後篇

 

 館の窓から見える広大な庭園には、樹々が春の花を咲かせていた。

 魔女の婚約者の俺はおまけのようなもので、シェレンベルク家に集った魔法使いたちは四葉ちゃんを取り囲み、口々に婚約祝いを述べていた。魔法使い一族の結束は固いようだ。

 午後の明るい庭を独りで散策していると、少し小高くなっている庭はずれの、円形のあずまやにハイドリヒの姿があった。柱に凭れて葉巻を吸っている。 

 あたり一面が花の天蓋だった。遠目には桜かと想ったが、すべて林檎の白い花だった。

 ハイドリヒから無言で葉巻を一本差し出されたが断り、あずまやから下った処にある湖を見ていた。青い湖面に白鳥らしき鳥がいる。人間界と比べると細かい点に違和感や相違はあるのだが、物珍しさが勝って魔法界の居心地はそう悪くない。どうせずっと夢見心地なのだ。もうどうにでもなれ。

 やがてハインリヒが口をきいた。

「あの小屋が、ヨツバが生まれたうまやだ」

 遠くに厩舎があった。四葉ちゃんが生まれた時、あの厩の真上に蒼く燃えるベツレヘムの星の如きが耀いたのだ。

「四葉ちゃんの生まれもった魔力とは、それほどに凄いものだったのでしょうか」

「人間のお前には関係ない」

 取り付く島もない返答をして、ハインリヒは葉巻から灰を落とした。こぼれた灰が波紋を描いて風に流れ去る。

 そよ風に揺れるりんごの花が蝶のような薄影をちらつかせていた。


 おじさま。おばさま。

 ヨツバを連れて行かないで。

 魔力を封印したのならもう魔法界で暮らせますよね。ぼくがヨツバの面倒をみますから。


うまやの隅で赤子が泣いていた。わたしが見つけて館に知らせた。それから三年の間、ヨツバは此処で暮らしていた。元気な子。水色の眸をして誰にでも笑いかけて」

 ハインリヒはそれだけ云うと館へと戻って行った。入れ違いに箒を背中に背負ったヨアヒムがやって来た。そろそろ人間界へ帰る時刻だ。

「ヨアヒム、四葉ちゃんは今日はこちらに泊まるんだろ」

「蓮澤さんに逢いたいですか、太郎さん」

 蓮澤というのはヨアヒムからもらった紙片に書かれてあった人物の名だ。蓮澤欣六はすざわきんろく。その紙片は財布に入れてまだ持っている。

「急いだほうがいいかもしれません」

「どうかしたの」

「最近、蓮澤さんは寝つく日が増えているそうです。今は持ち直しておられます」

 紙片に書かれていた住所は、他県の老人施設のものだった。


 

 百歳を超える蓮澤欣六さんは車椅子で現れた。欣六さんの車椅子をおしているのは白い頭巾で髪を覆った修道女だ。

 修道女は魔女だった。ひと目で分かった。欣六さんの妻。

「ごゆっくり」

 庭のパラソルを開くと、修道女のトゥニカをまとった魔女は控えめに微笑み、俺と欣六さんをおいて施設に戻って行った。魔女は夫と同じように歳月を重ねているはずだが、欣六さんの半分くらいの歳に見えた。

「本日はありがとうございます。ご無理はなさらず」

「気分は良いですよ」

「あちらが?」

「そう。魔女です。あれでいて、彼女はわたしよりも年上なんですよ」

 欣六さんは歯が何本か抜けた顔で破顔した。

「二十年前に来てくれたら、わたしにもまだ男前の名残りがあったんですがねえ」

 毛糸の帽子を被った欣六さんは足腰が萎えている他はお達者だった。耳の方は補聴器があるし、百歳を超えていても頭はしっかりしているようだ。ヨアヒムが紹介してくれた蓮澤欣六さんは、魔女と連れ添った希少な人間のうちの一人だ。

「あなたは高校の先生だとか」

「はい。数学を担当しています」

「里の兄弟にも訓導がいましたよ。わたしの話が何かの参考になれば」

 欣六さんは親切だったが、さすがにこんなご老体相手に美人魔女の卑猥性の有無について語り合うことは諦めた。

 職員が盆にのせたお茶を運んできた。四葉ちゃんの実家に持っていく予定だった菓子折りを施設への手土産にしたのだが、その菓子が二人分、皿に乗せられていた。

「まずは魔女との出会いから、あなたにお話しましょう」

 欣六さんは語り始めた。



 欣六さんは、その朝、まだ寝ている弟たちの為にかぶと虫を獲ろうと家を出た。神社の裏手には広葉樹林が広がっており、そこが村の子どもたちの遊び場だった。

 欣六さんには召集令状が来ていた。明日には蒸気機関車に乗って出征する。

 家に残していく弟たちの為にかぶと虫を何匹か獲った後、木登りが得意だった欣六さんは大樹の前で足を止めた。子どもの頃によく登っていた樹だ。

 捕虫網と虫かごを地面におくと、欣六さんは下駄を脱いだ。この樹ともこれでお別れだ。樹の上から村の全景を眺めて、今生の別れを告げようと想ったのだ。

 ごつごつした樹皮に自身がかぶと虫であるかのようにしがみつくと、欣六さんは枝を伝って樹に登った。成長した今の方がすいすいと登れたが、幼い頃とは違い、足をかけた枝が重みにしなる感触にはひやりとした。

