高く飛びたいのなら、一度低くしゃがめ。しゃがんだ分だけ高く飛べ。

 雨は嫌だ。それだけで憂鬱になる。だというのに、大西達ときたら……。
 おっと、予鈴が。今日も一日授業かぁ……なんて思ってたら……ペンギン? すまない大西。前言撤回だ。俺も例にもれずそちら側なのかもしれない。ごめん、田村さん。僕もバカだった。
 ん? いやいや、いくら何でもペンギンって……。むいむいってその独特の言葉は可愛いけれど、それで被害を被った僕たちに対する救済には何一つなっていないんだよ。可愛いは正義かもしれないが、確かに可愛いを振りまいたのかもしれないか、さすがに水しぶきまで振り撒く必要はなかったんじゃないかな……。
 今度は先生まで振り回すつもりかい……? ちゃんと仲野智子って名前があるじゃないか。一体どういう原理なのかさっぱりだけれど、(いや、ずぶ濡れになってしまって「さっぱりしたぜ!」って言うのもおかしな話だけれど)ぽたぽた水が滴ってるから!
 その瞳に思わず吸い込まれそうになる。とても綺麗な瞳だ。できれば、この水分も吸い込んでくれると大いに助かるのだけど。
 田村さん! それを世間じゃ無茶ぶりって言うんだよ……。生き物係ってさすがに「人間」は対象外だから……それはほら、えっと……保健係とか? にバトンタッチしてもらいたい。
 智子……もとい、ペン子ちゃんにコミュニケーションを試みるも、帰ってくるのは見当違いな回答ばかり。目の前のペン子ちゃんに話しているのに、南極から答えが返ってくるかのような感覚を覚える。……これも例えとして、めちゃくちゃだけれども。
 ほら、やっぱり人間だ。普通に給食を食べてるじゃないか。……って大西! 大丈夫か! 本当に一体何者なんだ……。

 だから、僕は生き物係であって人間は対象外だと……。そして、始まるペン子ちゃんをどうしようか会議。なんだ、この安直なネーミング。我ながら失笑してしまう。いやまぁ、村八分にするってのはある意味間違ってはいないのだろうけれど、それでは根本的な解決にはならないよ。それこそ、🐧だけに南極なんてどれだけ離れてると思ってるのさ。そんな疎外感を抱かせたら5年2組のモットーにも反するだろう。
 ペン子ちゃんに歌を歌わせる……これは責任重大だ……溶けることを知らない南極の氷のような重しが僕に重くのしかかる。地球温暖化が叫ばれている昨今だ。少しずつでも溶けてくれることを祈りつつ、やるしかないよな……。
 敵を知れば百戦危うからず とは言えども、別にペン子ちゃんは敵ってわけじゃない。あぁ、備えあれば憂いなし? いや、これも微妙に違うな。備えあれば嬉しいな 言葉としてはないけれども、表現としてみれば、これなら許容範囲かな。
 しかし、むいむい の謎が解けないぞ……。図鑑にも基本的なことしか載ってない。
 何はともあれ練習だ。ペン子ちゃんと始まった練習の日々。本番までにどうにか間に合ってくれと願いながら、日々は過ぎていく。なお、未だむいむいの謎は解けていない。僕にのしかかった氷もまだ溶けていない。
 難しい。すでに出来上がっている女子のグループの中にペンギンを混ぜるのは。……失礼。ペン子ちゃんを受け入れてもらうのは。
 大西……お前。井上さんの気持ちを考えろ。他人事と言われればそれまでかもしれないけれど、さすがに聞き捨てならないぞ。……ちょっと待て。今、なんて言った?
 ペン子ちゃんに聞いた……? 感情が渦を巻いて、場がぐちゃぐちゃになって。
 これが卵だったなら、スクランブルエッグにでもなったのだろうけれど。残念ながら、現実はそんなに甘くない。
 帰り道。僕にできるのはこれが精一杯。それでも「もっとやってくれ」とねだってくれるのなら、僕はペン子ちゃんを少しでも慰めることができているのかな。きっとそうだよね。「いつかお前の卵を産んでやる!」って言ってくれるくらいなんだから。
 あー。あー……。声変わりか……。そんな、田村さん……。どこか突き放したようなその言葉は、僕の居場所を奪われたような気がして、呆然とした。
 その結果、僕の合唱大会は終わり、幕引きを迎え、幕を開く裏方に回ることになった。幕引きというと「閉じる」なのに、幕を「開く」のが裏方の仕事なんて、なんて皮肉だよ……。なんて「肉声」だよ……。ペン子……?
 僕を見かねて、ペン子がちょっかいをかけてくる。もしかすると、あの日、僕が慰めたみたいに今度はペン子が僕を慰めてくれようとしているのかもしれない。
 先生に怒られても、笑い飛ばせたのは、うん。間違いなく、ペン子のおかげだ。
 合唱大会の結果は、合掌するような結果に終わってしまうなんて……いや、これは駄洒落じゃなくて、僕の恨みもほんのちょっぴり入っているのかもしれない。ペン子がいなかったら、ちょっぴりでもなかったかもしれないけれど。……いや、ふざけていたことは申し訳なかったかもしれないが、それで僕とペン子に冷たく当たるのは違うだろう。
 大西。お前もだよ。なんで矛先を僕に向けるんだ。あぁ、そうか。嫉妬してたのか。ただ、これだけは言わせてくれ。別に僕はお前を殴ったりしないから。言葉でぶん殴ってやるから。「そんなだから、女子と仲良くできないんだよ」

