第2話 金木犀の女
外に出ると甘い香りが鼻につく。この季節恒例、金木犀の香り。遅刻すると上司に伝えるも、先日の残業について横田が色々と言ったようでゆっくり来いとだけ言われた。
アパートを出て右を曲がったところの生け垣にその木はある。オレンジ色の花をつけた、甘い芳香を放つ花。金木犀。
その木の下に落ちた花びらを拾う。手についた金色の粉が朝日を浴びてキラキラと光る。
夢だったのだろうか。もう一度自分に問いかける。いまいちそこの境界線が自分の中ではっきりしない。いつもならシャワーでも浴びれば自分がその日見ていた夢の内容なんて全て忘れてしまうのに。今まで確かに見ていたものを、テレビのチャンネルを変えるように急に切り替えられたような、そんな気持ち。また元のチャンネルを開けば元の世界の続きが見れるんじゃないのかと考える。
彼女の香りを思い出そうとする。金木犀だったのだろうか。確かに甘い香りだったが、どこかもっと根本的なところで違う気がした。
ふっと息を吹きかけて花を飛ばす。オレンジ色の花が放物線を描いて落ちていく。金粉はそのまま見えなくなって秋空に消えていく。僕はゆっくりと駅へと足を向ける。弁当屋、ドラッグストア、スーパーを抜け、高架下のパン屋を見ながら駅へ向かう。その時、何かを感じてふと駅前の横断歩道の向こうを見る。横断歩道の向こうにもここと同じようにいくつかのアパートが並んでいる。
「…………」
金木犀の香りのせいで今もまだ夢見心地でいるらしい。今日も忙しくなるというのにこんなところで道草を食っている場合じゃない。改札を抜け、僕は急いで職場へと向かった。
◇
「ちょっといい?」
夕方、職場を出ると由美が待っていた。
今日は遅刻までしたのに珍しく定時に帰れる――上司や横田が率先して僕の仕事を引き受けてくれたのが大きいが――と思っていたが、どうやら、そういうことだったようだ。
「昨日もなんで連絡くれなかったの? 私心配したんですけど」
とても怒った様子で彼女は僕に向かって歩いてくる。
「ごめん……その、疲れていて」
「私だって仕事してるし、疲れてるけど、あなたのこと気にしてるんだよ」
グレーのスーツに身を包む彼女はこの近くの会社で経理をやっている。嫌味っぽく言ってるように聞こえるけど、本当に彼女は心から僕のことを心配してくれているんだと思う。
「ねね。今日どこかご飯連れてってよ。この前の埋め合わせ」
「ああ、うん、いいよ。行こう」
彼女は僕の右腕に腕を絡ませる。久々に会う彼女の首元からも金木犀の香りがする。
「何食べたい?」
「んー、高級フレンチ」
「今からじゃ無理だ」
「なんでもいいよ」
「それも困る」
「あ! あの焼鳥屋は?」
「この前あそこの鳥刺しで当たったんだよ……」
他愛も無い話を続けながら駅前にある小洒落たイタリアンに落ち着いた。
ここ二日で忘れかけていた感覚。そうだ。これが現実。ここが僕がいる世界で、隣に、向かいにいるのは由美だ。
彼女は久々の会食で嬉しそうにワイングラスの脚を指で撫でながら上機嫌に仕事の話をする。僕は適当に相槌を打ちながらも、どこか目の前の彼女に集中できないでいた。
ふと会話が途切れる。静かに流れるジャズが僕らの合間を取り持っている。
「聞いてる?」
彼女が不安そうな顔でこちらを見つめる。
「あ、あぁうん、ちょっと聞き逃したかも」
苦し紛れに出た言葉に彼女は少し不思議な顔をする。
「ところでそれ――香水?」
「うん、気づいた? 金木犀。いいでしょ。この季節限定なんだよーこれ」
彼女はちょっと嬉しそうにかばんから小さな香水の瓶を取り出す。オレンジ色のラベルが貼られている。
「なんだか懐かしい気持ちになるよね」
彼女は鞄にそれを仕舞いながら言う。
「懐かしい気持ち、たしかにね」
「子供の頃嗅いだわけではないと思うんだけど、何かを思い出そうとしてしまう……ことない?」
「何かを思い出そうとしてしまう……」
「プルースト効果って知ってる?」
「さぁ……?」
プルーストってどっか海外の作者じゃなかったか?
