第5話 教習初日
翌日は朝5時に目が覚めた。今日から教習がスタートだと思うと、発汗、動悸、腹痛、下痢の症状が一気に押し寄せた。そうこうするうち朝食の時間になり食堂に向かう。
朝食は海鮮ビュッフェだ。生の鮪や鰹、海老、イカ、ウニ、ホタテ、卵焼き、雌株などが種類ごとに並んだ皿から好きな具をご飯に乗せられる。
遊星は女二人と一緒にご飯をがっついている。私は食欲もないのでご飯にわかめの味噌汁だけをかけ隅の席で食べることにした。
突然向かいの席にグラサンが座った。男は鮪と海老と卵が乗った飯を黙々と食べている。怖くて余計に食が進まない。早く食べようと飯をかきこんだ。
「それだけですか?」
律子さんが心配そうに訊いた。
「ちょっと食欲が……」
「良いね、ここの食事」
不意にグラサンが律子さんに声をかけた。
「ありがとうございます」
「都会にいたんじゃ、こんな美味いもん食えんからなぁ」
「夕飯も楽しみにしていてくださいね」
男はやけに楽しそうだ。
まさか彼も律子さんのことを?
私の気持ちを悟られてはならない。恋敵として邪魔になったら男は私を殺すに違いない。
「ご飯美味しかったよ、ごちそうさん!」
遊星達が笑顔で食堂を出ていく。
私もこんな風に律子さんと気軽に会話ができたら。
遊星が少し羨ましくなった。
8時に自動車学校行きのマイクロバスがきた。
後ろの席に座ると遊星も横に座る。次にあの女子二人が乗り、最後グラサンが現れた時は心臓が止まりかけた。彼も同じ教習所に行くとは。
「グラサンの人、ここ空いてるよ!」
遊星の台詞に凍りつく。余計なこと言うな遊星。蟹の餌になるぞ。
グラサンは無言で私の前に座る。
バスが走り出す。
「どこの人?」
遊星は物おじせず声をかける。
「東京だ」とグラサンが答える。
「マジ? 俺神奈川だから近いじゃん!」
「私達千葉〜!」とギャルが手を上げる。
「彦りんはどこ?」
「東京です」
「へー、二人仲間じゃん!」
グラサンはニコリともしない。イェーイ! とハイタッチするようなノリではとてもない。
バスは林檎農園の脇の坂を登り、やがて山に囲まれた旧校舎が姿を現す。HPの写真と同じ建物だ。緊張で胃が痛い。
「あれ教習所? ボッロ!!」と遊星。
「旧小学校を改築したらしいよ」とギャル。
やがてバスが教習所前に停まった。
入学書類を提出し教室でオリエンテーションになる。席についてすぐ厳しそうな30代位の女性が現れ、テキストを配られ運転の基礎知識や注意事項を説明した。最後に教習のスケジュール表が配られた。学科は1日2時間、他は実技教習だ。曜日ごとに担当教官が変わり、今日の担当教官は中山ーーあの女教官だった。
外に出て車に乗り込み、エンジンの掛け方やブレーキとアクセルの操作など基礎的なことを教わった。教官が全く笑わなくて怖い。
「走ってみましょう」
促されエンジンをかけハンドルを握る。手が震え額を汗が伝う。帰りたい。
「サイドブレーキ下ろして、アクセル踏んで」
言われた通りにすると車が走り出した。
「標識をよく見てね。次は左折」
パニックで右にウィンカーを出し「違う、左!」と注意された。高圧的な指導は更なるパニックを生む。左折する時縁石に擦りまた叱られ、坂道の下りでスピードを出しすぎ止められた。
教官がため息をつく。やはり私は出来損ない。来るべきではなかった。強烈な自己嫌悪に苛まれた。
「深呼吸をしましょう」
教官に言われ大きく息を吸い吐く。何度か繰り返したら落ち着いた。
「道路に出れば命懸けよ。少しの不注意や操作ミスで命を奪ってしまうこともあるから気をつけて」
「はい、すみません」
「自信さえつけばできるわ。落ち着いてもう一度やってみましょう」
「はい、お願いします」
その後の教習も散々だった。
「何かやつれてない?」
昼休み遊星が訊いた。
「気のせいです」
力なく返し離れの食堂に向かう。券売機で適当にカレーの券を買い、厨房前のカウンターに出した。
「一緒食べよ」
遊星に誘われあの女子二名と食べることになった。ギャルの方は梨花、ショートの子は南というらしい。
「今日の教官超イケメンなの! 優しく教えてくれて最高!」
梨花の横で南は静かに頷いている。
遊星は「俺中山さんが良かったわ〜、超綺麗だしスタイル抜群じゃない?」と言った。
「怖いですよ」
「俺中山さんになら怒られたいわ〜」
「キモっ」と梨花が引いて南が苦笑する。
結局カレーは半分残した。
「まぁ頑張ろ。リラックス、リラックス!」
「そうそう、気楽にいこ〜」
遊星と梨花が励ましてくれ少し元気が出た。見た目はチャラいが悪い子達ではない。
やがて午後の教習が始まった。
次は学科で、教室のスクリーンで交通事故の危険性を伝えるDVDを観た。ドライブレコーダーで撮影された、高齢者の運転する暴走車が停車中の他の車に衝突するシーンが映し出される。
次に、不注意のトラックに跳ねられ命を落とした小学三年生の少女の父親がインタビューに答えていた。娘の死後ランドセルから出てきたチューリップの種を、学校に許可をとり『交通安全の花』として校庭の花壇に撒いて貰ったという。
両親の悲しみを思うと涙が溢れた。隣の席でグラサンも鼻を啜っていた。
両親や桃太郎がこんな事故に巻き込まれなければいい。誰も傷つけぬよう、安全な運転をしよう。
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