ぼくとクスノキの木霊

陽咲乃

ぼくとクスノキの木霊

四歳のとき、両親と一緒に山に紅葉を見にきて、僕は道に迷った。

きれいな葉っぱを拾い集めていたら、いつのまにか誰もいなくなっていたのだ。


「おかあさーん! おとうさーん! どこー?」


やみくもに走りながら両親を探した。

どっちに行けばいいのか、まったくわからない。


びゅおおっと強い風が吹き、木がざわざわと揺れた。

甲高い鳥の鳴き声が、いっそう恐怖をあおる。


あたりはだんだん暗くなってきた。

不安で、心細くて、なにかに押しつぶされそうだった。


「おかあ、さん……どこぉ……」


泣きながら歩いていると、とても大きな木を見つけた。

うちの庭にある木に似てると思った。


「……クスノキ?」


ボコボコとした太い根っこに立ち、真下から見上げると、なにやら白いモノがあちこちにいた。ソレは、わずかに発光しているようで、暗闇にぼうっと浮かんで見えた。


「ホタル? ちがうか。おっきいもんね」


 僕は、いっとき怖さも忘れて、木のあちこちでじっとしているソレを見つめた。


「もしかして、きみたち、こだま?」


 古い樹木に宿るという、木霊こだまの絵本を読んでもらったことがあった。

 確か精霊である木霊には、不思議な力があったはずだ。


 僕は両手を合わせて、彼らに願った。

「こだまさん、こだまさん、ぼくをおかあさんたちのところにかえしてください。おねがいします!」


 すると、ひとりの木霊が、すうっと木から離れて僕の方へ飛んできた。

「もしかして、つれてってくれるの?」


 木霊は目の前で、僕より少し大きな子どもに姿を変えた。

 茶色の髪に大きな緑色の目。ふわっとした白い服を着ていて、男の子にも女の子にも見える。


 子どもになった木霊は、クスノキに向かって手を振った。

 他の木霊たちがユラユラと揺れて、別れを告げているようだった。


 木霊は、ときどき振り返りながら、僕の前を歩いていく。フワフワと、まるで飛んでいるように。


 さっきは気がつかなかったけど、まんまるい月が木立のあいだから見え隠れしている。


 もう、こわいとは思わなかった。

 



 ***



「こだまあ、かえったよお」


 幼稚園から帰ってきた僕は、二階にある部屋の窓を開けると、庭のクスノキに向かって大きな声でいった。

 僕の声を聞いた白いモノが、フワフワと窓から入ってくる。

 うれしそうに僕のまわりを飛びまわり、肩の上に乗った。


 あのとき僕を助けてくれた木霊は、なぜかうちの庭のクスノキに棲みついていた。


「かえれなくなったの? それとも、ぼくのことがすきだから?」


 木霊はフルフルと身体を揺らす。

 たぶん「うん」って、いってるんだと思う。


「こだまちゃん、いるの?」

 と、お母さんがきく。

「いるよ」

「そう。こだまちゃん、いつもありがとうね」


 お母さんにいわれて、木霊はうれしそうに身体を揺らす。


 お母さんとお父さんには木霊が見えないけど、山で木霊に送ってもらったこととか、庭のクスノキに棲みついたこととか、ぜんぶ信じてくれた。

 でも、木霊のことは、他のひとたちには内緒にする約束だ。


「信じないひとや、怖がりのひとは、あなたを嘘つきだっていうかもしれないから」


 お母さんにいわれて、そういうもんかなと思った。

 だから、木霊のことは僕たち家族だけの秘密。


 いつか、木霊の姿が見えるひとに会えるといいな。



「買い物に行くけど、一緒に行く?」

「ううん、こだまとおるすばんしてる」

「じゃあ、すぐ帰ってくるから、外に出ないでね」

「わかった。いってらっしゃい」


 お母さんがいなくなると、木霊は子どもの姿に変わった。一緒に遊ぶには、この姿の方がいいんだ。

 最初に会ったときは僕より少し大きかったけど、今はあんまり変わらない。


「こだまって、大きくならないの?」


 子どもの姿のこだまは「あー」とうなずいた。


 言葉というものを理解していないこだまに、「うん」と「ううん」の違いをわからせるのは大変だったけど、今ではちゃんと理解している。

「あー」しかいえないけど、なんとなく会話できてるからいいや。



 ***


 友だちとケンカをした日、お父さんに叱られた日、いやなことがあった日。


 眠れない夜は、窓を開けてクスノキを見る。そうすると落ち着いて眠れるんだ。

 暗闇でクスノキの枝や葉っぱが風に揺れる音がする。


「こだまも夜はねむるのかな」


 夜中に遊んじゃだめよと、お母さんにきつく言われている。どうやら寝ないと大きくなれないらしい。もしかしたら、こだまは寝ないから大きくなれないのかもしれない。


「おやすみ、こだま」


 僕の声に応えるように、こだまが白く光るからだを揺らした。

 