 視界が広がるにつれて、涼しい夏風が吹いた。

 そこに尼僧がいた。鳥が枝にとまった音に上方を仰いだら、高い樹の天辺近くに女が座っていたのだ。

「なぜ尼僧姿なのでしょう」俺は訊いた。

 欣六さんは肉の落ちた手をふった。

「戦時中ですよ。敵国人は強制送還されるか収容所行きでした。教会関係者ですら間諜を疑われて怪しまれた時代です。国策に協力しない宗派は弾圧され、検挙されていたのです」

 その中でも比較的扱いがましだったのが、同盟国籍の僧と尼僧だった。

 欣六青年は愕いた。なぜこんな処に外人の尼僧がいるのだ。

 はり出した枝に座った若い尼僧の方も、下から登ってきた若者を見て愕いているようだった。

 生きていたの?

 尼僧は震える声でそう云った。

 やがて尼僧は落ち着きを取り戻し、蓮澤欣六という名を知ると、欣六に微笑みかけた。

「ここはあなたのお気に入りの場所かしら」

「いや」

 枝の合間に足と手をかけて立ったまま、欣六さんは茫然と尼僧を見詰めていた。

「尼さん、なじょしてこの樹に登った。俺が来る前にはいねかったろ」

 尼僧は膝に箒を乗せていた。

「そこは危ねっから、とにかく降りるべ」

 蒸気機関車の汽笛の音がはるか遠くから聴こえた。尼僧に手を貸そうとしたその時、上空を日本軍の戦闘機が行き過ぎた。欣六さんは身体中にぐっと力をこめて、梢の先を通過するその編隊を眼で追った。

「頑張れ。空中戦だ。米英をやっつけろい」

「あなたもあれに乗るの?」

 女の顔がすぐ近くにあった。尼僧は小鳥のように枝を跳んで、欣六さんのいる枝の近くにやって来た。

「明日、あなたは出征するのね」

「そんだけど」

 何故知っているのだろう。その疑問に尼僧は応えた。

「村中の若者が一度に招集されたから。明朝は下の神社で、出征祈願をやるのでしょう」

 尼僧は哀しげな暗い眼をした。

「人間界に干渉することが赦されているならば誰も死なせたりはしないのに」

 まるで人間ではないようなことを呟くと、尼僧は樹から跳び下りた。

 ぎょっとなった欣六さんが枝葉を透かして地上を捜すより早く、箒にまたがった尼僧は欣六さんのいる樹の周囲を旋回していた。

「わたしは魔女」

 尼僧はそう名乗った。

「春には林檎の花が咲く野山。この村に一度来てみたかったの」

 そう云うと、魔女を乗せた箒は戦闘機が消えたのとは逆の方角にひらりと舞い上がり、ゴム銃で飛ばす小石のようにして雲海に見えなくなってしまった。



 その後もう一度、欣六さんは魔女に逢った。

「その時のことはね、決して外部には云えません。生き残った者もほとんどが死んだ今となっても、云えません」

 欣六さんの眼は少し尖って怖くなった。

 魔女は欣六さんを戦場から助けたのだ。

「南方は夜になっても空が孔雀色をしています。そこに、さあっと箒で現れてね。機銃掃射を受けて砂州に倒れていたわたしを掴んで、安全な壕まで箒で運んでくれたのです。部隊は全滅でした」

「どうして魔女はそんなことを」

「さあ」

 ふふふと欣六さんは笑った。


 生きていたの?


「ここだけの話で、魔女にも直接確かめたことはありませんが、こういうことだったのではないかと想うのですよ」俺の介助で欣六さんの車椅子は庭を回った。

 欣六という名の通り、わたしは六番目です。跡継ぎの長男を残し、次男以下から順番に兵隊にとられておりました。そのうちの四男の兄がね、これは京都の大学に在学中、学徒出陣で戦死したんですが、容貌がわたしとそっくりでした。

「四男の兄は、魔女と恋仲だったかも知れないのです。魔女が尼僧の恰好をしているのも、神学科にいた兄の入知恵なのか、それとも最初から尼僧として魔女は兄と出逢ったのか。まあ分かりませんがね。訊きませんし」

 海に面した施設の中庭にはよく手入れのされた花壇があって、入所者の心を潤すようなチューリップや菫が咲いていた。

「死んだ兄の身代わりでも何でも。樹の上にいた尼僧を見た時からこちらは忘れられませんでしたから。戦地で命を助けられた折も、嗚呼よかった、もう一度あなたに逢えた、これで悔いはありませんと、赤や緑の大きな星がぴかぴか光っている空の下、魔女を見上げて男泣きしたくらいです」

