第4話 世の中にたえて桜のなかりせば

「いいか、ここの『せば』、そしてここの『まし』だかこれは反実仮想、つまり現実にはないような仮定をおいているわけだ」

 教壇に立っているのは池月先生。そう、彼は古典を教えていた。いくら掃除しても埃っぽい古い教室、窓の外から聞こえてくるグラウンドの喧騒は遠く、午後の一番眠い時間帯にその歌は千年以上の時を越えて再び黒板に刻まれていた。池月先生が文字を刻むたびにそれは白や黄色の粉をいくつも落とし、最後には黒板消しに吸われて消えてしまう。

『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』

 ぼんやりと機械的に板書を続ける。三色ボールペンをカチカチと替えながら訳語を写し、重要な部分に傍線を引く。ただ意味もわからずに言葉を書き写し、意味も理解せずに訳語を暗記し、意味の存在すら認識せずに答案を埋める。そんな感じの繰り返しだった。退屈な授業。隣で同じく授業を受ける遥に目をやる。彼女は熱心に黒板とノートに目を行き来させながら、時折短くした髪をすくって耳にかける。彼女が僕の方に気づいて少しだけ目が合う。なんだかまだ照れくさくて目をそらす。

 そんな古典の授業があった三月上旬の日だった。夕方、帰路につこうとしていたその時、中庭の方で騒ぎが起きていることに気づく。

「誰か飛んだんだってよ」

「二組の奴だって」

「マジかよやばくない?」

「誰か救急車呼んだ?」

「先生呼んでくる」

 下駄箱から中庭の方の窓を覗き込むと人だかりができていた。その人だかりに向かって教員が駆けていく。ふとその人だかりの上を見ると屋上に人影が見えた。誰かいるのか?

 僕も気になって急いで靴を履き替えて中庭へ向かった。遠くで救急車の音が聞こえる。誰だ? 飛んだのは。二組? 僕のクラスの人間だ。同じ学年なら。

 ザクザクと足元の芝生を蹴り飛ばすように人だかりに向かう。かき分けた先には――同じクラスで恋人の夏梅遥が倒れていた。

「遥⁉」

 介抱していた教員を押しのけて彼女を起こす。息は微かに残っている。目も開いている。だがその目はもうどこも捉えていない。

「しっかりしろ!」

 彼女は微かに残っている息をすべて吐き出すように何か言葉を話し始めた。僕は口に耳を寄せる。彼女の甘い匂いに混じった何かが僕の頭を余計に混乱に導く。

「……ち……ふかば……」

 何? 何を言っている? 何が深い? 誰のことだ?

「おい、木田くん、そこをどいてくれ。先生、こっちだ!」

 池月先生がやってきて僕を退ける。彼は青白い顔をしながら養護教諭を連れてくる。しかし彼らできることは何もなかった。

 まもなく到着した救急車に遥は乗せられ、そして、そのまま帰ってこなかった。


「彼女は最後になんて言ってた?」

 警察からの事情聴取。学校の空き教室で優しそうな女性刑事と向かい合う。夕日が差し込む教室で、ただ二人きり。僕はあの日からショックで教室に行けなくなっていた。彼女が飛んだという屋上のドアを、張られた進入禁止のテープの向こう側からぼんやりと見つめて過ごしていた。季節外れの、甘ったるい芳香剤がまるで彼女のいた痕跡をかき消すかのように辺りに漂っていた。

「深いとか、どうとか、言ってました」

「深い? どういう意味かわかる?」

「いや、ふかば……ふかば。深い場所と書いて深場……そう言っているように聞こえました」

 刑事は困ったようなため息を付きながらペンで調書に書いていく。

「その他に最近彼女に変わったことは?」

「いえ、特に……何も」

「他の人から少し聞いたんだけど、彼女とは恋人関係だったんだ?」

「……先月から付き合い始めたんです」

「何か最近悩んでいることとか……」

「ない……無いと思います。少なくとも僕はそう感じていました」

 これからだったのだ、全部、これからだったのに。

 刑事は何やら調書に書き付け、何か思い出したことがあったら連絡してと連絡先を渡してきた。僕はそれを受け取って部屋を出る。虚しさだけが無性にこみ上げてくる。軽い吐き気と頭痛。