「特定の匂いを嗅ぐと、ある記憶とか、感情とか、そういったものが呼び起こされたりしない?」
由美は続ける。
「そういう現象をプルースト効果っていうらしいんだけど、金木犀は多分、これだけ強烈な香りで、この季節だけ。人肌恋しい季節じゃん? だからなんかそんな気持ちと匂いが結びついちゃってるんじゃないかな」
確かに金木犀の香りは何か僕の中の感情を呼び起こすような気もする。だけどそれは恋しさとか、そういう類のものではないような気がしている。
「そういえば、弘也は明日休み?」
明日は水曜日――定休日だ。
「ああ、うん。休みだよ」
「これから家に来ない?」
「うん、行く」
店を出ると、彼女を中心として街全体が甘い香りに包まれていた。少し肌寒い。
「私、この季節が好きなんだー」
店の明かりにぼんやりと照らされて、はにかむ彼女。そっとその手をとって駅へと向かう。彼女のマンションまで二駅。いつもの道、いつものドラッグストアで酒を買い、彼女の部屋へ。
どこで買ったのか、玄関の脇にまで金木犀が飾られている。おかげで部屋全体が甘ったるい。本当にこの花が好きなんだろう。
部屋で飲み直すまでもなく彼女は上機嫌に酔っていて、上着を脱ぐとベッドに仰向けに倒れ込む。僕も上着を脱いで、買った酒を冷蔵庫に詰めてから彼女のいる部屋に向かった。
「おいでよ」
暗い部屋のベッドに彼女は深く沈んでいる。膨らんだシャツが彼女の深い呼吸に合わせて上下する。僕がリビングの照明を背にして部屋の入口に立つと、彼女はすっかり闇に埋もれてしまう。僕は部屋の電気を消して彼女のそばに腰をかける。彼女は両腕を上げて抱きしめてと無言で促す。ふんわりと香る彼女の香りに頭がぼんやりと麻痺していく。
「由美――」
目を閉じ、彼女の首の後に手を回した時、腕の中の感触が違うことに気づいた。
「は――?」
慌てて顔を引いて目を開けるも眩しくてすぐに目を閉じる。
薄っすらと目を開けると――またいつもの彼女――ハルだった。
「ふふ、いきなり大胆ですね」
「や、は? いや、なん……で……」
あまりにも違う光景にくらくらと目眩がして思わず座り込んでしまう。池の周囲にある通路。ざらりとした砂の感触。柔らかいはずのベッドも、由美の感触も、何もかもが幻覚だったようにどこにも存在しない。
ハルの姿が視界に入る。今日も同じ服装。彼女はこの春の公園の女王のようにすべてを従えているのかもしれない。
「夜はいい」
夜?
「ここは昼のようだが……」
「金木犀の彼女のことはもう忘れてください」
「なぜだ? 僕は由美と会っていた。違うか? なぜ……ここにいるんだ? 君は由美のことを知っているのか?」
「私は金木犀の香りが嫌いなんですよ」
ハルはぶらぶらと歩き出す。僕も立ち上がってついていく。ついていくほかなさそうだからだ。
彼女の後ろを距離を取りながらついていく。今日は人もいなければ提灯もない。鳥も鳴いていない。風もなければ波もない。
池にかかった橋の中ほどまで来て彼女は橋の欄干に寄りかかった。僕もその隣に倣う。じっとりと照りつける春の陽気が僕のワイシャツに汗じみを浮かび上がらせる。
今日の池は波一つなく、いつまでも青空を映し続けていた。枯れた松の葉が欄干に干されていて、僕はそれを指先でいじりながらこの夢の出口について考えていた。いつもならアラームが現実へ引き戻す合図だ。しかし今は――現実世界を正しく認知できているのであれば――由美の部屋にいる。彼女は僕をベッドへ誘っていた。だから僕がおかしくなっていることに気づいているはずだ。だったら起こしてくれてもいいんじゃないだろうか?
