春の湊

桜川 なつき

第1話 春の公園に迷い込んで

 初めて彼女と出会ったのは春の香りに包まれた公園だった。

 満開の桜の下で、池の鯉に餌をやる彼女の姿。首元で切りそろえた黒髪、長いまつげ、華奢な体。白い長袖の服から覗く細い手はしなやかな動作でパンをちぎっていく。その姿を僕は隣で見ている。風が吹くたびに彼女の匂いが僕の心を揺さぶる。彼女は何も言わない。僕の方も見ない。ただ鯉の口にパンを落とし、目線は鯉の向こうを捉えていた。

 なにか話しかけようと口を開くも、彼女のことを何も知らない。何も出てこない。やっと口から出たのはため息だった。

 そんな僕を嘲笑うかのように足元の鯉が音を立ててパンを我先にと吸い込んでいく。

 顔をあげて辺りを見渡すと、どこか住宅地の近くの公園だということがわかる。満開の桜に、大きな池。だけど僕ら以外誰もいない。池に浮かぶスワンボートに人影はなく、ただ風に流されているままで、桜の向こうに見えるベランダにも人の気配は感じられなかった。世界が僕ら二人を取り残して死んだように息を潜めている。

 彼女はただ物憂げな表情を浮かべながら僕の存在を気にも留めずただパンをちぎって落としていく。ひらひらと舞う桜の花びらが彼女の黒い艶やかな髪に触れて、落ちる。

 その美しい姿に僕は時間を忘れて完全に見入ってしまっていた。不思議な気持ちがこみ上げてくる。以前どこかで経験したような気持ち。彼女が手に持っていたパンをすべて与え終える頃、静かだった春の昼下がりに忌々しい電子音が割り込んできた。ポケットのスマホではない。これは枕元のスマホだ。そう気づいた瞬間、桜景色はどこにもなく、いつもの見慣れた部屋がそこにあった。ベッドの近くに脱ぎ捨てられたシワが寄ったスーツ、ローテーブルを覆う書類の上には酒の空き缶。埃っぽい灰色の部屋。薄暗い春の気配が色濃く漂っている。――春?

 アラームを止める。午前六時の五分前。肌寒さを感じながら落ちかけていた掛け布団をベッドに持ち上げる。

 あの景色をもう一度瞼の裏に思い起こす。桜の下の少女と鯉。あれは誰で、あれはどこだ?

 どれだけ記憶をたどってもどちらも出てこない。気づくと異常なまでに心臓が音を立てて動き続けている。軽い動悸、軽い吐き気。そして軽い頭痛。誰だ、彼女は。おそらく僕は知っている。とてつもなく大事なはずなのに、どうしても出てこない。脳裏にこびりついた桜色の景色を追い出すかのように手に握ったままのスマホが再びアラームを鳴らす。止めるとメッセージの通知が入っていることに気づく。由美だ。

 そうだ。昨日は彼女の誕生日だった。あまりにも仕事が長引いたことで約束していた食事を直前でキャンセルしてしまったのだ。それでまた何か言ってきているのだろう。もう四年目だよね、とかが最近の口癖になっている。

 通知を消してスマホを閉じ、散らばった服を避けるように窓へ向かう。グレーのカーテンを開けると薄暗い住宅地と、赤色に色づく木々が見えた。そう、今は秋だ。


 手早く支度をして家を出る。駅に向かう途中で由美のメッセージを確認して、埋め合わせの予定の候補をいくつか投げてスマホをポケットに仕舞う。

 ガタガタと遠くから電車が走ってくる。高架下をダッシュし、改札をくぐり抜け、右手の階段を駆け上がる。すっかりギリギリになってしまった。なんとか乗れたいつもの電車にはいつもの人間。衣替えの季節だからか、いつもの空気に少しだけ防虫剤の匂いが混じっている。

 ブブ、とポケットのスマホが鳴る。確認すると由美からの返信だった。まだ怒っているらしい。もう四年目なんだし、仕方ないと割り切ってほしいという気持ちもある。もう僕らもいい歳で、結婚という言葉を直接言わずともそれとなく催促されている気がする。そのたびになんとかはぐらかしているが、いつまで先延ばしにできるかもわからない。

『もう職場だから』

 そういって逃げるように会話を中断し、職場――どこの街にもある大手の不動産屋へと入った。

「木田くん、おはよう。昨日は夜遅くまで付き合ってもらっちゃって悪いね。それで今日お昼に内見予約していた加藤さんだけど、先程電話があって午前中には来るみたい。行ける?」