 ***



 最近は寒くなってきたから、家の中でかくれんぼをしたり、トランプで遊んだりしてる。といっても、こだまは難しいルールは覚えられないので、するのはババ抜きばかり。ふたりでやるとトランプの数が多すぎてなかなか終わらないから、枚数を減らしてやるんだ。


「あー!」

 ババを引いたこだまが声を出す。

「しーっ! ばれたらつまんないでしょ」

「あー」

「どうせふたりしかいないのにって? そりゃそうだけどさあ」


 お母さんがクスクスと笑っている。


「おやつにマスカットがあるわよ」

「たべる! こだまもたべるよね?」

「あー!」


 精霊だから何も食べなくてもよさそうだけど、木霊は果物が好きだった。

 おいしそうにモグモグと食べている。

 


 ***


 寒い季節が終わり、庭のチューリップが咲き始めた。

 クスノキにも黄色っぽい花が咲いている。


 クスノキは大きくなりやすく、落ち葉も多いから大変だ。春と秋。年に一、二回は剪定せんていしなければならない。


 そのことを知らなかった僕は、初めてクスノキを剪定しているのを見たとき、パニックになった。

 バサバサと枝を切り落としているおじさんを見て、木の下で泣き叫んだのだ。


「やめてえええ! 切らないでえ! うわぁあああん!」

「お、なんだなんだ。おい坊主、そこにいるとあぶねえぞ」

「きっちゃ、やだあああ! やめてぇえええ!」


 僕の叫び声をきいたお母さんが、家の中から飛び出してきた。


「どうしたの⁉」

「おかあさぁああん! あのひとが、クスノキを切ってる! あんなおっきなハサミで、バサバサって!」

「ああ……、ごめんね。いっておけば良かったね」


 お母さんは僕を抱きしめて、「すみません。いったんやめていただけますか?」と、木の上にいるおじさんにいった。


「ああ、いいっすよ」

 おじさんは、木に結んでいたロープを使って、スルスルと降りてきた。くやしいけど、ちょっとかっこよかった。


「この木は、この子にとって特別なものですから」

 お母さんがそういうと、おじさんは僕の顔を見た。


「そうか。じゃあ、びっくりしたよな」

 僕は首をたてに振った。


「だけどな、これは人間でいうと散髪とか爪切りみたいなもんだから、切らないほうがかわいそうだと思うぞ」

「そうなの? ……いたくない?」

「痛くないよ。坊主だって、髪を切っても痛くないだろ?」

「うん」

「この木は、手入れをしないとすぐおっきくなっちまうから、ほっとくと家がつぶれちまうかもしれねえぞ」

「それはだめ!」

「だろ? なら、伸びてる枝を切ってもいいか?」

「うん、いいよ」

 

 そのあとは、二階の部屋から作業する様子をずっと見ていた。

 おじさんは迷うことなく、バサバサといらない枝を切っていく。

 次第に木の形が変わり、切り終わると、クスノキはひとまわり小さくなったように見えた。

 

「ほんとだ。床屋さんに行ったあとのお父さんみたい。……こだま、だいじょうぶ?」

 僕が呼ぶと、木霊がフラフラしながら飛んできて、肩の上に乗った。


「きれいになって良かったね」

「……うー」 


 どうやら木霊は、散髪が好きじゃないみたい。



 ***

 

 どんどん成長していく僕に対し、こだまはいつまでたっても出会った頃のままだった。相変わらず、しゃべるのも「あー」や「うー」といったひとことだけ。


 僕は、こだまと遊ぶより、友だちとゲームをするほうが楽しくなった。


 友だちと家で遊んでいると、こだまはつまらなそうに僕のまわりを飛びまわり、無視していると、そのうち部屋を出ていく。

 そんなことが重なるうちに、友だちがいるときは部屋に来なくなった。


「怒ってるの? でも、僕にだって付き合いがあるし、こだまだけに構ってられないんだよ」

 僕がそういうと、木霊はすねたようにそっぽを向く。まるで人間の子どもみたいだ。

「しょうがないなあ。久しぶりにババ抜きでもする?」

「あー!」


 はしゃいでいる木霊を見て、たまには遊んでやらなきゃなあ、なんて思っていたのに。

 中学生になり、勉強や部活で忙しくなると、つい木霊のことをなおざりにしてしまった。


 だから、気がつかなかったんだ。



「……こだま?」


 いつのまにか、こだまが消えていたことに。




 ***


「こだま、どこに行っちゃったんだろう。もしかして山に帰ったのかな。どう思う?」

 僕はお母さんにきいた。


「どうかなあ。もしかしたら、いないんじゃなくて……ううん、きっと山に帰ったのよ。あなたが大きくなったから、もう大丈夫だと思ったんじゃない?」


「そっか。そうかもね」 

 