「嫌いなんです、金木犀の匂い」
ハルが再び口を開く。欄干に乗せた腕にうずくまるようにして彼女は僕の言葉を待っているようだった。
「……どうして?」
「嘘つき、だからです」
「誰が?」
彼女は何も答えない。何のことを言っているんだ?
ハルは視線をこちらに向ける。敵意の奥に熱を帯びた、視線。
顔を起こすと、僕の方に近寄ってきて、僕の胸に飛び込む。受け止めるか迷ったが、気づけばその華奢な背中に手を回していた。
甘ったるい、どこまでも甘ったるい金木犀の匂い――
「帰って!」
ハッと目を覚ますと同時に背中に衝撃。目の前のドアが閉められる。ただただ突然の出来事に、何も動けない。
ここは――由美のマンションで、彼女の部屋の前だ。
スーツとフロアの上に金木犀の花が散らばっている。払いのけても金粉と匂いはまだ身にまとわりついている。
何が起きたのか全くわからない。僕は何をしていたのか、何を見ていたのか。背中の鈍い痛みに続いてマンションの手すりに体温が奪われていくのを感じる。今の声は由美の声だ。
「おい、由美?」
インターホンを鳴らすも、返事がない。もう一度鳴らすと「帰って」とだけ聞こえてプツリと消えた。
僕は三度目のインターホンを鳴らすこともなく、逃げるようにその場をあとにした。
わけがわからない。わからないこと続きで頭がパンクしそうだ。覚束ない足取りで自分の最寄り駅に戻る電車に乗る。吐きそうだ。今日は何を食べた? 記憶の上ではイタリアンだ。由美と確かに食べた。スマホをポケットから取り出そうとしてレシートの存在に気づく。見ると職場近くのコンビニでパンを一九時に買ったと確かに印字されている。スマホで確認すると今日の日付で間違いない。
――あの由美は夢か現か、あの公園は幻なのか。
スマホを確認する。由美に最後に送ったメッセージは三日前。残業の夜に送った「誕生日おめでとう」。そう、そこまでは間違いなかった。だがそのメッセージは既読にもなっていない。どういうことだ?
メッセージ履歴は他に見るもどれも大体一週間前を最後にして誰からも連絡が来ていない。通話履歴はどうだ? 今朝上司に遅刻の連絡したはずだ。
「……なんだこれ……?」
通話履歴は見慣れない番号で埋め尽くされていた。大量の不在着信、時々上司の電話番号も挟まっている。全く記憶にない。
自分でも信じられないくらい呼吸が浅く早く苦しくなる。最寄り駅について電車から逃げるように降りるとホームにある青色のベンチに座る。
「ハル、もういいだろ、なんだこれは、どうかしてるよ……」
僕は頭を抱えて地面に向かってそう呟く。彼女に届くかわからないがそうぼやくしかなかった。電車が出ていくと駅に静けさが戻る。疲れてるんだ、今日も。色々とあった。そうだ、これもまた夢なんだ。
――スマホのアラーム音を聞けば目が覚める。
そう思いついてスマホのアラーム音を大音量で流すも何も変わらない。向かいのホームの人間が不審な目でこちらを見るだけだった。ひんやりとしたホームの空気。
違和感。朝はあったはずのものがなにか足りない。自販機? いや違う、ベンチ、トイレ、隅々まで見るもどこにも違いは無いように見える。だけどこの違和感の正体は何だ?
とりあえず部屋に帰って寝るべきだ。ベンチから立ち上がって階段を降りる。改札を出る。高架下のパン屋、スーパー、ドラッグストア、弁当屋……そこを抜けて今朝の出来事を思い出した。
「金木犀が……」
家の前の角にあった生け垣の金木犀がなくなっていた。どういうことだ? 近寄って見てみると微かに金木犀の香りがする。しかしそこにあるのは金木犀によく似た白い花だった。僕はしばし呆然と考え込むようにその白い花を見つめていた。
その時、誰かがこちらに近づいてくる足音がする。
「待ってたよ、木田くん」
名前を呼ばれてドキッとして振り返る。四十歳くらいの見知らぬ男がそこにいた。
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