海が消えた日 side B

九頭見灯火

第1話

 スリップ・ボードで地球のあった場所まで滑る。遠い記憶が蘇っては消えていく。かつての友達のフーも、そして僕も。押し花のように折り畳まれてしまったのは比喩ではない。たとえば音になってしまったペンギンだとか音になってしまった鯨だとか。僕の乗るスリップ・ボードのさきにはかつてペイル・ブルードットと呼ばれた青い星の名残がある。潰れた、それは壁に描かれたグラフィティのように。

 僕は今までのことを思い出している。それは潰れてしまった青い星の立体図をもう一度立て直す時間に等しかった。僕はずっと前からフーのことを知っていて、でも諦めきれなかった過去の記憶を抱きしめて生きてきた。

 加速するスリップ・ボードがやがて青い星のうえに辿り着くとき、僕はすでに知っていた。

 何をって?  思い出と言えばセンチメンタルだ。

 僕にはあの日のショーがありありと思い起こされた。


 フーは僕にとって何だったのだろうか。友達にしては親しかったし、恋人にしては遠かった。僕にとって彼女は何をしても最高のナンバーワンだったのは間違いない。彼女の作るガラクタを通して僕は深いイマジネーションのなかへと没入する。それが恍惚で快楽だった。僕の視覚はなにを通してもなにも感じなかった。でもフーだけは別だったのだ。僕にはたとえば小さな空き箱をべりべりと破壊して造形する楽しみがあった。だけど、それはやがて上達するとかクリエイティブとか、そういう大人たちの基準で測られる何事かに変身して光を失った。

 僕にはすべて分かっていた。それが大人になるということだ。そういうものなのだ、と。ぐちゃぐちゃになった色彩のなかからパンクだとか、そういうありありとした言葉を見つけてこれたのはフーのお陰だと言っていい。僕たちには工作がペーパー・パンクであり、何よりも楽しい時間だったのだ。教師が呆れて、僕たちを廊下に立たせるくらいには。僕たちはその頃、何にだって成れたし、何にだって成れるのだと信じていたものだった。それは横にいるフーが天才だからに他ならない。

 ある日、フーが校庭に白線で描いた摩訶不思議なアートを僕は屋上から眺めていた。教師たちが怒ってフーに謹慎を言い渡し、僕たちは数日離れ離れになった。

 僕には大人たちがパンクを信じていないのだと思われた。僕たちにはいつもパンクがあった。音楽も芸術も、食べ物も、テレビも、そう、すべてだ。

 

 スリップ・ボードで地球のあった空間へと滑っていくと地球は押し花のように潰れてしまっている。何と形容したら良いのか。僕には分からなかった。愛すべき、家族や、そしてフーがあんな土地に縛り付けられているなんて。僕は特殊な無線で連絡をする。フー、聞こえる? ジャムだけど……。僕にはフーの声より先に海が聞こえた。海はザーザーとホワイトノイズの嘆きとともに確かにそこにあった。僕たちの世界、そして海、すべては沈んでしまった。一次元上の高次元領域に折り畳まれてしまった。僕たちの地球は、なんて言わない。そんな教科書的なコメントはしない。

 僕らは潰れてしまった。徹底的に不細工な形で、永遠に、取り残された人々を考える。彼らは、あの折り畳まれた時空で生きている。それはまるでデータになってしまった故人を生き返らせるようなものだ。無線から聞こえる数多の残響は、人々の叫びだ。

 あの日、たしかに海は消えた。あの日、たしかに僕たちは別れた。

 ジャム……、さよならだねってフーは言ったんだ。

 謹慎が解けた後、フーといっしょに海へ出かけた。ところが海は姿を変えていた。南極が黄海に貼りつき、ペンギンたちが浜辺に歩いてきていた。そんなことが起こるはずもない。しかし宇宙の対称性の破れがそれを引き起こしていた。空間の捻じれというべきなのか引き込みというべきなのか、空間がねじ曲がり、科学者たちは高次元空間へと空間が折り畳まれていると説明したが、はっきりとその状況を理解できたものはいなかった。僕たちの愛おしい青春の海はねじ曲がった南極といっしょにあった。

 ジャム、南極ってどんな感じなのかな? フーはそう言って僕を南極へ連れて行った。やがて僕たちはつぎつぎと海の生き物が音になって消えていくワームホールを見つけた。僕にはそれが最高のパンクに思えたけれど、フーにはどう映っていたのだろう。フーはさよならだねって言って、そのワームホールへと消えたんだ。


 ずっとあの後、彼女のことを調べた。彼女の両親は事故で他界していて叔母夫婦に預けられたが、仲はとても悪かったらしい。家にも学校にも彼女の居場所なんてなかった。こんなに近くにいたのにフーは何も言ってくれなかった。僕は特別だって自惚れていたんだ。僕は彼女になんて言えば良かったんだろうって何度も問いただしている。僕は黄海に続く南極がやがて地球を呑み込むことを知って、命だけは助かりたいと宇宙船に乗って火星に逃れた。火星の大気はとても冷たくて夕焼けは青くてとてもパンクだった。

 彼女のことを夢に見る。幼い日の何でもない、でも輝く日々が思い出される。僕には最高の日々だったんだよ、ほんとうに。

 オリンポス山に地球が見えたとき、空間の捻じれがここまで来たという驚きのほかに、地球のうえに数十機の光のドローンが見えた。

 ドローンは龍の形を取った。そして川の字を横にした形に流れると鯨の形を取る。そしてドローンがパッと消えたと思ったら、ペンギンの姿へと変わった。

 ああ、彼女は生きていると思ったね。最高のショーを考えられるのは彼女しかいない。

 僕はオリンポス山の見える鉄道から彼女の名前を叫んでいた。


 どうやら、スリップ・ボードでこの時空系にいられるのもこれまでのようだ。僕には彼女が声になってしまったのだと知った。僕には、音になったペンギンも、音になった水しぶきをあげる鯨も、声になってしまったフーの面影も懐かしく感じられる。僕たちの宇宙はすでにワームホールを中心に形を変えつつある。それが時空の形をも捻じ曲げ、僕たちをいずれ再会させるだろうか? そんなことは夢の話だ。忘れることが大人になるってことなんだ。スリップ・ボードが波しぶきを上げる。それが僕の見た最後の海だった。

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