の勇気を振り絞り、自分から死んでやる。
それが、僕が僕の人生でただ一つ、自分から成し遂げたことになる。
自殺が悪いことだとは知っている。
だけど、本当に悪いことですか?
神様、あなたがこんな生きるに値しない人生を僕にくれたのですよ。あなただって僕に命を与えたことがそもそもの間違いだったと気がついたのでしょう?だからこそ、この若さで僕から人生を奪おうと決めたのだ。
あなたの仕事を一つ減らしてあげますよ。それが悪いことですか?何一つ成し遂げることのなかった人生だけど、最期だけは自分から進んで成し遂げてみせます。
今日はやけに日差しが強いな。
まだ春が始まったばかりなのに今日は暑いくらいだ。
それでも風は心地よい。もっと吹いてほしい。さすがに20階建てのビルの屋上だ。吹けばそよ風というわけにはいかない。
やっぱり風は強い。おまけに渦を巻いている。四方八方から風が吹いてくる。
さあ、もう立ち上がろう。
いつまでも寝転んでいるわけにはいかない。
人生最後の仕事をする時間だ。
こうして屋上の縁に立ってみると、確かに高い。
『早く飛べよ』と風から背中を押されたり、『早まるな』と正面から押し止められたりする。
風は僕の自殺を止めたいのか、逆に許してくれているのか。
まあ風はまだ決めかねているのだろう。
どっちだっていい。好きにしてくれ。
どっちだっていい。
決めるのは風じゃない。神様でもない。僕だ。僕の人生を決めるのは僕だ。
僕の選択はすでに決まっている。
僕は今日、今から、ここから飛び降りる。
もう決めたんだ。
僕は本当に癌なのだろうか?
僕は本当に半年後、死ぬのだろうか?
ああ、まただ。もう何度も何度も何度も、この同じ問いを繰り返してきた。
癌を宣告されたのは2月の10日。今日がもう3月の15日。もう1ヶ月が経った。
厳密に言えば、僕にはもう5ヶ月の命しかない。
だけど本当かな。
確かに、確かに背中は痛い。この痛みは日に日に強まっていて、最近では時々ナイフで刺すような痛みも走る。
だけど死ぬほど痛いってわけじゃい。言ってみれば鈍痛。それに体の他の部分はなんともない。
至って健康と言ってもいい。
「癌というのはそういうものなんです。」
背中の痛み以外、まったく症状がないことを訴える僕に医者は冷たく言った。
「癌というものは、ほとんど症状のない状態がかなり進行するまで続きます。」
その先を言いにくそうにしている医者を僕は目で促した。
「症状が出てくるのは亡くなる直前の1週間ということもあります。ですから癌は残された時間をかなり有効に使える病気とも言えます。旅行とか、今までできなかったことをやられる方もいます。」
医者の言葉は慰めにはならなかった。
僕にはやりたいことなどない。あったらとっくにやっている。やりたいことがないから僕はずっと苦しんできたのだ。
余命半年を宣告される前にも、僕には腐るほどの時間があった。それでも僕はずっとやりたいことを見つけられずに悶々としていた。
痛っ!
今背中に電気のような痛みが走った。
「痛くなったらすぐに教えてね。」
病院で親切な初老の看護師が僕に顔を近づけてやさしく言ってくれたな。
「すぐに痛み止めのお薬を出すから。」
痛み止めのお薬というのは麻薬のことだ。
麻薬でも使わなければ死の痛みは止められないのだろう。
いや、果たして麻薬で死の苦痛は止められるのだろうか?
僕の癌はすでに肝臓と背骨と腰の骨に転移している。
これから肝臓の癌は僕の全身の皮膚を真っ黄色にする。
背骨の癌はこれから僕の脊髄を圧迫し、その激しい痛みは焼却炉で焼かれるくらいらしい。
脳の癌はやがて僕の気を狂わせるし、突然呼吸を止めてしまう。
腰の癌はまもなく腰骨を溶かして僕を歩けなくする。
初老の看護師はそんなことをやさしく教えてくれた。
この恐怖、不安、胸の震えを止めるには、たぶん麻薬では足りないと思う。
とにかくもう時間がない。
最初に宣告された大学病院でも、セカンドオピニオンを求めた都立病院でも結果は同じ。僕の余命は半年。末期の膵臓癌だ。転移もある。もう助からない。
だから僕はこのビルの屋上に来た。
恐ろしい死が本格的に僕を苦しめる前に、自分から死ぬためだ。
それに、どうしたわけか自殺の計画を立てていると死のことを忘れられた。
自殺の段取りをあれこれと考えている間は、癌のことだけでなく、変な話、自分がまもなく死んでしまうことすら考えずに済み、気持ちが楽になった。
さらにおかしいのは、これまでの人生では何をやってもうまくいかなかったのに、今回のこの自殺計画だけは事がトントン拍子に進んでくれたことだ。
このビルを見つけたのもその一つだ。
どこか高い所から飛び降りようと決めて、顔を上げたとたん、多摩丘陵の高台にそびえ建つこの光輝く20階建の大きなビルが目に飛び込んできたのだ。
『光り輝く』と言ったのは大袈裟じゃない。本当にこのビルは光り輝いていた。
まあこのビルが悪い意味で光り輝くことは、僕たち多摩ニュータウンの住人なら誰もが知っている。
というのも、このビルは全面を鏡面ガラスで覆われているので、晴れた日は太陽が派手に反射して、ビルの南側にいくつか建っている大企業のデータセンターやマンション群を激しい光で明るく照らすことになる。