 奥の事務室に入るなり上司に訊かれる。

「えぇ、はい、大丈夫です」

 荷物をロッカーに入れながら適当に返事をし、僕に続いて入ってくる同僚たちに適当な挨拶を返す。

「じゃーん、お土産。北海道行ってきたんです」

 昨日まで休みを取っていた同僚の横田がお菓子を適当な机に広げる。

「寒かったですよー、東京とは大違い。がっつり着込んでいきました」

 そんな他愛もない話をしながら開店準備をして、僕もいつものルーティン作業に入る。この仕事は新卒でなんとなく入社して以来ずっと続けているが、案外自分にあっている職業だと思っている。誰かが新しい街での生活を始める手伝いは、自分にもなんだか新しい気持ちをもたらしてくれるような気がした。

「木田くん、昨晩はどうだった? 由美」

 ひとしきり北海道の土産話が出尽くしたあと、横田はこそっと僕に耳打ちする。

「えぇ? あ、あぁ……うん……」

「何その反応ー? もしかして喧嘩でもした?」

「まぁ……残業で会ってない……」

「えー! 信じらんない」

 本気で信じられないというような大げさなリアクション。横田と由美は大学で同期だったらしく、昔入社してすぐくらいに横田主催の合コンで由美と知り合った。由美は最初からぐいぐいと僕に興味を持っていたようで、僕は彼女に押されるがままに付き合い始めた。

「愛想つかされちゃうよ、そんなんじゃ」

「はい……わかってます」

 朝っぱらからこんな話をしたいわけない。反省も少なからずしている。

「じゃ、これから内見があるので」

 まだグチグチ説教を垂れたそうな横田を追い払うように椅子を戻してロッカーと金庫から鍵を取り出して外へと向かった。


   ◇


 揉めに揉めた契約もなんとか取り付け、ようやく処理が終わったのが午後八時。

 帰りの支度をしながら、今朝の夢を振り返る。桜が咲いていて、池があって、鯉がいて、彼女がいた。そして僕ら二人の他に人はいない。度々夢を見ることはあるものの、ここまで鮮明に見る夢は初めてだった。どうにも心が乱されているようで、今日も何度も運転する道を間違えてしまった。

 思い出すたびに心臓が高鳴るのがわかる。春と彼女の匂いがまだ鼻腔に残っているのか、いつもと違う感情が胸に浮かんでいて、ちっとも落ち着かない。

 酒でも買って飲んで寝たら忘れるだろう。そう思って駅前のスーパーで強めの酒を二本買って座椅子に背中を預けてテレビを見ながら飲む。芸人たちがローカル線を乗り継ぎながら紅葉の名所を回るという企画の番組。特別毎週見ているわけでもないが、だいたいこの時間に帰ってくるとだいたいやってる。特別興味がそそられるわけでもないうちにアルコールが脳に回ってうとうとしてしまう。

 ふっ、とテレビの音が消える。

「あ、やべ」

 僕はリモコンを触ってしまったかと思って足元を探る。別に消えてしまっても構わないが、シャワーは浴びたい。しかし絨毯の感触とは全く違う触感が僕の脳を覚醒させる。

 気づくと僕は真昼の外のベンチの上に座っていた。

 頭を起こす。辺りを見渡して自分のいる場所を確認する。今朝見た景色。黒い池を囲う桜色。春の陽光。間違いない、同じ場所だ。

 アルコールで頭がグラグラする。とりあえず暑い。僕はスーツの上着を脱ぐと、近くに蛇口があるのを見つけた。いつの間に僕は外に出ていたのか? 今日はそんなに飲んだつもりはなかったのだが……。

 コンクリートから顔を出す蛇口をひねる。水は出ない。ぐるぐると歪む蛇口、飲みすぎだ。僕は蛇口を元に戻してから再び同じベンチに腰をかける。

 これは夢に違いない。

 そう自分に言い聞かせながらも、どうにも不安になってきた。

 今日は彼女はいないのか――? そんなことを思いながら今朝彼女がいた辺りの手すりを眺めるも、誰もいない。ただ、さぱさぱと波が打ち付ける音だけが聞こえる。そういえば春というのに鳥の鳴き声も聞こえない。

 立ち上がろうとするも、体が重い。ベンチに横たわって頭上に目を向けると満開の桜が延々と桜吹雪を繰り出している。

相変わらずこの世界は死んだように静かだ。

 その気持ちに呼応するかのように風が吹く。かすかな花の香りと、今朝嗅いだ彼女の匂い。この香りを僕はよく知っている。懐かしい匂いだ。そっと春の陽光を遮るように目を閉じる。またうとうとと意識が遠のいていく。夢の中で寝たらどんな夢を見るのだろうか。波と風の音だけの静かな公園。

