第6話 公園

 不思議なことに、あの時由美と飲んだチューハイの空き缶がまだそこに転がっていた。二年くらい前の会話だったはずだ。それにあのときは空き缶は持ち帰った。

 拾ってそれを確認する。随分汚れているが、不思議な重みがある。横に振ると微かなレモンの香りが残っていた。開いた雨樋の口に逆さまにしてその缶を突っ込む。小さな音を立てながら缶の重みが消えていく。

 池月先生が言う場所に来たが、ここから銀木犀をどう辿ればいいのだろうか。そう思って公園を見下ろす。ふと視界に白く鈍く輝く光がちらつくのが見えた。銀木犀だ。そのとき、不思議な感覚に包まれる。僕は自分でもどうしていいかわからず、気づいたら手すりに足をかけていた。飛び降りるのが一番近い。確かにそうだ。ここは夢で、死ぬことはないんじゃないのか? そんな疑念が頭によぎる。僕は一刻も早くこの世界から逃れたいという気持ちに支配されるようになっていた。

 だが逸る気持ちをなんとか収めて僕は落ち着きを取り戻すように深呼吸をする。再び登ってきた階段に足を踏み入れる。頭が痛い。正常な思考を誰かに吸い取られたのか、あるいは誰かにベールをかけられたのか、まともに深く考えることはできなくなっていた。ただただ、帰りたい。この世界から元の世界に戻って。それから――それから僕はどうするんだ?

 上で見つけた銀木犀は高架横のカフェの店の前に植わっていた。顔を近づけてその微かな芳香を胸に吸い込む。由美の顔が浮かぶ。色は違えど、似たような香りを彼女は放っていた。次の銀木犀は高架下を抜けた先のうどん屋の店の前。僕はすっかり冷えてしまった体を擦りながら慎重に向かう。寒い。上着はボートに置いてきてしまった。戻ろうか迷う。振り返ろうとした時、胸に嫌な予感が浮かび上がった。僕は振り返らずに次の銀木犀へと向かう。

 そうして町に点々と植わっている銀木犀を辿るうちに自宅近くの十字路に辿り着いた。今朝はまだ金木犀だった場所にひときわ大きな銀木犀が植わっている。月明かりに照らされて重々しく冷たい雰囲気を放っていた。

 その時、誰かが僕の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 辺りを見渡すも、明かりのない無機質な住宅以外にはなにもない。冷たいコンクリート塀、赤く色づいた生垣、沈黙する街灯。しかし誰かが僕を見ていて、そして呼んでいる。まるでビルの最上階から地上に向けた声のように、微かな声の主の居場所に気づけないでいる。

 僕は次の銀木犀を探した。坂を登った先に白く輝く花を見つける。その時不意に脳裏に由美の姿が浮かんだ。空にぶら下がる彼女の腕を僕は両手で掴んでいて、彼女は僕の目をしっかり見据えてなにか諦めたような表情を浮かべている。そして誰か、僕の隣にいる人間が僕の手に触れようとする――。

 僕は何かを叫ぼうとして、世界に引き戻される。しばしその光景に呆然とする。頭の芯がズキズキと痛みだす。

 僕は頭のひどい痛みに耐えながらゆっくりと坂の途中にある銀木犀へと向かう。静まり返った住宅街の中に誘導灯のように銀木犀が僕に進むべき道を照らしている。突き当たりを曲がる。同じように道が続く。微かなその芳香がたまらなく恋しくなって、僕はすがるようにその白い花を辿っていく。

 由美は、本当に僕を裏切ったのだろうか?

 池月先生は裏切ったのだと言っていた。しかしこの世界で見た出来事は本当に現実世界に繋がっているのだろうか?

 寒い。僕は身震いをしながらそんな考えを振り切るように今度は坂を勢いをつけて走って下っていく。

 いくつかの銀木犀を通り過ぎると、左手の視界が急に開け、小さな池が飛び込んできた。

「ここか……」

 ここの公園の存在は知っていた。不動産の紹介で何度かこの地域まで足を伸ばすことがあったからだ。特別名所というわけでもない。遥がいた公園と比べてもだいぶこじんまりとした印象の公園だった。

 遥がいた公園? 遥がいた公園を僕は知っていたか? 必死で思い出そうとするも、やはり何かが僕の頭の中で邪魔をする。頭が痛い。

 その時、ある匂いに気づいた。そして次の瞬間それが頭上から降り注いできた。雨だ。

 先程まで月明かりを映していた池はすっかりぼやけてしまい、僕は逃げるように屋根のあるベンチに避難した。

 土に打ち付ける雨は土を掘り返し、やがて辺り一帯に雨と土が混ざりあった匂いが充満する。僕はひんやりとしたベンチに腰を掛け、僕を守る天井を仰ぎ見ながらその記憶を嗅いでいた。