このビルを建てたのは日本に進出した中国のI T企業。
日本本店兼データセンターとしてこのビルを建設した時には、この恐ろしい光害に近隣からだいぶ抗議の声も上がった。だけど当時、大きな反対運動にまでは至らなかった。
あの当時、莫大な利益を日本に落としてくれていた中国企業に反対できる気骨のある者など、この街には、いやこの国にはすでにいなかった。
ただこうなってみると結局建設反対の声など上げる必要はなかった。
ビルが完成して一年も経たないうちに、ビルのオーナーである中国のIT企業は日本から完全に撤退した。
ビジネスがうまくいかなかったからではない。むしろ非常にうまくいったからだ。
わずか一年の間に、このIT企業は、日本政府と日本人が所有しているほとんど全ての財産や情報、資源その他役に立ちそうなものを悉く一銭残らず残らず吸い尽くし、中国本土へ送ってしまった。
おかげで、すっかりすっからかんとなったこの国は、中国にとってもはや利用価値がなくなり、IT企業もそそくさと本国に帰ってしまった。
用済みとして日本は完全に見捨てられたのだ。
ある日突然中国人たちが出ていってしまってから、今日でもう二年ほど経っただろうか。
このビルはあれ以来ずっと誰もいない廃墟になっている。
このビルの周囲にあるビルたちも似たようなものだと思う。国の経済が崩壊して、みんな廃墟になってしまった。
だから僕がこうして屋上に立っていても、誰かの目に止まる心配はない。
多摩ニュータウンに住んでいる誰かが、気まぐれにこのビルを眺めるかもしれないが、僕の姿は眩い太陽の反射光に包まれて見えないはずだ。
中国人たちがこのビルを捨てて二年が経っても、その間一度も清掃されたことがないにも関わらず、相変わらず今日も鏡面ガラスは太陽の光を反射し続けている。
きっとこのガラスだけは日本製だったに違いない。
このビルができてから、鏡に映った空を本当の空だと勘違いした不幸な鳩やカラスたちが、何十羽となくこのビルに激突し命を落としている。
その無惨な鳥の死骸がガラスを汚してきたのに、やはり太陽光は激しくこのビルに反射している。
偉大な太陽にとって野鳥など、何十羽死のうとたいした問題ではないのかもしれない。
僕の死だってきっとそうだ。太陽にとってはとてつもなく小さな出来事に過ぎない。
中国人の死だってきっと同じだ。
日本に限らず、世界中から吸い上げた富で中国本土はものすごく豊かになった。が、今度はその富を巡って中国人同士が今お互いに殺し合いを始めている。
今中国大陸ではものすごくたくさんの人が命を落としていると聞く。
産業革命以降、人類が築き上げてきた膨大な量の富は、今やその全てが、中国人が中国人を殺すための爆弾や弾薬や弾丸に姿を変え、まもなく残らず使い果たされてしまうことになっている。
人類が300年かけて積み上げてきた富を、世界の支配者となった中国人がわずか数年で使い尽くしてしまうのだ。
太陽にとってはそんなことも小さな出来事に違いない。
太陽にとっては、人間なんて存在しないもおんなじなんだ。太陽の光は何もかも飲み込んでしまう。その光の前では、何一つ存在しない。
ましてや僕一人の命など、生きようが死のうが太陽にとっては何の意味もない。
この体の中の癌細胞だって、もっと小さい。取るに足らないものだ。
だがそんな小さな癌細胞に僕は殺されようとしている。
背中が痛い。
ダメだ。また考えてしまう。
自殺の計画を考えている間は癌のことを忘れられていたのに、近頃はこの魔法の効き目も悪くなってきた。すぐにまた癌のことが頭に浮かんできて、憂鬱になってしまう。
癌の呪いから解き放たれるには、もはや死ぬしか方法はないのだ。
「抗がん剤を使えば余命は1年に伸びる可能性があります。ただ副作用はかなりきついものがあります。髪の毛は全部抜けますし、激しい吐き気と嘔吐で食べ物も食べられません。食べても吐いてしまいます。激しい下痢または頑固な便秘、どちらかには必ず悩まされます。抗がん剤をやれば、なんと言うかその、その日が来るまで、ずっと病院のベットの上ということになると思います。抗がん剤をやらなければ、そういった副作用に悩まされることはありません。ただし余命は、」
医者はそこで言葉を切った。最後まで言わなくてももう十分だと思ったのだろう。
「半年。」
代わりに僕が医者の言葉を締めくくった。
「どうしますか?抗がん剤やりますか。少しでも長く生きたいと思われる方はみなさん抗がん剤を選ばれます。」
僕だって長く生きたい。死にたくなんてない。
だけど。抗がん剤をやるかやらないか。これが僕の人生に残された最期の選択肢なのか?あまり苦しまないで半年で死ぬか。苦しみながら1年を生きるか。
どちらにしても僕は長くは生きられない。
だとしたら、どっちだって同じじゃないか。問題は、死ぬまでのこの短い期間をどう生きるかだ。
「もう少し考えさせてください。」
僕にはこう答えるしかなかった。
医者は疲れたようにため息をついた。
「あなたにはもう考える時間なんてありませんよ。」
もちろん医者はそんなことを言わなかった。