「いいですよね、ここの景色」

「うわっ⁉」

 その声に僕は驚き飛び起きた。

「ご、ごめんなさい。そんな驚くとは思わなくて……」

 隣に腰掛けていたのは今朝の夢に出てきた彼女だった。

「あ、いや、えと、その、……」

 なにか返事をしようと思うも何も出てこない。びっくりするほどに何も。今朝と同じ。

 彼女はよく見ると僕よりもだいぶ若く感じる。大学生か、あるいはまだ高校生かもしれない。そのくらい。初めて見る彼女の目の奥には桜と青空の鮮やかなコントラストが写り込んでいた。自分の姿を瞳の中に捉えて慌てて目をそらす。

「お酒? 随分飲んでるんですね、今日は」

「今日? 今日……そうだね、ハハハ」

 しどろもどろな答えしか出てこない。しっかりしろ二十八歳。

 今日は? 今日?

「以前にも会った?」

「今朝見かけましたよ」

「今朝……それより前は?」

「それより前……」

 彼女はすっと遠くを見つめながら適当な言葉を探すように考え込んで、

「ここで会ってますよ。同じ場所で」

 そう微笑んで、彼女はぐーっとベンチに深く腰を掛けて伸びをした。

 微かに揺れる木々、優しく吹く風が彼女の髪を撫で、その香りを僕に運ぶ。甘い香り。春の香り。

「君の名前は?」

「私? うーん、そうだなぁ」彼女はしばし考え込み、「ハルとでも呼んでくれれば」と言う。

 怪しい。

 なにか名前を隠したい理由があるのかもしれないが、そこは深く詮索しないでおく。とりあえず、まずはこの公園だ。

「ここはどこなんだ?」

「木田さん、さっきから質問ばっかり。そんな焦らなくていいんですよ。時間は十分にあるんですから」

 彼女はいたずらっぽく微笑む。待て。なぜ僕の名前を知ってる?

「木田弘也さん」

 僕の考えを見透かすかのように彼女は僕の名前をつぶやく。

 あぁ、これは僕が見ている夢で、彼女は『僕が作り出した想像上の人物』だから僕のことを知っていてもおかしくない。そうか。

「まぁ……そうか……どこでもいいか」

 僕も彼女に倣ってベンチの背もたれに体重をかける。反対に彼女は体を起こしてベンチから立ち上がった。

「お酒、まだ飲みます? 向こうに屋台、出てるんですよ」

「屋台?」

「ええ、今はお花見シーズンですから」

「誰もいないのに?」

「誰もいないなんてこと無いじゃないですか」

 彼女が辺りを見渡す。僕も彼女の視線の先に目を向けると、人がいる。スマホのカメラで桜を撮っている。よく耳を澄ませると声も聞こえる。さっきまであんなに静かだったのに、公園に音がポツポツと湧き出てきた。

 気づけば頭上には提灯がぶら下がり、景色は桜まつりの様相になっていた。

「さ、行きましょう」

「あ、あぁ……」

 まだふらつく足元に気をつけながら立ち上がり、彼女の後ろを歩く。白いレースがあしらわれた服にジーンズ。華奢な体型。少し眩しくて、彼女から目を逸らす。彼女はどう見ても未成年に見える。酒なんて買えないんじゃないのか? 空を見上げるとメジロが桜に留まっていた。

「こっちですよー」

 指差す先の桜の木々の向こう側には確かに屋台の赤い色が見える。それに続く階段を半分ほど登ったところで聞き慣れた電子音が直接耳に届く。

 彼女もそれに気づいたようで足を止める。

「またここで待ってますから」

 一瞬儚げな笑みを浮かべたと思うと、次の瞬間にはニュースキャスターが今日の天気の話をしていた。机の上のスマホがバイブを鳴らしながら床に落下する。慌てて残りのアラームも止めて立ち上がる。馬鹿なことに、寝酒をしてしまったらしい。ワイシャツの上にこぼれたチューハイ。急いで脱いで洗濯機に突っ込む。テレビの天気予報が終わって今日の運勢ランキングを発表している。

 洗濯も忙しくてもう何日も回していない。乾燥機がついているので、とりあえず回すだけ回して、回収は夜だ――そう考えながら洗剤を投入しようとしたとき、ワイシャツになにかついていることに気づく。

 花びら……?

 手に取ると、桜の花びらのようだった。指の腹で触れると奇妙な湿り気が感じられる。紛れもない本物。

「あれは夢だったのか……?」

 仕事で疲れすぎているのかもしれない。どこかの誰かが持っていた花びらが電車でついたのだろう。

 変な考えを振り払うように洗面台に花びらを捨て、急いで洗濯を回し、シャワーを浴びて外へ出た。今日は遅刻だ。

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