「おつかれさん」

 部屋を出た僕を待っていたのは池月先生だった。前が開いた黒いジャンパーを羽織ってポケットに手を突っ込んでパタパタとはためかせている。

「ちょっと話をしないか?」

 彼に連れて行かれたのは『相談室』と書かれた部屋だった。一階の、薄暗い部屋。ここもちょうど西日が差し込んでいて、春の陽気が空いた窓から忍び込んでくるようだった。

 池月先生は部屋の明かりをつける。カランと小さい音がなって天井の古い蛍光灯が点灯する。

「座れよ」

 彼はソファを指して僕に促す。僕はそのグレーのソファに腰をかける。

「なんか飲むか?」

「いえ……」

「そうか」

 彼もそう言って腰を下ろす。季節外れの風鈴が部屋にかすかな風と共に音を運んでくる。音のする方を見ていると、池月先生が口を開いた。

「あれは他殺だ」

 その言葉に驚いて彼の方を見ると、うつむいたまま彼は手を震わせていた。

「さっき、お前が話しているのを聞いていた。悪いよ、盗み聞きしていたのは謝る。あれは和歌のひとつだ。間違いない。ハルなら知ってる」

「なんです? 一体、どういう意味なんです?」

「『東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春をわするな』。聞いたことあるだろ?」

「いや……」

「お前もう少し真面目に俺の授業受けろよな……」

 池月先生は後頭部をボリボリと掻いてため息をつく。彼のすぐ後ろの机の本棚から一冊教科書を取り出して開く。覗き込むように身を乗り出して彼の指差す箇所を見る。確かにそう書かれていた。

「いいか。お前が聞いたのは、これだ。この部分、ふかば、だ」

「……確かに、『ち』も聞こえたと思います」

「本当か?」

「はい」

 不可解な彼女の死。それが他殺であるとするならば、一体誰が? そもそもなぜそこから他殺であるとわかる?

「この歌は菅原道真という人物が無実の罪によって左遷されるときに詠んだ歌だ。俺の読みが正しければハルは事故死ではなく、無念の死を遂げたことになる」

「じゃあ早く警察に!」

「いいか、落ち着け、何も証拠がない。ハルは古典の成績は抜群だ。おそらく自分の意図を簡潔に伝えようとこの歌を選んだんだろう。だが、そこには何も犯人に関するメッセージが含まれていない。おそらく彼女は自身の敵を正しく把握していないか、あるいは……お前が聞き逃したか」

 責めるような視線に僕は目をそらす。僕は必死になって彼女の最後の言葉を思い出そうとする。しかし何も浮かんでこない。焦りから気づけば強く握った手のひらがじっとりと汗ばんでいた。

「まぁ、こればかりはどうしようもない。俺から警察の方には可能性だけ伝えておく。ただ警察は……自殺の線で動いている。もし他殺だとするならば、既に証拠の方は絶望的だろう」

 池月先生はため息を付いて教科書を閉じる。僕は何か、何でもいい、ヒントを探るようにその表紙を見つめ続けていた。

 ちりん、とまた小さく風鈴が鳴く。池月先生は立ち上がると窓を閉めてそのままぼんやりと立ち尽くしていた。いつもはやけに大きく感じていた彼が、とても小さく見えた。

「死ななければならないほどのことをハルがしていたと思うか?」

「……わかりません。ただ僕は、僕が知る限りではそんなことはなかったと信じたいです」

「そうか……そうだよな。いいか、木田くん。死んだ人間は生き返ることはない。もし本当にいるのなら、彼女を殺したやつを俺は許さない」

 いつにないほど彼は声を震わせながらそう言った。

 僕は急に居心地の悪さを感じ、帰ります、と言って相談室のドアを引く。立て付けの悪いドアがガタガタときしみながら引きずられていく。廊下に出ると薄暗い窓の向こうに葉桜が見える。春の終わりが近づいていた。

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