だけど僕には医者がそう思ったのがはっきりとわかった。
人間というのは余命がわずかになると感覚が研ぎ澄まされるのかもしれない。僕には医者が確かにそう考えたのがわかったのだ。
その言葉は鋭いナイフのように僕の心に突き刺さり、吹き出した血のようなものが喉の奥に重く溜まっていった。
「ご両親は何とおっしゃっています?一度ご両親も交えて今後のことを話し合いませんか。まさかまだ、ご両親に病気のことを伝えてないわけじゃないでしょう?」
両親にはまだ病気のことは伝えていない。親はまだ僕が末期の膵臓癌だとは知らない。
このビルから突然中国人が去った時、僕はたまたまここで警備員としてバイトしていた。
そういえば、僕が自分から仕事を辞めなかったのはあれが最初で最後だった。そういった意味では、警備員だけが僕が最後までやり遂げた仕事だったと言える。
見捨てられた日本人従業員や出入りの業者たちは口々に中国人への恨み言を言いながら、支払われなかった給料や契約金の代わりに備え付けのパソコンやらトイレットペーパーやら金になりそうなものを持ってビルを後にした。
僕の警備会社の上司や同僚たちも同じように防災センターの消化器やらパソコンやらを持ってビルを退去したが、僕の上司だった40代の現場責任者の男だけは警備員としてのプライドをわずかに持っていたのか、
「このビルから人が一人もいなくなったのを確認したら、お前は最後に全てのドアを施錠して退去しろ。」
と僕に命じた。
「はい。全てのドアを施錠したら僕はどこから出たらよいのでしょう?」
今から考えると、馬鹿馬鹿しい質問に聞こえるが、この質問は僕にしてはまあまあ良い質問だったらしい。
責任者はなるほどとうなずくと、たくさんの鍵の入ったボックスから一つを取り出し、僕に渡した。
「北東の普段誰も使わない出入口の鍵だ。そこから出てこれで最後に施錠しろ。」
「施錠したらこの鍵はどうします?本社に持っていきますか?」
「いや。その必要はない。お前はこの近所に住んでいるんだ。責任を持ってこの鍵を保管しておいてくれ。中国人どもが戻ってきてまた警備を再開するとなったら連絡する。それまでは自宅待機を命ずる。」
その後、今日に至るまで上司からの連絡はない。以来ずっと自宅待機の状態が続いている。給料も自宅待機を始めてすぐに振り込まれなくなった。
自殺を決めた僕の目に、このビルの姿が飛び込んでくるまで、鍵のことはすっかり忘れていた。
部屋の隅に丸まっていた制服の上着のポケットに鍵を見つけた時は、あらゆる偶然が僕の決断を後押ししてくれている気がした。
僕がビルから持ち出したのはこの小さな鍵一つだけだ。同僚たちはみんなコピー機や無線機、机や椅子まで持ち出したが、僕は何も手をつけなかった。同僚の一人は高性能の懐中電灯を僕に持って行けと差し出したが、僕はそれすら手に取らなかった。
僕は泥棒じゃない。
ダメな人間だけど、悪い人間ではない。この上盗みをして悪い人間になってしまったら、僕にはもう救いがなくなってしまう。だからビルの備品には一切手をつけなかった。それだけにこの鍵が手元にあることが奇跡に思えた。
人目につかないよう久しぶりにビルに入ると、略奪の限りを尽くされたビルの中はすっかり荒れ果てていたが、例のキーボックスを開けると奇跡的に鍵は全て残されていた。
まあ、このビルのために作られたこのビル専用の鍵なんて、持って行っても仕方がないから当然とも言える。
当然、屋上のドアの鍵もそこに残されていた。
すべては僕の決断を後押ししてくれた。
お前は正しいと言ってくれた。
さあそろそろ実行の時間だ。
陽が正午に近づくと、ビルが太陽光を地面に反射しなくなってしまう。そうなると屋上に立つ僕の姿が下から丸見えだ。警察や消防が来て大騒ぎになってしまうかもしれない。
そうなればきっと親も呼ばれるだろう。「息子さんが自殺しようとしています!止めてください!」
もうこれ以上親には面倒をかけたくない。
お互いにもう関わらない方がいいんだ。
僕たち親子はもう十分苦しんだ。距離が近すぎるんだ。親子だから仕方がないって言えばそれまでだけど。僕たち親子はもう十分傷つけあってきた。
この上僕の病気のことで両親を苦しめてしまうのは、もう耐えられない。
ただでさえ癌がどうやって僕を殺すのか、怖くてビクビクしているのに、その上さらに親と向かい合う気力は、今の僕にはもうない。
話し合ったとて、どのみち希望はないのだ。
さあ飛び降りよう。
今死ぬことよりも、この先半年を生きることの方が僕には辛い。
準備はできている。
あとは勇気を振り絞ってここから飛び降りるだけだ。
高いな。
下を見なきゃいい。
見なければ何も怖くない。
空を見上げて前へ進んだらいいんだ。
そうすれば、勝手に床がなくなって勝手に地面まで落ちるだけだ。
その後は知らない。
まあこの高さだ。勝手に死んでくれる。
その後は多摩丘陵を散歩している年寄りが僕の死体を見つけるだろう。
いや、先に年寄りが連れている犬が発見して、飼い主に知らせるかもしれない。
どっちだっていい。どちらが見つけても警察と消防に連絡が行く。
警察官たちは下の赤レンガの歩道か植え込みに、頭から血を流して倒れ死んでいる僕を見て、
