第8話 散ればこそ

 気づくと僕は海ではなく池を眺めていた。雨はすっかり止んで、雲の合間から時折月が顔を見せる。思い出して、隣のベンチを見る。池月がぼんやりと目を見開きながら呆然と座っていた。

「池月先生……」

 僕が声をかけると彼は我に返る。彼は目に涙を浮かべていた。

「見ていたんですね、夢を」

「ああ……そうだ」

 彼は目をこすると、深い溜め息をついた。

「この世界に迷い込んだ時、俺はチャンスだと思った。何かハルの死の原因を特定できると思った。それに記憶といえども、生きたハルに会える。俺はそれが何より嬉しかった」

 まだ言うのか。軽蔑の視線に気づいたように彼は目を外す。

「それで、遥の死因は?」

「清水由美だ。違いない。ハルはあいつに――」

「違うよ」

 公園の入口の方から女の声がした。聞き馴染みのある声。

「誰だ?」

 池月が問うが、答えるまでもなかった。由美だった。

「由美、どういうことだ? どうして由美までここにいる?」

 僕が彼女のもとに駆け寄って肩を掴んで揺さぶる。彼女はただ夜の散歩を楽しんでいるかのような涼しげな表情を浮かべていた。

「私だって来たくてここに来たんじゃない。あなた達に巻き込まれただけ。だけどずっと見ていて楽しかったよ。うん、面白かった」

「由美、何を言ってる?」

「あなた達は十年以上経っても未だ夏梅遥に囚われ続けてる」

 その時、横から体当たりを受ける。強い衝撃に僕はバランスを崩して倒れる。同時に由美に覆いかぶさるようにして池月が彼女を押し倒していた。

 僕は突然の出来事に呆気にとられ、何も動けない。

「お前が、お前がハルを見殺しにした、そうだろう?」

「ふふ、だから違うって」

 これだけのことをされていながら、さも予想の範疇と言わんばかりに由美は落ち着いている。

「私はただ見ていただけ。先輩が飛ぶのを見ていた」

「なぜ止めなかった?」

 池月が食って掛かる。

「あの人がそう望んでいたから。あなた達は彼女の最期の言葉の真意を履き違えているの」

「どういうことだ、由美」

 池月の肩を持って由美から彼を押しのける。由美は立ち上がってスーツについた泥を払い落とす。辺りに再び金木犀の香りが立ち込める。気づけばあれだけあった銀木犀が皆金色の輝きを放つようになっている。

「彼女は無実の罪の結果を嘆いて『東風吹かば』を引用したわけじゃない。深く読みすぎなのよ」

 由美の言葉を心のなかで反芻する。僕ら二人の読みは間違っていた?

「あの日、私はいつものように放課後を屋上で過ごしていた。高いところが好き。前に弘也に話したでしょ、私は対象から認知されない距離から一方的に眺めているのが好きだった」

 由美は僕が先程まで座っていたベンチに腰を下ろして話を続ける。

「隅っこの方でぼんやりとグランドの方角を眺めていた。そうしたら屋上に入ってきた男女の声がする。告白でも始まるのかなってちょっとワクワクしながら隠れて見ていたら案の定、告白が始まったのね。それも男の教員が女生徒に告白するってやつ。めちゃくちゃおもしろい話だと思った」

 池月の方を見ると目を伏せてただ肩を震わせている。

「それで、遥は、断ったんだろう?」

 僕は震える声で由美に尋ねる。そうであってほしい。

「女生徒の方は彼氏がいるから考えさせてほしい……って言ってとりあえずその場は一旦収まった。男の教員――池月先生も帰っていった。それで終わりだと思った。だけど彼女、夏梅先輩はその場に留まった。私の姿に気づいて一瞬驚いたみたいだけど、何事もないように、まるで私なんて最初からいなかったように中庭を見つめ始めた。私、なぜか急に興味が出てきちゃって。彼女がどちらを選ぶのか。先輩のこと初対面だったけど、どうしても引き出したくなったの」

「……やめてくれ……」

 池月がかすれた声で力なく懇願する。

「気づいたら私、彼女の隣で訊いてたの。『どっちを選ぶんです? 年相応の素敵な彼氏さんと、大人の魅力がある先生』って。とっさに口から出てきたあんまりにも直接的な質問に、私自身もびっくりした。彼女は頭を手すりに持たれかけて真剣に考えてた。すごい長い間考えてた。きっと簡単には決められなかったんだと思う」

 僕の中で何かが崩れていく音がするのを感じた。僕が一番で、こんな――こんな不道徳な教員なんて選択肢にすらないだろう思っていた。

「それから先輩はポツポツと話し始めた。『私には選べない。どちらの気持ちもきっと本当の、正真正銘の本物』『でも、生徒に手を出す先生ってやばくないですか?』『誰だってそう思う。バレたら即刻クビになるかもしれない。そんな危険を覚悟の上で先生は私に思いを伝えてくれた。それを無下にするわけにもいかない』『彼氏さんのことは好きじゃないんですか?』『好き……だと思う。すごい情熱的な人……それに……』『それに?』『すごく、温かい人』とか、そんな会話をした」