「それから」

「日本に生還しました。終戦になりました。それ以降、魔女とはずっと一緒です。尼僧とは結婚するわけにもいかず、内縁の妻というかたちでしたが」

 尼僧の姿を解かない。それは四男の為の喪服だからではないのか。

 俺の疑念を知るように、欣六さんは穏やかな顔で眼を伏せた。

「太郎さん。人間の運命に介入してはいけない掟を破ったせいで、魔女は、わたしの命を救った責を問われて魔法界から永久追放されたのです。だからね、わたしも腹をくくったのですよ」

 魔女と一緒に生きよう。

 たとえ死んだ男の面影を抱いているのだとしても、それがなんだろう。

 欣六さんは喉の奥で笑った。

「わたしの願いも、魔女の願いも、好きな人の傍にいること。それだけだったのですから」


 

 桜は葉桜になっていた。奇跡的にキャンセルが出た部屋を二泊三日で予約することが出来た。分不相応な高い旅館だったが。

 四葉ちゃんの演出は止まらないようで、露天風呂から上がって戻ると、和室の真ん中にサメがいた。

「ここは旅館のゆかた。ゆかたで」

「太郎くんは色気よりも笑いかと想ったのに」

 サメは布団の上でばたばた暴れた。

 着ぐるみを脱いだ四葉ちゃんにお願いをした。俺はサメじゃない。だからサメに欲情したりはしないという問題はこの際、おいておくことにした。

「もし四葉ちゃんが嫌になったらいつでも結婚を中止にしていいから」

「そんないい加減な気持ちなら婚前交渉なんかしないっ」

「声が大きいッ」

「どうしてそんなことを云うの、太郎くん」

 そうだなぁ。

 四葉ちゃんの手には四葉のクローバーの指輪が光っている。子どもの頃ならいざ知らず、今なら魔法界に帰っても、四葉ちゃんが魔法を使えないことを蔑んだり揶揄うような者はいないだろう。あの従兄ならそんなことは気にしないし、護ってくれるはずだ。

 四葉ちゃんの実家を訪問した際、俺は水晶の小瓶に血を一滴採られた。そこから色んな事が分かるのだそうだ。

 もし子供ができたら、四葉ちゃんは魔法界で出産することになる。『魔女との生活、あなたの人生を豊かにするために』によれば、魔女の妊娠期間は人間のそれより短く、さらに人間との間の子となれば、色々と勝手が違う。

 生まれた子どもについても、その子どもが人間なら人間界で、魔法使いなら魔法界で育つことになるそうだ。いつでも逢いに行けるとはいえ、通常の家庭とは大幅に異なる形態になる。それに加えて、四葉ちゃんの破格の魔力が子どもに遺伝していたら、子どもにも魔力封印の手続きがいる。

 俺の覚悟を試すように、ヨアヒムは何度も俺に念を押した。

「太郎さん。魔法界もシェレンベルク家も全面的に太郎さんを補佐しますが、この先に何が待ち受けているかは分かりません」

 平凡な倖せとは一線を引くことになるのだろう。

「強大な力を持つ姉さんには魔法界でも求婚者が押し寄せていました。しかし姉は誰にも関心を示しませんでした。姉の力は魔法界に不幸しかもたらさないと姉は知っていたからです。人間界で暮らすことを姉は選びました。その分、姉は太郎さんに責任を感じています」

 深いところまで、四葉ちゃんは考えていたようだ。

「一族会議が開かれました。最後に従兄ハインリヒが姉に云いました。『好きな男と結婚しなさい。たとえそれが人間であっても応援してやろう』と」

 林檎の白い花の下でも、きっと君はおもちゃの指輪を見ていたんだろうね。



 四葉ちゃんのゆかた姿は意外にも似合っていた。日本情緒というよりは新しい民族衣装みたいではあったが、想ったよりも悪くなかった。サメよりはましだ。

 ガス燈の灯るレトロな温泉街をそぞろ歩き、射的をやって、土産物屋で揃いの湯飲み茶わんを買った。露天風呂は昼は新緑に、夜は星空に包まれた。魔法界にも温泉はあるのだろうか。

 日本酒の試飲をして一本買った。夕暮れ空に舞う蝙蝠と、ほのかな鉱泉の匂い。

 タオル地のサメの着ぐるみをひざ掛けにして、四葉ちゃんが濡れ縁の藤椅子で眠っている。

 

 連休明けの土曜日は弁当持ちで出勤だった。五月の下旬に体育祭があるのでその準備だ。

 四葉ちゃんがお弁当を作ってくれた。昼休み、同僚の眼から隠すようにして弁当の蓋をえいっと開いた。白米にふりかけ。おかずは、焼き鮭、卵焼き、昨夜の残りのひじき炒め。

 こういうのでいいんだよ。

 安堵のうちに美味しく頂いて、弁当箱をしまおうとすると、鞄の中から家計管理の特集号が出てきた。すっかり忘れていた。

 本屋の紙袋から雑誌を取り出した。空になった茶色の紙袋に、持ち歩いていた『魔女との生活、あなたの人生を豊かにするために』『魔女から世界と身を護る方法』の二冊を入れた。

 俺はその紙袋を私物ロッカーのいちばん奥に納め、鍵をかけた。



[了]

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

婚約者は、魔女 朝吹 @asabuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説