「こいつはこのビルから飛び降りて死んだ。」
と口々に言い合う。
そこで推理を確かめるためビルの屋上に行こうとするが、残念、出入口はどこも施錠されている。
さっき僕が施錠した。
僕は正式にクビになっていない以上まだ警備員だ。頼まれた仕事はきっちりとやる。今日死ぬからって手を抜いたりしない。なにしろ僕の方から辞めなかったただ一つの仕事だ。
警察官たちは屋上へ行くために、ドアを叩き壊すかもしれない。
本当はそんなことをしなくたって、僕のズボンのポケットを探れば、このビルで一番誰も使わないドアの鍵が入っているからそれを使って開ければいい。
だけど血だらけの死体のポケットを探るのは気持ち悪いだろうから、警官たちはやはりドアを蹴破る方を選ぶかもしれない。その方が警察官らしい。
ビルを壊してももう持ち主は怒らない。彼らは今海の向こうで自分自身が生き残るのに必死なはずだ。
階段を駆け上がって屋上に着いた警官たちは、ここにきれいに揃えて置かれた靴とカバンを見る。あたりに争った形跡はない。
僕以外に人のいた形跡もない。
「自殺だな。」
「ああ自殺だ。」
警官たちは口々に言い合う。
「最近多いな。」
「不況だからな。」
警官の一人がカバンを開けると、余命半年の診断書やくっきりと癌の写ったCT写真などの書類ひと揃えを見つける。
「病気を苦にしての飛び降りってわけだ。」
後ろからカバンを覗き込んでいた若い警官が、カバンの底に白い封筒を見つけ中を検める。中には1枚の便箋。そこには誰もが知っているの決まり文句が書かれている。
「お父さん、お母さん、先立つ不幸をお許しください。」
若い警官が読み上げると、上司が振り向く。
「決まりだな。報告書はお前が書け。」
上司が若い警官に無感情に命ずる。
「私がですか?」
若い警官は不満げだ。
「お前がその遺書を見つけたんだ。お前の責任だ。」
そうだ。遺書はカバンの底じゃなくて一番上に置いてやろう。そうすれば上司が最初に遺書を見つける。
そうだな。
靴下も脱いできれいにたたんで靴に添えておこう。これを見たら誰だって僕の死を自殺だと思う。
殺されたんじゃない。僕は自分で自分の死を選んだ。
勇気を出して最後の最後に自分の人生を自分で決めた。
ああ、空がきれいだ。
白くて丸い雲がゆったりとこっちに流れてくる。空ってもしかしたら大きな川なのかもしれない。僕はあの水の中へ飛び込もう。
あの雲に手を伸ばそう。
届くかもしれない。
足元が軽くなった。
下を見る必要はない。前へ進んだから、屋上の床が足元からなくなったんだ。
地面ははるか20階下。
足を屋上の床から踏み外した以上、僕ははるか下の地面まで落ちるしかない。
死ぬには十分な高さ。
地面に着く頃には、僕は、僕は死んでいる。
雲が視界の上へ消えた。
足場を失った僕は前のめりに倒れ込んだ。
人間の頭は重い。ゆえに人は頭から落下する。勉強した通りだ。
雲の代わりに視界に見えてきたのは、はるか下の地面。放置され荒れ果てた植え込みと泥で汚れた赤レンガの遊歩道。
このまま頭を下にして、体を地面に突き刺すように垂直に落下するのか。
目を閉じよう。
自分の頭がものすごいスピードで地球に激突するのなんて見たくもない。
自分の頭が砕け散り、脳みそが飛び散る直前の景色なんて見るのもおぞましい。
目を閉じて、力が抜けたせいかな。
僕の体はそのまま前転を続け、頭をビル側にして空中で仰向けの形になった。背中に受ける風が心地よい。
地面と水平になって落下のスピードが少し遅くなったのだろうか。
まだ地面に落ちない。
まだ地面は遠いのか。
頭頂部にビルの壁が通り過ぎるのを感じる。壁のすぐ近くを僕は落ちている。
鏡面ガラスは落下する僕を映しているに違いない。
目を開けて頭を動かせば、もしかしたら落ちていく自分の姿が見えるかもしれない。
だけどきっと、目を開けたらまず空が見える。
空にはさっきのあの白くて小さな雲がまだ浮かんでいるはずだ。
どうしてもさっきのあの雲が見たくなってきた。
目を開けるのは怖いけど、
死ぬ前にもう一度あの雲が見たい。
恐る恐る目を開けてみる。
ああ、雲はそこにあった、
ありがとう。
僕の目が、最後に見たのが大好きな雲でよかった。
それに空。
不思議だ。
すごくゆっくりと落ちているような気がする。
人は死ぬ最期の一瞬に、人生で起こったすべての出来事を走馬灯のように見るという。
僕の人生にはたいした出来事も起こらなかったから、その時間は一瞬でも長過ぎたのだろう。どうやら余ってしまったようだ。
雲がゆっくりと小さくなり、遠ざかっていく。
やっぱり落ちてはいる。きっと本当はものすごいスピードで加速しながら落ちているのに、僕にはゆっくりに感じられているだけなのだ。
まもなく、僕は背中から地面に激突する。
それで終わり。
だけど、変だな。
まるで、まるで、水の中を沈んでいくような感覚だ。
遅い。
背中に当たる空気が水のように重くて、全然スピードが出ない。
高級ホテルのやわらかいベットに背中から飛び込んだら、きっとこんな感じだろうか。
やわらかくて分厚い空気に包まれている感じ。
『何もない空気』だって?