 再び喉のあたりに胃液が上がってくるのを感じる。頭も痛い。やめてくれ。由美。

「……それで、次の瞬間、彼女は飛んだの。すごい突発的で、衝動的な行動だったと思う。私もびっくりして腰が抜けてしまった。本当に、呆気なく彼女は下に落ちていった。私はただ上から見ているしかなかった。今でもあのときの光景は夢に見る。……白昼夢じゃなくて、寝る時の夢ね。この話、するの二回目なんだけどね」

「俺の……軽率な行動が彼女を死に追いやったのか」

「言ったでしょ、私じゃないって。まぁまぁ、彼女は先生のことも結構好きだったのかもよ? ただ彼女は人一倍責任感が強くて、だけど弱かった。それだけのこと」

「なんで……そんなのを見てそんな軽々しく話せるんだ……由美は。それに四年前に君と出会う前から僕のことを知ってたんだろう。その様子だと」

 僕は刺すような痛みを感じる胸を抑えながら由美をにらみつける。

「知ってたよ。弘也がその時付き合ってた『彼氏さん』ってのを知って、いつしか私も惹かれるようになった。選ぶことが出来ずに死を選択するほどの男性なんだって。でも付き合ってみれば、私のことを見ていないというか、失った彼女のことばかり追いかけている」

 彼女が自虐的な笑みを浮かべる。僕は返す言葉を失った。

 誰が悪い? 誰に責任の所在がある? 僕か? 僕が遥と付き合ってさえいなければ池月と付き合って、それで二人は幸せになって終了――それで良かったのか?

「で、私も飛んでみようって。そしたら私も夏梅先輩みたいに思ってくれるのかなって」

「は――?」

「弘也も一緒に落ちようよ」

「やめろ!」悲しそうに笑う由美に池月が叫ぶ。「もうこれ以上人が死ぬのを……俺はもう見たくない」

 由美は意外にも素直に「そうだね」と言うと、立ち上がった。

「この公園は夏梅先輩の領域じゃない。だから彼女に嫌われている私も存在していられる。彼女、どちらも選べなくて死んでいった意気地なしのくせにしっかり人並みに嫉妬深い」

「由美……どういうことだ、お前はこの世界の何を知っている?」

 痛み続ける胸を抑える手が震える。金木犀の匂いが強くなる。

「この世界は強い匂いで成り立ってる。強い匂いは、強い気持ちの現れ。この世界が我々三人と、そして彼女を繋ぎ止めている。匂いの終わりがこの白昼夢の終わり。それだけ」

 そう言って、彼女は立ち上がる。よれたシャツがスーツの上着から覗いて見える。

「この世界で私は弘也の記憶を操作しようとしたの。もしあなたが私をはっきりと拒絶してくれるなら、きっと私は落ちていける」

 月が雲に隠れていき、金木犀の輝きが匂いと共に失われていく。ゆっくりと彼女の上着の袖がなにかに引っ張られるように伸びていく。

「じゃあね。あの春で待ってる、弘也」

 彼女はそう言い残して金木犀の香りと共に消えてしまった。

 地面に未だ座り込んでいる池月に目をやると、彼もまた不思議な顔をしながら自分がここから立ち去るべき存在であることを悟っていた。弱々しく輝きを発する銀木犀が微かな芳香を発している。

「いいか、木田くん。俺は……多分彼女を助けられない。俺は自分がここでなんのためにいたのか、やっとわかった。俺は俺自身の身勝手な行為がどんな結果を招いたのか、本当の意味でわかっていなかったんだ。自分の気持ちに嘘をつかないのは悪くないことだ。だが、その気持ちをどう消化するのか、どう伝えるのか、あるいはそもそも伝えないのか。そこに責任の所在がある」

「池月先生……」

「俺はもうハルには会えない。あとは頼む」

 そして先生もその言葉を最後に残りの銀木犀とともに消えていった。

 再び世界が僕一人を取り残して静寂で満たされる。公園にはもう匂いも人の気配も残されていなかった。

 僕はどうしていいかわからなかった。遥は結局どちらも選べずに衝動的に死を選択した。池月なんかじゃなくて、僕を選んで僕と共に生きていってほしかった。

 胸が苦しい。頭が痛い。

 辺り一帯に立ち込めた霧がどんどん深くなっていく。本能的に僕はこの公園を離れるべきだと理解した。僕は月明かりを頼りに公園の出口を目指した。

 来た道を引き返す。閑静な住宅街、シャッターが下りた小さな書店、惣菜屋、ドラッグストア、高架横のカフェ――見慣れた景色の先にまだその公園は確かに存在した。

 ただただ心細かった。だけどやるべきことは徐々にわかってきた。

 車一つ無い国道を渡り、ボートハウスに向かう。誰もいない受付を通り過ぎ、見覚えのある手こぎボートに乗る。僕の上着とネクタイがきれいにたたまれて置かれている。椅子の端にそれを置いて僕は一人でオールを漕ぎ始める。