 ちょっとさびしいけど、しょうがない。もともと木霊の家はあのクスノキなんだから。会いたくなったらまたいつでも会えるし。


 ――このときは、そう思っていた。



 

 庭のクスノキは、木霊がいなくても春になると古い葉を落とし、新しい葉を茂らせ、黄色い花を咲かせた。

 そうして季節はめぐり、高校生になった僕は、木霊に会うためにひとりで山に登った。


 樹齢千年と言われる堂々としたクスノキは、まるで山の守り神のようだ。

 まわりに誰もいないのを確認してから、僕は大きな声で叫んだ。


「こだまー! 僕だよ、こだま! いるんだろ? 出てきてよ!」


 ところが、いつまで待っても返事はなく、姿も現さない。


「なんだよ、まだ拗ねてるのか? しょうがないなあ」


 僕は大きなため息をつき、ボコボコとした木の根元に座った。


「そのうち出てくるだろ」



 しばらく鳥の声に耳をすましているうちに、ふと気づいた。


 ――こだまだけじゃなく、仲間がひとりもいないなんておかしくないか?


 あの日、このクスノキにいた白いモノは、十や二十ではきかなかった。


「……まさか、僕に木霊が見えなくなった? いや、そんなはずない!」 

 

 おそろしい考えを打ち消すように、枝のあいだや葉っぱの下までじっくりと見たが、やはり木霊はひとりもいなかった。


「今まで見えてたのに急に見えなくなるなんて、そんなことあるのか? でも……もしそうだとしたら、こだまはまだうちの庭にいるのかもしれない」


 僕はきびすを返し、慌てて山を下りた。



 ***


 早足で歩きながら、自分がどれだけ木霊に酷いことをしたのか思い返していた。


 いつまでも喋れない木霊にイライラした。

 友だちと遊んでいるとき、木霊のことをうっとおしいと思った。

 さびしい思いをさせて、ほったらかしにして、木霊を傷つけた。


 木霊は僕を助けるために、仲間たちにさよならしたのに。

 生まれ育ったクスノキから離れて、僕についてきてくれたのに。

 木霊には僕しかいなかったのに。


 ごめん。ごめんね、こだま。

 何度でも謝るから、また姿を見せてくれ。




 息を切らして家の門を開け、庭にあるクスノキに駆け寄った。

 

「こだま、そこにいるの⁉」

 下から呼びかけるが返事がない。


「もし、そこにいるなら聞いて! 僕、こだまのこと見えなくなったんだ。せっかくついてきてくれたのに、さびしい思いをさせてごめん! これからは絶対無視したりしない。もっとこだまのこと大事にするから。だから、頼むからまた姿を見せてよ。……こだまに会いたいんだ」


 絞り出すような声で、そう伝えた。

 クスノキの葉が風に揺れて、さやさやと音を立てる。


 僕は葉擦れに耳を傾けながら、思い知った。


 もう、きみの声を聴くことすらできないのだ。




 ***


 それから数年後。

 僕は結婚を考えている彼女を家に連れてきて、木霊のことを話した。


 山で迷子になって助けてもらったこと、うちの庭に棲みついたこと、仲良く遊んだこと。

 あまりに非現実的すぎて信じてもらえないかもしれないけど、できれば結婚してからもこの家に住みたかったから、話さないわけにはいかなかった。


 もし、信じてもらえなかったり、同居は絶対嫌だと言われたら、彼女のことは諦めるしかない。そんなふうに覚悟を決めて話したつもりだったが――。


「えー、すごい! この木に⁉」

 話を聞いた彼女は、窓から身を乗り出すようにしてクスノキを見ている。


「じゃあ、まだここに木霊ちゃんがいるかもしれないんだね! なんだか空気まで神聖な気がしてきた!」

 すーはーと深呼吸をしている彼女。


 あれ? 信じてくれたのは嬉しいけど、ちょっと思ってた反応と違うぞ。もっと疑うとか、こんな気味の悪い家に住みたくないとか、なんかないのか?


 戸惑う僕を見て、彼女は「ここに住んだらご利益がありそうだね」と嬉しそうに笑った。


 


 ***


 庭に足を踏み入れ、生後三か月の息子を抱いたまま、クスノキを見上げた。

 新しい葉が芽吹いている木に、柔らかな日差しが降り注いでいる。


たまき、見てごらん。あれが新しい葉っぱだよ」


 赤い葉を指さすと、環は何を見つけたのか、しきりに手を伸ばしている。


 うれしそうにキャッキャと笑う環を見て、心臓がドクンと音を立てた。

 

 ――この子には、見えているのかもしれない。


「あー、うー」と、しきりにおしゃべりをしている。


「……こだま、そこにいるの?」 

 震える声で、そっと話しかけた。

 

「僕の息子だよ。環っていうんだ。……この子とも、また遊んでやってくれないか?」


 こみ上げてくる涙を必死にこらえていると、クスノキの香りが辺り一面に広がった。





 おしまい



 




 

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