婚約者は、魔女

朝吹

前篇


 はるか遠くを走る蒸気機関車までも一望出来る大樹の高みに尼僧がいた。

 灰色の洋装で、白頭巾で頭を覆い、編み上げ靴を履いた脚をぶらぶらさせて、うら若い尼僧は枝に腰を掛けていた。

 日本軍の戦闘機が編隊を組んで村の上空を過ぎてゆく。

 まぶたを閉じると今でも浮かぶ。夏空に最も近い高い樹の、青葉の清浄な陰影の中からこちらを振り向いた尼僧の白い顔。尼僧は愕いた顔をして口を開いた。

 生きていたの?



 美女と同棲している気分は如何ですか。

 そうですね。

 俺はビールを片手に溜息をついた。婚約祝いと同窓会を兼ねた旧友との昼飲み会。学生時代によく利用していた店だ。眼前の皿には春鯵のたたきと、しゃきしゃきの炒め物がある。

 男同士のここだけの話、パワー系の高級デリヘル嬢がずっと家にいる感じでしょうか。

「羨ましいぞ、太郎。吸いつくされる毎日か」

「外人といっても日本育ちなんだろ。だったら生活に何の支障もないな」

「そのわりには浮かない顔じゃないか」

 グラスが空になる度に、友人たちは俺にビールをいだ。

 興味があるなら貸し出すぞ。一瞬で白骨になる覚悟があるならな。

 

 

 俺は数学教師だ。進学校のいいところは、生徒が目標を高くもち、勝手に勉強してくれるということだ。たまに難問を質問されることもあるが、黒板に数式を写している間に、「ああ、分かったから。もういいです」と勝手に納得して学生が去っていく。

「先生、やるじゃん」

 大人側が舐められたら終わりの生意気盛りな高校生を抑えるにあたり、男女問わず生徒間の俺の評価は上々だ。授業の点数ではない。

「海外モデルみたいな美女と日曜日にデートしてたでしょ先生」

「見直したわ太郎ちゃん。最近、なんだか憂いが出て渋くなったと想った」

 世界を滅ぼしかねない女と婚約中の男だからな先生は。

「大学に入ったら在学中に起業するつもりです。その時は先生の彼女を頂いてもいいでしょうか」

「美人は平凡な男を選びがちというけど、都市伝説かと想ったら本当だった」

「駄目だ。俺は太郎先生よりも男前だからあんな美女とは付き合えないんだ。人生がつまらない。絶望したから校内カウンセラーにかかってくる」

 お前らも骨にしてやろうか。


 人の気も知らないで、誰もが「おめでとう」と俺に云う。

 四葉ちゃんと婚約するにあたり、超安定志向公務員一家のお堅いわが家は、あっさりとこの縁組に賛成してくれた。

「近所の四葉ちゃんでしょ。ご両親も素敵な方だし、実家同士が近いなんていいじゃない」

「キックボードで町内をかっ飛ばしていたあの子か」

 姉も兄も既に家庭をもっている。三番目の俺など「お好きにどうぞ」という感じだった。誰も恐怖の魔女と結婚するとは知らない。

 あれやこれやと、特殊な要素が多くて不安が募る。だが俺には相談する相手がいない。四葉ちゃんの弟のヨアヒムがいるが、相手が少年では相談する内容にも配慮が要る。

 ところが少年魔法使いヨアヒムは委細承知とみえて、「大体のことはこちらに」と冊子を俺にくれた。

 『魔女との生活、あなたの人生を豊かにするために』

「日本語訳です。目を通しておいて下さい」

「ありがとう」

「夜のことは後ろの方です」

「あ、それはもういい」

 冊子は項目別になっていた。中には『病気』『出産・育児』なんていう頁もあってどきっとしたが、基本的には人間と付き合うのと変わらず、困ったことがあればとにかく魔法界に泣きつけば何とかしてくれるということだけは分かった。