 ボートが岸から離れ、ゆっくり季節が進む。

 赤く色づいた木々は徐々に葉を散らし、長い冬がやってくる。蕾の中でじっと春の到来を待ち続けるように、僕も上着に包まってその時を待ち続けた。

 赤い橋に近づく頃、池を吹く風に少し春の香りが混じり始めた。

 その時、微かにボートが上下に揺れる。

「やっぱりこの季節が一番好き」

 顔を上げると遥が向かいに座っていた。いつもの白い服にジーンズを履いて、憂いを帯びた顔をそっと咲かせている。

「待ってたよ」

 僕はオールを漕ぐ手を止めて彼女を迎え入れる。彼女は少し照れくさそうに笑うと、揺れるボートの縁を手のひらで撫でる。

「ひどいよ、私が知らないところで何を話してたの?」

「色々」

 僕は苦笑交じりにそう答える。彼女も微かに顔を歪ませて笑った。そんな彼女の笑顔がたまらなく愛おしく思えた。彼女も僕も、残りの時間の存在を意識していた。

「あのね、あのとき私、選べなかった。本当にどうしたらいいかわからなかった。最低だった」

 僕は静かに頷く。

「だけど君が私のところに駆け寄ってきてくれて、わかったの。だけどもうその時にはすべてが遅かった。今は本当に死んだことを後悔してる。あのとき、私の器はもう受け止めきれないほどいっぱいになっていて、だけど私は少しも取りこぼしたくないあまりにすべてをひっくり返してしまった」

 彼女はそう言って、口をつぐむ。桜色の唇が、この世界の秘密と彼女の秘密を閉じていく。

 紅白の梅が赤い橋がかかる島で一斉に咲いている。風と共に、梅の匂いが彼女に混じってこの世界を満たしていく。

「もうすぐ桜が咲いて、そして散って、私がいた季節は忘れ去られてしまう。あなたにだけは忘れてほしくなかった。そして私も忘れたくなかった」

 ゆっくりと進むボートは梅の花を通り過ぎると僕らを満開の桜の下に導く。あの日のように、舞い散る桜はほのかに春の到来と終わりを下の世界に確かに伝えていた。

「『散ればこそ』。だよね。そろそろ私もいかないと。永遠なんてこの世に存在しない」

 遥は立ち上がる。左右に揺れるボートの上をまっすぐ歩いて、僕の左隣に腰をかけた。僕の左手に手を重ねる。

「春を知らせてくれてありがとう」

 彼女はそう言って、僕に口づけをする。柔らかな吐息と温もりが僕を包み、やがて彼女の匂いが消える頃には僕はベンチに座っていた。

 遠くに去ってしまった僕らの船をただ眺めていた。唇に残る感触と、左手の体温。いつまでもこの気持ちを味わっていたい。ここで永遠の春を彼女と過ごしたかった。だけど、僕もいかなければならない。僕を待っている二人に、この長い長い白昼夢の終わりを告げに行かなければならない。

 手と腕の痛みが強くなる。梅と桜の匂いが弱まっているのを感じる。この世界ももう長くはない。立ち上がって僕は池の向こうのビルに向かって駆け出す。四季折々の花々や匂いが僕をこの世界から追いやっていく。やがて僕らが乗っていたボートをも追い越して、公園を抜ける。振り返るとそこにはもう何もなかった。

 次の瞬間、僕の両腕に鋭い痛みが走る。暗闇に浮かぶ由美の顔は僕を見るなりどこか安心した表情を浮かべていた。

「木田くん! あと少しだ!」

 隣りにいる池月が僕の腕ごと由美を引っ張り上げる。やっとの思いで由美をビルの廊下に下ろす。僕と池月はぐっしょり汗を額に浮かべて、由美の前髪も額にへばりついていた。しばし廊下に僕らの荒い呼吸音が反響する。春の夜に似合わない熱気に僕らはずっとうなされていたみたいだ。

「バカ……野郎……お前……マジで何を……しやがった……」

 ぜいぜいと喉から音を出しながら池月は由美を睨みつけている。

 由美はよくわからない笑みを浮かべていたが、やがて緊張の糸が切れたように泣き始めた。大きな声で、初めて聞くような大きな声で泣く彼女を僕はただ抱きしめた。僕の胸に顔を埋める彼女は、間違いなく僕らと同じ世界に立つ一人の人間だった。

 池月も、何か腑に落ちたような表情を浮かべながらそんな僕らを見つめていた。

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