第7話 松原
打ち付ける雨と土の匂い。当分止みそうにない。気づけば公園一帯は銀木犀で覆われていた。月明かりを失った公園に咲く白い花は、自らの存在を示すすべもなくただ雨に打たれるがままだった。
激しい雨音に混じって足音が近づいてくる。驚いてその方角を見ると池月先生の姿があった。
「よう」
彼は傘も持たずにこの雨の中を歩いてきたようで、すっかりずぶ濡れであった。寒さに震える僕とは対照的に彼は全く気にしていない様子だった。彼は怒りとも悲しみともいえぬ表情を浮かべながらもその感情を必死に押し殺している様子が感じられた。僕の隣に腰を掛ける。
「匂いですよね。この世界を構築しているものは」
僕は単刀直入に彼にぶつける。今まで記憶が戻る際には必ず何かキーとなる匂いが存在した。僕は匂いによって記憶が戻る。いや、匂いによって記憶が操作されているのかもしれない。
「そうだ……と思う。ただお前の心のなかで何が起きているのかはっきりとわかったものじゃない。だけどお前が特別匂いに強い執着を抱いていたのは気づいていた」
「気づいていたって?」
「あの日からお前は常に何かを嗅ぎ回っているようだった。比喩ではない。何か見逃している、聞き逃しているものがないかを探すように、嗅ぎ残しを探しているようだった。正直、気味が悪かった。ハルが逝っちまったから気がおかしくなったのかと思ったよ」
ぼんやりと思い出す。確かに、どこかに彼女の存在が残っていないか、まだいるんじゃないかとずっと探していた気がする。
だけど、何かもう一つ、大事なものを思い出していない。
「いいか、木田くん、ハルは――ハルはもういないんだ、お前もいい加減こんな夢を見ていないで現実を見ろ」
一語一句池月先生の言葉を咀嚼する。何かが引っかかる。ジリジリと脳裏を焦がすような違和感。強く握った鉛筆をコンクリートにこすりつけるような、そんな不快な感触が湧き上がる。
「ハルは――」
ハル? 木田くん?
なぜそんな呼び方を彼は続けているのか? 遥は、他の誰からもハルなどと呼ばれてはいない。池月先生も他の生徒をそんなふうに呼んだりしない。彼女、遥だけをそうして呼んでいる。
「先生」
彼の言葉を遮るように言葉を被せる。自分の中に冷たい、どろりとした感情が湧き上がる。
「彼女――夏梅遥とどういう関係だったんですか?」
ボートハウスの屋上で訊いた時、何か違和感のある答えだった。彼は何を隠しているのか? いや、僕はその答えまで知っている。知っている。
こみ上げる嘔吐感。こらえきれずに僕は地面に吐瀉物を撒き散らした。固形物なんてないそれを、雨が僕の足元から遠ざけていく。
「……木田くん、いいか、俺は何も」
苦しくなって咳き込む。口から一筋の粘液が土に向かって落ちていく。口の中が苦い。
「嘘ですよ。先生、もういいです。僕は気づいている」
「待て、聞け。お前が思っているようなものじゃない」
「遥と不倫関係にあった、そうでしょう」
逆流してくる胃液をもう一度押し込める。気づいていた。死に際の彼女の匂いに混じって微かに存在していた池月先生の匂い。あの相談室の匂い。だけどそれを認めたくはなかった。認めたら本当の意味で遥を失ってしまうような気がしていた。
「違う」
「往生際の悪いヤツだ!」
立ち上がって彼の胸ぐらを掴む。しかし彼の目を見て僕の手の力は緩んでしまった。
「……本当に……違うんだ……」
僕は彼の黒いジャンパーを放す。彼が話し始めるのをただ待った。彼はしばしあちこちに視線を移しながら自分の言葉を探しているようだった。
「俺は……一方的にハルのことが好きだった。本当にしょうもない話だ。教員失格、いやもう教員を辞めてるけどな。自分の生徒を好きになる方がおかしいと思うよ。だけど、俺は本当にハルのことが好きだった……それだけなんだ……」
彼は顔を歪めながらうなだれた。僕は心の底から何かが冷え上がっていくのを感じた。
「あの日、俺はハルに自分の思いを伝えた。もちろん、お前らが付き合っているのを知っていた。だけど、俺は、だめだった。若かったなんて言葉で許されるとは思えない。最悪だ。尊敬していた教師からそんな目で見られているなんて知ったら、気持ち悪くて俺なら死ぬね! だけど俺はそれをやってのけた! 最低なヤツだ!」
半ば自暴自棄になるように、彼は叫ぶようにそう告白する。彼は泣いていた。静かに、飲み込んできたその涙を今この白昼夢に流し込んでいる。
「ちょっと仲良くなった、古典好きの女生徒と古典教師。それだけなんだ。それだけだったんだ。よくある話だろう……?」
僕は彼が言い終えるか終えないかのうちに彼の胸ぐらを掴み、殴りつけていた。
「ちっともよくある話じゃない! それで遥は……!」
池月はバランスを崩して椅子から落ちて後ろに倒れる。そこに蹴りを入れようとして誰かの視線に気づいて止める。公園を見渡す。土砂降りで霧がかった公園には僕ら以外の人影は見えない。だけど誰だ? 誰が見ている?
