第3話 桜の女

「待ってたよ、木田くん」

 名前を呼ばれてドキッとして振り返る。四十歳くらいの見知らぬ男がそこにいた。

「帰宅はやめたほうがいい。君の会社の人間と警察が事情聴取で張り込んでいる」

「警察……? 警察が僕に何の用なんです?」

「兎にも角にも、この先には行かないほうがいい。俺は池月彰だ。覚えてるか?」

 街灯に照らされる男の顔をマジマジと見るも思い出せない。ひょろりとした背格好に痩せた髭面。

「まぁ、卒業したのはもう何年も前の話だからなぁ。とにかくここを離れよう」

 池月に言われるがままその場をあとにした。黒いジャンパーを羽織ったその男はポケットに手を突っ込んでパタパタとジャンパーを煽る。

「僕がおかしくなったんですか? あなたは誰なんです?」

「名乗ったろう。池月彰だよ。お前のいた高校の教師だよ。ハルには会ったか?」

「ハル? どうしてハルを知ってるんです?」

 わけがわからない。あれは夢ではなかったのか? それともこっちが夢なのか?

「お前は少し、大事なものを失いすぎて混乱しているだけだ」

「何を言って――」

「いいから、とりあえず静かにしろ。こっちだ」

 彼に導かれるまま僕らは再び駅への元の道をたどる。 

 駅を抜けた向こうの景色に僕は自分の目を疑った。高架線を抜けた先、今朝まであったはずのマンションが消え失せ、夜空が広がっていた。柳の木々の向こうに見える池には月が浮かんでいる。

「ここは――」

 思わず立ち止まる。池月は半ば強引に僕の腕を引っ張り、横断歩道を渡る。

 知っている、僕はこの場所を知っている。最近毎晩ここで過ごしている。あの池だ。今まで気づかなかったことなんてない。これだけ大きな公園であれば嫌でも目に入る。

 横断歩道を渡りきってようやく池月は僕の腕から手を離した。

「お前をどうしてもここに連れてこなくてはならなかった、すまない」

「何が、どうなってるんです? 僕の身に何が起きているんです? どうしてここがあることを――」

 池月は公園の方を向いて長いため息をついた。月夜が池と赤く染まった桜を青く照らす。

「お前は裏切られたんだよ、清水由美に。お前の恋人に。売られたんだ。横領の罪をお前に押し付けてな」

 何を――? 僕が横領……? 由美が? 僕を? なぜ?

「お前の記憶は多分未だかつて無いほど不安定になってる様子だな。俺のことも覚えていない。逆に何を覚えている? ハルのことか? ハルの何を覚えている?」

「ハルは、僕の夢の中の人ではない……?」

 僕の言葉に苛立つように池月は後頭部を掻く。やりたくないんだがとかブツブツ言いながら僕の方に歩み寄ってくる。僕は思わず後ずさったが、次の瞬間彼の薄い胸が僕の鼻に当たった。

 次の瞬間、僕は部屋の中にいた。覚えている。ここは高校の一角にある部屋だ。六畳くらいの簡素な部屋に、グレーのソファーがガラスのテーブルを挟む形で置かれており、僕の向かいには――池月先生が座っていた。

 開け放たれた窓から吹き込んでくる春の麗らかな陽気とは対照的に、彼の表情は冷たく、硬い。仕舞う機会を失ってしまった風鈴が、春風に吹かれて微かに音を立てる。僕らの間にあるのはその音と、長い沈黙。僕が何かを話そうとしたとき、元の夜の公園に帰っていた。

「思い出したか? 俺のこと」

「……池月先生」

 彼の名前を呼ぶと、彼は少しホッとした表情を浮かべて僕の肩に手をやった。二回肩を軽く叩くと池の脇に建っている建物へと向かう。

『ボート乗り場』

 ボート……そうだ、この公園にはボートがある。彼はボートのチケット売り場の横を過ぎ、ボート乗り場のすぐ隣の螺旋階段を登りだした。カツンカツンと彼の革靴が月夜に音を立てながら頭上へと向かう。僕も続いて登った。

 このボート乗り場の建物の上は展望台になっていて、公園を一望することが出来た。池月は一角に設置されたベンチに腰をかけるとぼんやりと話し始めた。

「俺も会ったよ。ハルに。何年ぶりだって話だ。嫁さんとテレビを見ていたらいきなりここに連れてこられていたんだ。もちろん俺だけさ。嫁さんは何も見ていないという。白昼夢ってやつだ。その夢の中でハルは俺に金木犀の女からお前を救ってくれとだけ言われた。意味がわかんねえよな、金木犀の女なんて。だけど俺はなぜだか誰かすぐにわかった」

 彼は話し続ける。

「清水由美だ」

「え……?」

 由美。由美が? 清水由美は僕の恋人の名前に違いない。

「清水由美は高校の頃俺の教え子だ。ただお前と学年は違う」

「僕と……同じ学校だったんですか?」

 これまで四年、たしかに彼女は自分の高校時代のことをあまり語ってこなかった。秘密が多い人だと思い込んで、あまり気にしないようにしていた。もしかすると彼女は僕と同じ高校出身であることを知っていたが、何か知られたくない秘密があった?