よく言えたものだ。
空気だって質量はある。重いのだ。今まで知らなかったけど。
まだ。まだ地面に激突しない。
まだ落ちている。
20階ってそんなに高いのか?
やっぱり高いのだろう。実際に落ちてみないとわからないものだ。
まだ落ちている。
本当に落ちているのだろうか?雲はさっきよりも確かに遠ざかり小さくなっている。落ちているのは確かだ。
まだ、落ちている。
地面には着かない。
長いな。
怖いけど、どの辺りまで地面がきているか、体を回して見てみるか。いくらなんでも、これでは遅すぎ、
ゴツン。
後頭部に硬いものが触れた。
落下が止まったのか?ああ、止まった。
雲も遠ざかるのを止めた。もう小さくならない。そのままの大きさで、少しづつ形を変えながら、ゆったりと横へ流れていく。
これで、死ぬ。
ついに、死ぬ。
もう何も怖くない。背中がとても冷たい。頭の後ろも冷たい。きっと血が流れているせいだ。まもなく僕は意識を失い、
この世から消える。
あの雲が風に流れて消えるように。僕もこの世界から消える。あとにはただ青い空だけが残る。
それにしても高いビルだな。
この高さから落ちたのだ。もう助かるはずはない。
雲が流れ、垂直にそそり立つビルの向こうに隠れた。
僕は、まだ死なないのか?
それとも、もう死んでいるのか?
死ぬってこういうことなのか?
背中が暖かくなってきた。あの冷たさは血ではなかったのか?固い歩道のレンガの冷たさだったのか?
指は?動く。
レンガの上の砂に触れる。血はどこだ?僕の血はどこに流れている?指と、手も、血に触れない。両手ともにだ!血は流れてないのか?
頭はどうだ?頭からは血が流れているはずだ。この高さから落ちたのだ。何もないはずがない。
手で頭を触ってみる。髪は、血で濡れてはいない。頭の後ろもだ!
心臓がドキドキしてきた。なぜ?
どうして心臓が拍動する?僕はもう死ぬんだぞ。意識がはっきりしてきた。いや、それを言うなら意識はさっきからずっとはっきりしている。
僕は、死なないのか?
いや、この高さから落ちたのだ。すぐに死ぬ。
いつ?いつ僕は死ぬんだ?
足が動く。膝も、立てられた。
目を閉じて、開ける。
同じ空。同じビル。違う雲がまた流れてきて、やがてビルの向こうに隠れる。
首を回す。動く。どこも痛くない。赤レンガの歩道と頭に挟まれて、髪がジョリジョリという。やっぱり頭からも血は出ていない。
僕は、生きている。
信じられない。あの高さから飛び降りて、僕は死ななかった。
立ってみる。
すごい、すごいぞ。無傷じゃないか。
何が起こった?奇跡か?奇跡が起きたのか?ああそうだ。奇跡だ。奇跡が起きたんだ!
僕は、死んでない。ああ、神様とやらがいるんだ!奇跡を起こして僕の命を救ったのだ。
そうだ。そうだ、癌だって。癌だって治るかもしれない。いやもう治っているかもしれない。なにしろ、あんな高いところから飛び降りたって僕は死ななかった。
体の中ではとっくに奇跡が起こっているのかもしれない。僕は、僕はまたあの人生を生きる。
背中が痛い。
ものすごく痛い。落ちた痛みではない。これはいつものあの痛みだ。
これは奇跡ではないのかもしれない。僕の人生に奇跡なんて起こる要素がどこにある?誰かに祈ったこともないし、誰かのために生きたこともない。僕のために奇跡が起きるなんて、あり得ない。
だけど、僕は死ななかった。
どうして?