「俺は……俺だって……好きな女と一緒になりたかったんだ……」
足元の悲痛な呻き声に我に返る。おそらく彼を痛めつけたところでこの世界から出ることはできない。哀れな中年から目をそらし、僕は再びベンチに腰を掛けた。ふうっとため息をつくと喉にへばりついた胃液がツンと鼻を刺激する。ぎゅっと目を閉じて上がってきた胃液を押し込む。目を開けるとそこには海岸が広がっていた。
遠くに聞こえるはずの波の音は強い風にかき消され、音のない映画を見ていような感覚に陥る。
ベンチだったはずのものはザラザラした堤防になっており、体重をかけていた右の手のひらにコンクリートの荒い痕が浮かび上がる。そして少し離れて遥が座っている。空気は変わらず少し冷たいままだ。
彼女がいなくなる前の日曜日。僕らは二人で日帰りの旅行にでかけていた。早朝から鈍行列車に揺られるまま、行き着いた先でこうして海を眺めている。彼女が何を話しているのか、こちらからはほとんど聞こえない。人一人分空いた距離を、風がすべて音をさらっていってしまう。
彼女は不安げに、そして僕に聞こえるように大きな声で笑った。
しばらく無言で海を見つめ続ける。こういう時間が必要だった、とどこかほっとしながら僕はただ打ち付ける白波を目に焼き付けていた。ひと月前に交際を始めた僕らはまだ新しい関係に馴染めていなかった。ずっと、あの春から思いを募らせていた自分と、そうではない彼女。気持ちの差をどうしたら埋められるのか、考えれば考えるほど自分の気持ちばかりが高まってしまう。できるだけ考えないようにしても、どうしてもその差を意識してしまう。彼女もきっとその差に気づいていた。僕に悟られないようにしていただけで。
彼女が立ち上がる気配を感じて僕も立ち、堤防から離れてすぐ後ろにある松原に足を踏み入れる。あれほど強かった風が一歩松原に足を踏み入れるだけで嘘のように静かになる。足元で枯れた松の葉が砕ける感触と共に松の匂いが足元から僕らを優しく包み上げる。僕は彼女に歩調を合わせる。彼女はその長い足を器用に前後に動かしながら先へと向かう。
「そういえばさ」
彼女が口を開く。
「あの日、なんで私の隣にずっといたの?」
「あの日?」
「あの桜の日。私が鯉に餌をやってたのを見てたって言ってたでしょ。顔までは覚えてなかったけど、きっと弘也なんでしょ?」
「ああ、うん……そう、それ僕」
「なんかずっと隣りにいるなあって思ったのは覚えてるよ。君、なんか変わった匂いがしてたから」
「え?」
僕の体がこわばる。匂い? 臭いのか?
「梅の花の匂い? 今の季節、よく咲いてるよね。あれの匂い。何か香水とかつけてるの?」
「いや……全然そんな自覚ないけど。香水もつけてないし、きっと公園のどこかに生えていたんじゃない?」
「桜の季節に梅は咲かないよ」
彼女は少し可笑しそうに微笑むと松原の道を進んでいく。
「……なんだか、あの日、この春が永遠に続けばいいなって思ったんだ」
と僕は彼女の背中に向かって言う。
彼女は立ち止まる。僕も立ち止まった。松原に静けさが戻る。
「あの日、君は桜の木の下でパンを散らせて、消えていった。なんだかそれが桜と重なって見えたんだ。桜も花びらを散らして、僕はあの鯉のようにそれに狂わされる」
「じゃあ君は散った後の桜にはもう狂わされない?」
彼女は振り返って、いたずらっぽく笑いながら問う。
「違うよ、僕は春がまた来ることを知っている。ただ、できればずっと咲いていてほしい。僕はずっと狂っていたいんだ」
遥は頬を赤らめながらしばし考え込む。
「散ればこそいとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき」
それだけいうと前を向いてまた松の葉を踏みしめて先へ行ってしまった。僕は慌てて後を追う。
「ごめん、どういう意味?」
「マジで無粋っていうんだよそういうの」
「えっ、怒ってる? ごめん」
「もー怒ってないから! でもちゃんと授業聞いて!」
彼女に腕を小突かれる。彼女の柔らかな肘が当たる。僕も小突き返す。柔らかな腕の感触。
「ちょっと」と彼女は笑う。
見つけたベンチに腰をかけて、僕らは日が傾くまでずっとそこで話していた。お互いのこと、家族のこと、将来のこと。僕らは僕らの気持ちの差を埋めるように、言葉を探して並べては隙間にそれを丁寧に詰め込んでいった。
「初めて弘也とこんなに喋ったと思う」
遥が赤く染まりつつある松原を眺めながらそう言う。
「僕も同じ」
彼女と同じように松の向こうに見える紺碧の海に目をやる。静かで心地よい沈黙が僕らの間を埋めていく。
彼女がそっと僕の左隣に移動する。僕はその手を握って彼女の体温を感じ取る。彼女の拍動がこの手を通じて僕の中に流れ込んでくる。彼女が僕の肩に頭を乗せる。僕はただ彼女の肩を抱き、柔らかで懐かしい香りを感じながらその唇に口づけをした。彼女は照れくさそうに微笑んで、そしてまた僕らは海を見ながら長い時間そうしていた。
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