 お母さんが、僕を抱きしめて言う。え……僕が悪いの……?
 そうか。諸悪の根源は僕か。卵だったらスクランブルエッグとか言ってふざけた表現をしたから罰が当たったんだなきっと。もう、手遅れ。卵はフライパンというクラスの中で焦げ付いて真っ黒だ。これは落とすのには相当手間がかかる。ただ、一つ。
 僕が学校へ行かない という方法を除いて。

 最善の選択をした僕に、訪問してきたペン子。誰だって変化を受け入れるのはつらいよ。変化=良いことばかりじゃないし、むしろマイナスなことの方が多いよ。こんなことを書いていると、小学五年生の分際で達観したようなことを言って と思われるかもしれないけれど、今回の一件で十分に身に染みてわかったよ。溶けだした氷はどうやら、僕の内側に徐々に染み込んでいってたみたいだ。ははっ。この笑いも冷たいや。
 ペン子は言う。ペンギンにとっての海は空だと。僕よりよっぽどペン子の方が達観しているような気がしてきた。
 もう一度スタートラインに立ちたいと思う僕に、ペン子が渡した卵と言葉。その両方がほんのりとした温かみを帯びて、ペン子とともに南極へと降り立った。
 スタートラインに立ったつもりが、南極に降り立つなんて。南極だけにそんな寒い話があるかと思わず漏らしそうになった声を必死に押さえつける。それに負けじと言わんばかりに、雛が精一杯の声でなく。むいむいと。

 公園に戻ってきた僕とペン子。ほんの少しの南極旅行は、夢じゃなかった。現実だった。このぬくもりは、決して夢でも幻でもないんだ。

 10年。僕の巣立ちは失敗し、完全に居場所を失った。思い残すことはないと遺書をしたためようとしたときに割れた卵。縋るような気持ちでペン子への思いの丈を叫ぶ。……思いが通じたのかはわからない。あるいは、10年をかけて、氷の重さが完全に消えた結果なのかもしれない。テレビに映るペン子は紛れもないペン子だった。
 ペン子が僕の冷え切った体を温めるように、熱湯のような言葉をかけていく。それは打たせ湯やかけ湯のような生易しいものじゃない。桶に汲んだ熱湯を思いっきりぶっかけるような。

 ペンギンだから空を飛ぶ! 最後の一言は鉄砲水ならぬ、鉄砲湯のように。僕の冷え切った心をぽかぽかにしてくれた。

 今の僕なら。きっと、画面の向こう側まで飛んでいける。🐧だって、空を飛べるんだから。
 

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