何が起こった?僕はあの高い所から飛び降りた。
その1秒か2秒後に、僕はここで頭から血を流して死んでいるはずだった。
でも僕は、ゆっくりと落ちた。とても死ねないようなスピードで。何分もかけてゆっくりと落ちていったんだ。
あれは夢なんかじゃない。確かにこのビルの屋上から僕は飛び降りた。
もしかして、夢だったのか?僕は最初から屋上なんかに行かなかった。ここでいろいろ考えているうちに眠りこけてしまっただけなのかもしれない。
鍵は?ポケットにある。
はっ!僕は裸足だ。靴下も履いてない!カバンもない。靴も靴下もカバンも、この周りにはない。だとするともう一度屋上へ行かなければいけない。
あそこに僕の靴と靴下とカバンがあれば、僕は夢を見ていなかったことになる。僕は本当に飛び降りたことになる。
あの暗いドアを開けて、もう一度ビルに戻ろう。もう一度屋上へ行ってみなければ。
あった。
これは確かに僕の靴と靴下とカバンだ。記憶の通りだ。きっちりと揃えて置かれた僕の靴、その上にきれいにたたんだ僕の靴下。隣には見慣れた僕の黒いカバン。
そうとも。確かに僕はここにいた。
そして、そうだ、確かに僕はここから飛び降りた。空を見上げ、雲に手を伸ばしながら。
あの時の足の裏の感覚がまだ残っている。急に地面が消えてしまった不安な感覚。
僕は落ちた。確かに落ちた。
なのに、僕はまたここにいる。
死ななかったんだ。
死ねなかった。
神様は僕にまだ生きろと言っているのだろうか?だとすると癌も治っているのか?癌が、癌が治ったら、何をしよう。もう一度与えられた命を、僕はどうやって生きよう。
背中が痛い。
癌が治ったとて、僕にはやることなんてない。
家に引きこもったままの人生をこれからさらに何十年も続けるのか。
どんな道でも、道を極めるには三十を越えた僕には遅すぎる気がする。何より僕にはやりたいことがなにもない。
毎日ただ呼吸して食って寝ているだけ。
それだけの人生をこの先も続けるのか。
もう考えるのも疲れた。
痛い。
背中の痛みは飛び降りる前と同じだ。癌は治ってなんていない。
高いな。
僕はさっきあそこで仰向けになり、こっちを見上げていた。この高さから落ちても僕は死ななかった。
つまり、これが奇跡ではないとしたら、
僕は高い所から落ちても死なないってことだ。
これって、特殊な能力なんじゃないか?
蟻が体長の何百倍の高さから落ちても平気なように、僕も高い所から落ちても平気なのか?蟻のように、鳥の羽毛のように、僕は風に乗り、ふわふわと地上へと落ちていった。
僕が今こうして生きているのは奇跡なんかじゃないとしたら、
生まれつき備わっている僕自身の能力以外に考えようがない。
はっ!
なんと言うことだ。だとすると、僕が今日こうして飛び降り自殺を試みなければ、生涯僕は自分にこの特殊な能力が備わっていることを知ることはなかった。ってことじゃないか。
死ぬために飛び降りたおかげで、僕は偶然に自分の才能を知った。
これって、これって、これこそが奇跡じゃないか。すごい。死ぬ気になったからこそ、死を試みたからこそ、はじめて僕は今まで気がつかなかった才能を発見できた。
たとえ半年後に死んだとしても、僕はすごい発見をした。これだけは間違いない。
だって、人類には高い所から飛び降りても死なない人間がいるってことがわかったんだ。僕以外にも同じ能力を持った人間がいるかもしれない。いや、絶対にいる。
そういう人たちに僕は道を開いたことになる。たとえ僕が半年後に癌で死んだとしても、僕はこの世界に名を残すことができる。
生きた証を残すことができる。
さあ、こうしちゃいられない。
家に戻って、この事実をみんなに知ってもらおう。
まずは親だ。親に教えて驚かそう。僕はもう無能な引きこもりなんかじゃない!
ビルから降りないと、
待て。
階段で降りてどうする。僕は高い所から落ちても死なないんだ。ここからまた飛び降りて、悠々と地上へと戻ればいいじゃないか。
それにしても、
高いな。
普通なら絶対に落ちて死ぬ高さだ。
万が一、僕に特殊能力なんかなくて、さっきのがやはり奇跡で、なんらかの理由でたまたま運良く命が助かっただけだったとしたら?
例えば、たまたまあの時だけ風が強く吹いて、上昇気流が僕をゆっくりと地上へ降ろしてくれただけだとしたら?
