第5話 金木犀の金粉の数ほど
僕はボートから降りると誰か人の姿を探した。誰でもいい、誰か人と話したかった。ここがまだ夢であるのか、あるいは現実であるのか確かめるすべが僕にはない。
思い出したのだ。遥がくれた微かな桜の花の香り。彼女は無念の死を遂げたあと、結局自殺で片付けられてしまった。僕らは結局何も立証することもできず、みすみす犯人を野放しにしてしまったのだ。
歩くたびに足元の湿った落ち葉が気持ちの悪い感触を足の裏に伝える。すぐ近くの茂みから聞こえるカネタタキのリズムが僕がまだ時間のある世界にいることを教えているようだった。秋だというのに、先程までの陽気がまだ僕の中に残っているように胸の中がまだ熱い。
――あそこから元の世界へと戻ろうとするなら、銀木犀を辿れ。
先程の池月先生の言葉を思い出す。どういうことだろうか。遥のいたあの世界を『白昼夢』と彼は表現していた。とするとここが現実だろうか? いいや、彼はこの秋夜の世界を起点として『元の世界』を指しているようだった。
あそこ――池月先生が指していたビルの方を見る。今いるところから池の対岸、駅の隣。僕はそこを目指して歩き出す。ひんやりとした、微かに甘い匂いを孕んだ秋の空気が僕にまとわりついて離れない。なるべくその匂いを嗅がないように僕は腕で鼻を覆いながら進む。どうしてか、この匂いによって僕は本質的に自分の存在を見失ってしまう気がした。
いつか、ハル――遥と一緒に座ったベンチの隣を過ぎる。半分まで登った階段の先には、あの日見た屋台の提灯はやはり今日もぶら下がっていない。そして、彼女と話した橋。
『嫌いなんです、金木犀の匂い』
『嘘つき、だからです』
彼女はここで確かにそう言った。金木犀の匂い、嘘つき。僕はなんとなく今の状況と照らし合わせて理解する。金木犀の匂いに惑わされてはいけない。だが先生の言う「銀木犀」は何だ? 金木犀と何が違うのか。
橋を渡った先に金木犀のオレンジが目に入る。風に揺れながら金色の粉と甘い芳香を送り出す。その道を挟んだ向かいにもう一つ植木があることに気づく。金木犀に似た花だが、白色の花をつけていた。これが銀木犀であるととっさに理解した。これを辿れとはどういう意味だろうか?
僕は銀木犀に触れてそっと鼻を寄せて嗅ぐ。軽やかで、柔らかい匂い。ほんのり胸をくすぐるような香り。
手を放すと花がそっと揺れて元の位置に戻る。月光に照らされて輝くその白い小さな花はこの世界で僕の行路を示す唯一の案内灯だった。少し不安が和らぐ。
次の銀木犀を探しに道を進む。駅の方へと向かう道だ。しかし注意深く植え込みを覗き込むも、期待に反して銀木犀は一向に見つからない。まるで誰かが意図的に銀木犀を隠しているように感じる。
しんと静まり返った駅前の幹線道路。車一台走っていない世界にただ一人。不安と緊張で胃の辺りにむかつきを感じる。それらを飲み込むように息を吸う。ゆっくりと吐く。ここは匂いが薄い。
左手に見えるボートハウスを見上げる。屋上の展望台に人影を探す。遥か先生か、いや、この際誰でもいい。誰でもいいから姿が見えないか期待した。しかし誰の気配も感じない。
最後に池月先生が指していたビルを見る。駅の広場沿いに建っている何の変哲もない六階ほどの高さのビル。螺旋状の非常階段が月夜に黒い存在感を放っている。
僕は誰もいない横断歩道を渡り、そのビルへと近寄った。この上から元の世界へと戻るってどういう意味だ?
僕は螺旋階段に一歩足を乗せる。カツン、と軽い革靴の音が響く。その音は上へ上へと伝わっていき、やがて僕だけしかいないこの街へと飲み込まれていく。もう一歩、一歩と上へと向かう。この先に何があるのか全く知らないはずなのに、僕の過去に静かに沈んでいる記憶が浮かび上がってきた。
「こっちこっち、早く早く」
急かすように少しろれつが回らない彼女は手すりから乗り出して僕を見下ろす。僕の足取りは覚束ない。大量に摂取したアルコールが僕の脳から体全体を麻痺させていく。
ゆっくりと息をしながら右手に冷たいひんやりとした手すりを掴む。その右手に彼女の駆け上がる振動がコンコンと響く。汗ばむワイシャツのボタンを緩めて僕はその螺旋階段を一歩一歩登っていく。やっとのことで登りきった時、彼女――由美は最上階の通路でやっと来た、と笑いながら迎えた。
「ここ、夜桜を見るのに良くない?」
彼女の視線の先に目をやると公園全体を一望することが出来た。ライトアップされた青白い桜、木々の間を埋め尽くすように張られた提灯、ゆらゆらと月を映し出す夜の池。ここまで聞こえるほどの大きな声で騒ぐ若者。
「いいね」
息を切らしながら返事をすると由美は鞄からチューハイを取り出す。軽い音を立てて、炭酸の弾ける音が廊下に響く。
「こうやって、高いところからただ人を見ているのが私は好き」
「どうして?」
「私はこうして下の人たちのことを全部見れる。だけど下の人達は私には気づかない。例えばここで私と弘也がいちゃついていたとしても誰が気づくと思う?」
「君が変な声でも上げようものなら普通にこのビルの人間が気づくだろ」
彼女からチューハイを受け取って喉にそれを流し込む。
「そうなったとしても、私は一方的でありたいの」
「それは僕らの間においても?」
「それは……」
彼女は少し言葉に詰まりながら不思議な笑顔を浮かべる。
「私、弘也とは対等でありたいもん」
彼女もまた自分の缶を開けて飲み始める。
確かに僕らがこんなところで飲酒しているなんてあの提灯の下にいる人々の誰が想像するというのだろう。僕らからすると彼らひとりひとりはちっぽけな存在だが、彼らからすると僕らは目にすら入らない存在。どちらが一方的なのか、正直どっちもどっちだという感想を抱く。
「自分が神になったというつもりかい?」
「まさか。少しだけ他の人よりも視点が高くなっただけ、って言ってほしいかな」
彼女はそう言って満足そうに笑うと、缶を足元に置く。
「もし今私が下にいたとしたら弘也ならどうする?」
うーん、と僕は考える。選択肢は二つだ。大声で由美をこちらへ呼ぶか、僕が由美の元へ駆け下りるかだ。
「駆け下りる……かな」
「どうして? これだけ長い階段、駆け下りているうちに私を見失っちゃうかもしれないよ?」
「呼んでも気づくかどうかわからないだろ」
「ふむふむ」
彼女は屈んで缶を持ち上げる。長い黒い髪が廊下の明かりに照らされて熱を帯びた鉄のように鈍く光を発する。缶を回して口につけ、そして一呼吸置いてから
「飛び降りるのは?」
と訊いた。
その突拍子もない言葉に僕は胸に注射針を刺されたような小さな痛みを感じた。嫌な景色がフラッシュバックするより前に缶の残りの酒をすべて喉に収める。
「飛び降りたら元も子もない。君を呼び止めることもできないし、君もまた僕に二度と話しかけることはできないだろ?」
「……半分正解」
彼女は少し嬉しそうに笑うと、雨樋に残りのチューハイを流し込む。甘ったるいレモンの香りが辺りに広がった。
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