「俺はあの女が時たまに金木犀の香りを漂わせているのを知っていた。それでなんかこう、妙に印象に残っている生徒だった。何か達観していると言うか、我関せずという態度というか……まぁいい。それは。どうでも良かった。だけどあの日、あの夜に、ハルが俺のもとに現れた。それでそう、言ったんだ」

「先生とハルはどういう関係だったんですか?」

「…………」

 池月はそこで初めて押し黙る。

「……やましいことがあったわけじゃない。いや、誓っていい、俺は……」

 彼は苦虫を噛み潰したような顔をしながら何か聞き取れない言葉を吐き出している。

「……先生?」

「……俺とハルはただの生徒と教師の関係だ。それだけだ」

 苦し紛れに何かを絞り出すように彼はそう言うと視線を僕の方へ向ける。

「お前はハルについて何を覚えている?」

 ハルについて……三日前に夢の中で初めて会ったと思っていた。しかしこの話しぶりからするにおそらく僕らは高校の頃に何らかの関係があった。しかしそれを僕は覚えていない。本当になんでもない関係だったのか? 重要な記憶が僕の頭からすり抜けていっている。必死で思い出そうとするも、何も思い出せない――そう、何も思い出せない。高校。そう、高校の頃の記憶が抜け落ちている。大学にいた時代は覚えている。中学もうっすら覚えている。だけどはっきりと高校の頃の記憶がない。高校には行っていたのか? いや、行っていなければ先程見た景色が高校にある部屋だとどうしてわかる?

「先生は何を知ってるんです? 僕らのこと」

「それについては俺の口からは言わない。とても大事なことだ。自分で思い出せ」

「じゃあなんで今日――」

「ここに連れてこいと言われただけだ。ハルに。俺はそろそろ行くよ。非常に眠いんだ。歳を食うとな、もうこんな時間でも眠くて仕方ない」

 彼は立ち上がってボリボリと後頭部を掻く。ジャンパーに手を突っ込んでぶらりと階段を下っていく。彼の後頭部が消えようとしたとき、不意に彼の顔がこちらを向く。月明かりに照らされた彼の目は淀んでいて、非常に疲れ切った表情だった。

「もし、お前があそこから元の世界に戻ろうとするなら――」

 彼はそう言って駅の横に立つビルを顎で指す。

「――銀木犀を辿っていけ」

 彼はそれだけ言い残すとカツンカツンと螺旋階段を下っていった。展望台に一人残された僕は立ったまましばし呆然とする。

 体に力が入らない。手が震えているのがわかる。自分の見ているもの、触れているもの、どれもがすべて夢の中の出来事なのかもしれない。欄干に手をかけ公園を見下ろす。風も波も音もある公園。自分の後ろではまだ電車が動き続けているのがわかる。一体いつから世界が入れ替わっている? ここに公園はいつからあった? どちらが正しい世界だ? 清水由美、僕の恋人からどうして先生とハルは僕を救おうとするのか?

 軽い目眩――そして世界が一瞬で明るくなる。そして次の瞬間には世界の静けさに飲まれていた。

 またいつもの白昼夢だ。満開の桜、波一つ無い水面、浮かぶスワンボート。春の陽気。左隣に人の気配。

「また会えましたね」

 彼女――ハルが僕と同じように欄干に腕を置きながら微笑む。目まぐるしく変わる世界の中で彼女だけは変わらない。とてつもない、重たい安心感。底なし沼に身を預けているような、そんな沈んでいくような安心感。もしかしたら彼女がこの世界の中心で、そして底なし沼なのかもしれない。

「池月先生もお変わりないようで安心しました。先生には感謝です」

「どういうことだ? 先生もこの――この白昼夢に存在するのか?」

「いえ、今ここには私と、木田さんの二人きりです」

 いたずらっぽく彼女が微笑む。

「なぁ、ハルは僕とどういう関係だったんだ? 頼む、教えてくれ。思い出せない」

 僕は彼女に向かって頭を下げる。

「ふーん、忘れちゃったんですか。へーぇ。あんなことしておいて」

 彼女はやっぱりニヤニヤと笑いながら僕の後ろを過ぎて螺旋階段を降りていく。僕も慌ててその後を追う。

 僕が彼女に何をしたって?