次に飛び降りたら、
僕は死ぬ。
同じ風が、同じ場所と同じタイミングで同じ強さで吹いてくれるなんてありえない。
もし僕に能力がなかったら、
そう、奇跡は二度も起こらない。
階段で降りよう。それが安全だ。
せっかく助かった命をここでむやみに捨てることもない。この能力は、もう少し低い場所で試したみたらいい。落ちても死なない高さから飛び降りて、僕に才能があるのかないのか、確かめてみた方がいい。
ああだけど。
階段へ続くドアはなんで暗いんだ。真っ黒じゃないか。
この屋上の明るさとはまったくの正反対だ。あの暗いドアから中へ入れば、僕はもっと暗い、陽の当たらない非常階段をずっと降りて行かなければならない。
そうやって地上へ戻れば、今までと同じ僕の人生が待っている。
今ここで暗い階段を行く道を選べば、僕は再びあのどうしようもない無意味な人生を送ることになる。
僕には才能がある。才能は使わなければないと同じだ。さっき僕は勇気を出して飛び降りた。だからこそこの才能を発見できた。今までずっと階段を使ってきたせいで、僕は素晴らしい才能に気づくことなく無駄な人生をずっと送ってきたんだ。
この広い空へもう一度、勇気を持って飛び出そう。自由な空間を、自由に泳いで地上へ降りてみよう。その才能が僕にはあるんだ。階段を使ったらもう二度とこの才能は現れてくれないかもしれない。
逃げちゃいけない。ずっと逃げてきたんだ。もう逃げない。もう一度やってみるんだ。
死ぬかもしれない。
ふっ。さっきまで死ぬつもりだったじゃないか。どのみち半年経てば、癌が僕を殺す。もう一度勇気を出してここから飛んでみよう。
ああ!なんてことだ!
さっきと同じ雲がこっちへ飛んでくるじゃないか!これこそ奇跡だ。さっきと同じあの白くて丸い雲は僕を勇気づけてくれているんだ。
「さあ手を伸ばせ。その手で私をつかんでみろ。」
雲がそう言ってる。
わかった。
もう一度手を伸ばし、君をつかんでみるよ。
足の裏が空を蹴った。
再び、視界から空と雲が消えた。
僕は空中で前のめりになり、代わりにはるか下方の地上が見えた。荒れた植え込みと泥と苔で汚れた赤レンガの歩道。
さっきと同じだ。
僕は目を閉じた。
だけど、
落ちない!
いや、落ちているけど、ものすごくゆっくりだ!さっきと同じだ。僕は分厚い空気の綿の中をゆっくりと落ちてゆく。
顔と胸にやさしく風が当たる。
さっきと同じだ。やはり僕には高い所から落ちてもゆっくりと落ちる特殊な能力があるんだ。
もう怖くはない。
目を開けよう。
地上はまだ遠い。
横を見ると、体が空中で回転しビルと横並びになった。
あ!鏡面ガラスのビルの壁に僕が映っている。
ずいぶん痩せたな。頬がこけている。こんなに痩せてたっけ?鏡で自分を見るのは久しぶりだ。
げっ、鳩の死骸だ。
ガラスにこびりついていやがる。鏡だと知らずに激突したんだ。かわいそうに。ぐちゃぐちゃじゃないか。空がずっと続いていると勘違いしたんだな。すごいスピードでぶつかったんだ。
ああ、やっぱりゆっくりと落下している。鳩の死骸がいつまでも視界から消えてくれない。
空が見たい。
寝返りを打つように体を回転させると、
体が仰向けになり空が再び現れた。
どこまでも青い空。
それにあいつもいる。あの小さな白い雲も、ゆったりと浮かんでいる。
体が地上に対して横向きになった一瞬、少しだけ落下速度が速くなった気がする。
体が地上に対して垂直に細くなり、空気抵抗が少し弱くなったからだ。
逆に空気の抵抗を強くすれば、落下はもっと遅くなるかもしれない。
手のひらをいっぱいに広げ、手足を大の字に広げてみる。
ああやっぱりだ。
落ちるスピードがさらにゆっくりになった。まるで落ちていないくらいに感じられる。
ふふ、僕は今、空気の尻尾を捕まえた。
あとはコツを掴むだけでいい。空気をコントロールするコツさえ掴めば、僕は空気を、いや、この地球上の大気を支配できるかもしれない。
だって、だって空がこんなに近いんだ。
それに、あの雲も僕を応援してくれている。
なぜだか涙が溢れてきた。
涙が止まらない。
すごくうれしい。
こんなに満ち足りた気持ちは生まれて初めてだ。今こうして生きていることがうれしくてうれしくてしょうがない。
空も大地も、風も雲も、みんな僕に生きていていいんだって言っている。
そうだ、そうだったんだ。
僕はずっと知らずにきた。
これこそが人生の意味だったんだ。これこそが、僕が今ここにいる理由だ。
まったく僕はバカだったよ。どんなに考えたって答えが見つからないわけだ。
考えること自体が無意味だったんだ。ようやくわかったよ。
僕は今ここにいる。
それだけでよかったんだ。それこそが人生のすべてだったんだ。
僕はこの宇宙に存在し、生きている、これこそが僕の意味。僕の使命だ。
さっきよりもゆっくりとやさしく、僕は地上へ帰ってきた。母親が赤ん坊を自分の腕からベットに移すように、空は僕を地上へと戻した。母親のようなやさしい眼差しで雲は僕を大地に横たえた。
僕は再びこの地球に仰向けで横になった。
はぁ。
なんていい気分だ。さっそく家へ帰って僕のこの特殊な能力のことを、そうだ、まずは親に伝えよう。
あ痛っ。
しまった。靴を履いていない。歩き出してみて初めて思い出した。死ぬつもりだったから靴を履いていなかった。靴下もだ。全部まだ屋上だ。カバンもだ。
もう一度上に戻るしかないな。いくらなんでも裸足で家までは帰れない。
それに、
もう一度飛んでみたらいいかもしれない。
いや、一度とは言わず陽が暮れるまで今日は何度と飛んでみたほうがいいかもしれない。
厳密に言えば、僕は落ちているだけで、飛んではいない。
空中に浮かんでいるとも言い難い。
浮かんでいるようではあるが、やはり落ちている。かなりゆっくりではあるけれど、落ちているのは間違いない。
だけど、もう少し回数を重ね、努力をしたら、飛べる様になるもしれない。
まあ飛べるようにはならないにしても、少なくとも陽が落ちるまでには、落下を止めるところまでいけるような気がする。
だって僕はあの高さから落ちても死なないのだ。
次の飛び降りでは、両腕を鳥の羽のように羽ばたかせてみよう。さらに泳ぐように手足を動かしてみたら、もしかしたら空中を前へ進めるもしれない。
やってみよう。
やってみる価値はある。
あの暗い非常階段を再び上るのは気が重いが、屋上へ行くにはあそこしかない。
さあもう一度屋上へ戻ろう。
ワン!ワン!ワン!ワン!ワン!ワン!ワン!