   ◇


『駅前公園開発事業』

 そう掲げられた看板の向こうで重機が我先にと池に土砂を流し込んでいく。雨の日のような、少し湿った土の匂いと、ヘドロの匂い。僕はすっかり切り株になってしまった桜の木々の姿を思い出そうとしていた。

「これからはもっと客が増えるぞ。あそこにはいろんな店がたくさん入居する予定らしいからな」

 今朝、そんなようなことを上司が上機嫌に話していた。

 僕は解体中のボートハウスの近くの自販機でアイスコーヒーを買う。振り返って駅の隣のビルを眺める。あそこから由美とこの公園を見てから半年経った。以前から開発の案が出ていたが、ようやく周辺住民との折り合いがついたようで先月になって開発が決定した。そこからはあっという間だった。

 僕は缶コーヒーを開けることなくポケットにしまう。


――僕と遥はここで出会った。

 オレンジ色のフェンスの向こうに見える、池の端っこだったであろう場所を眺めながら胸の痛みを感じる。

 高校二年の春休みのよく晴れた日。アイスでも買いに行こうかと適当に駅前に行くと、その公園の桜が目に入った。息を飲むような美しさと、春の麗らかな陽気に照らされて僕はすっかりいい気分になった。ふらふらと公園を歩く。池と桜を囲うように人々は公園を周遊し、そして僕もまたその流れを構成するひとりになる。

 池にかかる橋を渡って、スマホで写真を撮る人たちに倣って僕も写真を撮る。普段、誰に見せるわけでもない写真を撮るのはなんだか無意味に感じていたが、今日はそういう気分だった。そう、気まぐれ。チープなシャッター音とともにスマホに写真がいくつか保存されていく。

 その時、背後で水が小さく爆ぜる音がした。振り返ると少女が一人、池に何かを投げ入れている。それを争うようにして魚が奪い合っているのだ。

 僕と同じくらいの歳の少女。

「餌をやってるの?」

 本当に気まぐれだった。あまりにも暖かな春の日差しに熱射病にでもなっていたのかもしれない。それとも、彼女の美しい後ろ姿に酔いしれてしまっていたのかもしれない。僕は彼女の隣に立って声をかけていた。

「そうですけど……」

 不安そうに彼女は顔を上げる。そして僕を一瞥して再び足元の鯉に目を落とした。

 僕は何を言おうとしたのか忘れてしまったかのようにそこから先の言葉は出てこなかった。本当に、ただの気まぐれだったのだ。

 なんとなくそのまま離れるのもおかしな気がして、僕は彼女の隣でずっと鯉がパンを食べるのを見つめていた。

 八枚切りの食パンがすっかりなくなる頃、彼女は僕の姿をちらりと見て軽く会釈だけをして周遊する人間の群れに混ざっていった。鯉もしばらくは僕の足元で口を出して次の餌を待っていたが、パンはもう無い。落ちてくる桜の花びらを口に含んでは吐き出している。そうして次第に一匹一匹と足元を離れていって消えていった。鯉が見ていたのは彼女でも僕でもなく、落ちてくる餌だった。

 彼女がいなくなったあとも何かがその空間に残っていて、それが僕の中に特別な感情を引き起こす。会いたいという以上の気持ちが、僕の足から頭の先までのすべてを縛り付けていくのを感じた。

 桜が水面をどんどん覆っていく。春には必ず終わるが来る。もし桜が散ることがなかったら、こんなにも僕の心を乱すことはないのかもしれないと強く思った。


 ポケットの中のアイスコーヒーがぬるくなるのを感じながらも僕は重機が忙しく公園を掘り返す姿から目を離すことが出来なかった。

 それから一年も経たないうちに彼女は逝ってしまった。

 その短すぎる恋を僕はまだ消化しきれずに今もまだ胃もたれに苦しんでいる。

 見知らぬ土地から運ばれてきた土砂がトラックから池へと流し込まれる。砂煙が巻き上がり、切り株に積もり、僕に吸い込まれていく。

 彼女がこの景色を見たらどう思うだろうか?

 そんな気持ちが更に僕を縛り付けていく。ショベルカーの轟音が僕のため息をすっかりかき消してしまった。


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