天使の形
鳥尾巻
サモトラケのニケ
「天使の形をしたものはみな天使という生き物なんだ」
何を当たり前のことを。こんなところでナンパ?と、
遼子は隣に座った男にちらりと視線を投げた。陳腐な話で女を釣ろうとする手口にしては、あまりにも拙い。適当にあしらおうとした彼女は、男の顔を見て息を呑んだ。
栗色の巻き毛に完璧に整った顔立ち、窓から差し込む光に透ける睫毛は優美な曲線を描き、本物の天使ですらも恥じ入って天界に逃げ帰りそうな美しさだ。それでいてなよなよしたところは一切なく、均整の取れた筋肉質な体躯は、男性的な魅力に溢れている。
非現実的なほどに整った男は、遼子の返事がないのも構わず、声を潜めて顔を寄せて来た。
「今、講師が話してるサモトラケのニケ。あれは天使の化石なんだ」
馬鹿馬鹿しい。遼子は呆れた表情で、前方を見た。スクリーンに映される頭と両腕のない天使の石像、有名なヘレニズム期の大理石彫刻だ。翼の生えた勝利の女神「ニケ」が、空から船の舳先に舞い降りた姿を表現したと言われている。
「頭がないのは、人間が切り落として粉々に砕いたからさ。彼女は勝利の女神じゃなくて、人間が勝利したからこそ、それが二度と復活しないようにしたんだよ」
「……そうなの」
荒唐無稽な戯言に、それ以上言葉が出ない。この人、顔はいいけど、そうとう頭のネジが緩んでるんじゃないだろうか。それにしても、天使の形となんの関係があるのか。遼子の目に浮かんだ疑問を読み取ったのか、彼は真剣な目をしたまま先を続けた。
「天使は人を食べるんだ。遠い昔、宇宙からやってきた翼のある生き物達は、人間を狩った。自分達の食糧にするために」
「そんな馬鹿な話……」
「そうだね。当然、人間だって食べられたくはないから、抗戦する。人間と翼ある生き物の戦争だね。天使の化石はその戦いに負けた者の屍なんだよ。ニケの他にも残ってる石像も全部そう。それ以来、天使達は人の心を操り、社会に上手く紛れて捕食するようになった」
「なんて罰当たりな」
遼子が小声で言い返すと、光の加減で金色にも琥珀色にも見える綺麗な瞳が悪戯っぽく輝く。「信じた?」と、笑いをこらえた声で囁かれ、遼子の耳が熱くなる。やはり揶揄われたのだ。
男は
その日、彼とは講座が終わってすぐ別れたものの、数回あった講義で顔を合わせるうちに、次第に心の距離も近づいて行った。
数ヶ月後、結婚した遼子と伊織は、郊外に家を構えた。2人とも両親は既に他界して他に兄弟もなく、温かい家庭に飢えていた。遼子と親しい友人達はスピード婚に驚き、あまりに美男すぎる伊織を見て「騙されているのでは?」と心配していた。出会いこそ不思議なものではあったが、友人達も伊織と接するうちに、彼の善良さを信じるようになっていった。まるで天使のように誠実だ、と。
伊織は生まれてくる我が子の為に、子育てしやすい環境を整えることに余念がない。完璧な容姿の優しい夫に愛される幸せな毎日。時々、遼子が天使の話を出して揶揄うと、彼は困ったように笑いながら、まだ膨らんでもいない彼女のお腹を撫でた。
「天使ちゃん、ママは意地悪だね」
まだ名前のない我が子を、彼は「天使」と呼ぶ。胎児に呼びかける為の仮の名前だが、自分達の出会いを考えると、ぴったりだと遼子は思う。
「あなたがおかしなこと言うから」
「君の気を惹きたくて必死だったんだ」
いったい、自分のどこに惹かれる要素があったのか、遼子には分からない。遼子は可もなく不可もない平凡な容姿だ。見るからにモテそうな彼が声をかけて来たことが奇跡のように感じる。遼子は幸せの絶頂にいた。
「最近の天使は天使の形をしていないんだよ」
伊織は小さな女の子と手をつなぎ、墓石の前に立っていた。白いワンピースを着た、彼にそっくりな巻き毛の女の子は、天使のように愛らしい。墓前に供えた白い薔薇の花弁が、時折吹く夏の風に、ハラハラと散っていく。
妻は重い産後鬱にかかり、ある日発作的に家を飛び出し、山中で獣に食い荒らされたような姿で発見された。山で迷い、大型の獣に襲われたのだろうというのが警察の見解だ。彼らを襲った悲劇に、世間は同情的だった。
「パパ、お腹空いた」
ふくふくした頬を膨らませた幼児がむずかるように体を揺らす。近頃は食欲もかなり増して、体もずいぶん成長したから、
天使は天使の形をしていない。羽根のある天使達の時代は終わり、彼らは化石になった。今はひっそりと世界に紛れ、その数を増やす。伊織は光に透ける金色の目を持つ娘を見下ろし、静かに笑った。
天使の形 鳥尾巻 @toriokan
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