なんだなんだ!犬だ!犬!あれ?どこにいる?犬なんていないぞ。犬はどこだ?
ワン!ワン!ワン!ウー!ワンッ!
鳴き声は聞こえるのに犬の姿がない!だけど、ああ!犬は僕の足元吠えている!こんなに近くで吠えているのに、どうしてだ!犬の姿が見えない!犬なんてどこにもいない!だけど、確かに犬がすぐ足元で吠えている。なんだこれは!気味が悪い。犬はどこだ?!
落ち着け。
まあいい。まあいい。その辺の植え込みの陰に隠れて犬が吠えているだけだ。ビルの壁に犬の声が反射して足元で聞こえているだけに違いない。
いつまでもこんなところにいちゃいけない。早くもう一度屋上へ戻ろう。
そうだ。今日は一日中、陽が暮れるまでできるだけたくさん飛び降りることにしたんだ。こんなところで貴重な時間を無駄にしている場合じゃない。
ふふ、
夜になったら空を飛んで家へ戻ってもいいな。
相変わらず背中は痛い。
そうとも。僕には時間がない。
僕は、僕は、人類が誰も手に入れたことのない能力を手に入れた。
半年後に死ぬとしても、人間だって飛べるんだということをみんなに知ってもらわないと。
僕は特別だ。
この半年の間にできるだけたくさんこのビルから飛び降りて、
そのあとは、そのあと考えよう。
変だな。
まだ午前中だというのにもう空が少し赤くなってきた。
こうしちゃいられない。
早く屋上へ戻ろう。
また飛ばないと。
ワン!ワン!ワン!ウー!ワンッ!
「ソラ!ソラ待って!」
ワン!
「あーやっと捕まえた!ソラ!ダメじゃない!急に走り出したりして!こんな森の奥まで入ってきて!何!その藪の中に何かいるの!」
ウー、ワン!ワン!
「何!狸かうさぎでもいるのかしら?」
「サクラ!サクラ!どこにいるの!」
「あ、おばあちゃん!こっち、こっち。」
「サクラ!ダメじゃない!森の中へ入ったらいけないって言ったでしょ。どうしてこんなところまで入ってくるの!」
「だってソラが、急に走り出したから。」
「あなたの高知とは違って多摩には変な人がいっぱいいるから森の中には入っちゃダメ。」
ワン!
「もう!ソラのせいで怒られた。おおよしよし。あはは、ソラ、顔を舐めないで。何?何がいたの?あ、おばあちゃん見て。」
「もう行くわよ。早く公園に戻りましょう。」
「ねえおばあちゃん、ここ森じゃなかったんだよ。だってこの土の下、赤いレンガが敷かれている。」
「そうそう。昔ここは森じゃなくて、ここにはガラス張りの高いビルが建っていたのよ。」
「ふーん。あ、おばあちゃん見て。」
「あら。」
「お花が置いてある。まだキレイ。誰かここで亡くなったの?」
「変ね。最近そんなことはないけど、この辺りで人が亡くなったのは、もうずいぶん昔のことよ、だいぶ昔、おばあちゃんとおじいちゃんがまだ赤ちゃんだったあなたのお母さんを連れてここに越してきてすぐだったからよく覚えてる。まだここにガラス張りのビルが建っていた頃よ。男性が飛び降りて亡くなったのよ。それが確かこの辺りじゃなかったかしら。」
「じゃあその人の家族がここに花を置いたんだね。」
「そうかもしれないわね。だけどねえ。もうビルが解体されて十年以上経っているのよ。ご家族もお気の毒にね。さあ、行きましょう。急がないと日が暮れちゃう。」
或る飛び降りの記憶 小村野火 @omuranobi
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