 下に降りると彼女は自販機でボートの乗車券を買っていた。受付のおじさんにそれを渡すと僕を手招いて手こぎボートに乗せる。

 グラグラと揺れるボート。彼女の重みがボートを伝って僕に届く。穏やかな春だというのに、気持ちの悪い汗がどんどん体中から湧いてくる。スーツの上着を脱ぐも、ワイシャツはべっとりと体に張り付いていて気持ちが悪い。ネクタイを緩めてスーツと共に足元に投げ捨てる。

「やっぱりスワンボートがよかったですか?」

「どうして?」

「デートと言ったらスワンボート、定番じゃないです?」

「……いや、手こぎボートも鉄板だと思うけど」

「ふーん」

 座った位置的に僕がオールを手にする。しっかり握りしめて漕ぎ出す。水面に浮かぶ桜の花びらを蹴るように前進していく。

「それで、教えてくれないか?」

 池の中ほどまで漕いで、止める。ハルはずっと遠い景色を眺めてだんまりだった。

「木田さん、手、止まってます。そうですねー、あの赤い橋まで漕いでくれたら教えてあげなくもないです」

 こっちを見ないまま彼女は答える。僕は仕方なしに再び漕ぎ始める。ちゃぷちゃぷと音を立てながら進む僕らのボート。他にもボートは見えるが、中に人の気配はない。ボートハウスの方を見ると、先程ボートを出してくれたおじさんもいない。やはりここは現実ではない。

 なんとか言われた赤い橋までボートを寄せる頃には汗はもっと酷いことになっていた。僕は額の汗を袖で拭いながら彼女の様子を見る。

 彼女は夢見心地かのようにぼんやりと遠くを眺めている。

「木田さん、覚えてます? ここで一緒に桜を見たこと」

 僕は手を止めて首をかしげる。

「数日前の話か?」

「いえ、もっと前です」

「うーん……」

 漕ぐのをやめたボートはゆっくりと慣性で赤い橋へと向かっている。彼女は揺れる髪を耳にかけ、あの日のように少し寂しそうな表情を見せる。組んだ細いしなやかな指が膝の上で軽やかなダンスを踊ってみせる。春の陽気に踊らされているのか、あるいは熱病にうなされているのかもしれない。

「ほかは? ほかは何か思い出せない?」

 彼女の眼差しには真剣に何かを求めている意思が感じられる。彼女は僕のことをおそらくよく知っている。だけど僕は彼女のことを何も知らない。その差はきっと彼女にとってとてつもなく居心地の悪いものなのだろう。僕は足元に転がる上着を見つめながら彼女と同じように指を組む。

 不思議な沈黙が辺り一帯に漂っている。音一つ無い世界に見つめられながら僕は必死に記憶を辿る。

 その時、彼女は手近にある桜の枝をおもむろに手折った。

「世の中にたえて桜のなかりせば」

 彼女は桜を見上げながら呟くようにそう言った。

 そしてその桜の枝を僕に差し出す。彼女の瞳はまっすぐ僕を捉えていた。

「散ればこそ……」

 考えるより先に言葉が出てきた。散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき。呼吸を忘れたことがないように、その言葉は自然と胸から吐き出されていた。

 彼女の手から桜を受け取る。薄っすらとピンクに色づいた花びらは僕の手の震えに呼応して微かに揺れる。

 ふっと香る匂い。

――遥。それが彼女の名前だ。

「半分正解」

 彼女は笑って僕の手からオールをもぎ取る。再び世界は波の音を思い出す。

「遥、どうして……」

 どうして君がここにいる?

 そう言おうとして飲み込んだ。それを言わせてはいけないと僕は知っている。

 彼女は不器用にオールを漕ぎながら船を進める。陸側から伸びた赤い橋は池に浮かぶ島とを繋いでいる。彼女の視線の先には満開の桜に混じって葉を落とした木の枝がある。儚げな、それでも少しだけ嬉しそうに頬を染めた彼女はただ静かにこの世の終わりを待っているようだった。

「もうすぐ春が終わる」

 島と陸の細い水路に差し掛かった時、彼女は――遥はどういうわけかオールを船から外し、消してしまった。

「この世界の春が?」

「違うの。ここじゃなくて、弘也が生きる世界」

「何を言ってる? まだこっちだって秋だ」

「それは金木犀の匂いに惑わされているだけ。言ったよね、私、金木犀が嫌いなの」

 彼女は立ち上がって島へと飛び移る。グラグラと揺れる船に僕はただ縛られていた。静かだった世界に鳥の声が戻る。風が戻る。僕の首筋を柔らかく撫でた風は彼女の元へと戻っていく。

 彼女は瞳に敵意を宿らせて僕を――僕の向こう側を見つめている。振り返るが誰もいない。遥がそこまで由美を嫌う理由はなんだ? 再び風が僕の額を撫で、汗を拭っていく。遥がいた場所に視線を戻すも、彼女はもうどこにもいなかった。

 気がつくと僕は秋の夜の公園に戻っていた。ただ一人、オールのないボートに乗って。

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