『魔女との生活、あなたの人生を豊かにするために』を読み終えた頃、別冊が届けられた。黒魔術風の山羊の化け物のような銅版画が表にある特装版の薄い冊子だ。

 

 別冊『魔女から世界と身を護る方法』


「それからこちらを」

 別冊を手に沈黙している俺に、ヨアヒムは一枚の紙片を差し出した。蓮澤欣六はすざわきんろくと書かれてある。氏名の下には連絡先の住所。

「結婚式は魔法界で挙げる。それでいいですね」

「いいよ」生返事をして俺はヨアヒムからもらった紙片を財布の中に入れた。

「太郎さん。ヨツバ姉の希望ばかりを通さなくてもいいんですよ」

 ヨアヒムは心配するが、俺の方からの注文はとくに無い。

 四葉ちゃんの実家は俺の家の斜め向かいだ。家屋は建て替えているが戦前からの敷地を維持しており、鬱蒼とした木立に囲まれている。人間界で育った四葉ちゃんだが、魔法界の実家と縁が切れたわけではなく、これまでにもちょいちょい魔法界に里帰りしていたそうだ。

 今度、俺はその魔法界の実家に招かれて行く予定になっている。

 

 

 学年会議を終えて、まだ肌寒い家路を辿る。

 広い部屋に引っ越したことで学友は同居していると勘違いしていたが、四葉ちゃんが泊りに来る日は週末限定だ。つまり今日だ。

 陽が沈んでも煌々と明るい駅中の本屋に立ち寄って、所帯を持った後の家計の参考になりそうな特集号を買った。

「ありがとうございました」

 書店の紙袋に入れられた雑誌を鞄にしまう。

 並の容姿の、ごく普通の子を嫁にしたいと想っていた。人生設計的にもそれが堅いと踏んでいた。年老いたら朝晩一緒に散歩したり、縁側に並んで茶を飲んでいるようなやつだ。ああいうのでいいんだよ。

 肉やの店先では惣菜のコロッケを揚げている。和牛の切れ端が入っているから少し高い。あくまでも生活水準は平均に合わせて、五年以内には子どもをもってローンを組んで郊外に戸建てを。

「お帰りなさい、太郎くん」

 帰宅した途端、魔女が抱きついてきた。会議で少し遅くなると連絡しておいたのだが、魔女は夕食も食べずにずっと待っていた。猫が飛び掛かるようにして抱きつく魔女を「あー、はいはい」と抱き止めた俺は、女の背中に回した手を止めた。すべすべ。するする。

 暖房を入れた。

「四葉ちゃん」

「なあに、太郎くん」

「はだかエプロンは今後禁止。風邪ひくでしょ」

 四葉ちゃんは心外な顔をして口を尖らせている。

「着替えてくるまで夕飯は食べないよ。ついでに風呂上りのベビードールも不可」

「ちっ。盛り上がり甲斐のない男」

 四葉ちゃんは隣室に消え、一枚が万を超える高級下着を身に着け、シャツに袖を通しながら戻ってきた。まだ春先なのに尻まる出しで何時間待ってたんだよ、洋酒まで用意してある晩飯よりもそっちの方が気になるわ。

 以後、家の中での四葉ちゃんは近所の量販店で買ってきた殺風景なジャージ姿になっている。こういうのでいいんだよ。えらくゴージャスな、まるで外資系のブランド品をまとっているかのような、すらっとしたジャージ姿ではあるが。

「はだかエプロンとベビードールが駄目なら、太郎くんは何がいいの」

 それは君が考えることじゃないと応えた。

 魔女である四葉ちゃんの制服姿は現役女子高生の頃からコスプレにしか見えなかったし、何を着ようが広告モデルのようだ。本当は温泉あがりのゆかた姿なんかが俺の好みだが、見た目外人の四葉ちゃんが温泉旅館のゆかたを着てみたところで、求めるものとは違ってしまうだろう。

 ふと横を見ると、四葉ちゃんはボンテージ衣裳を熱心に検索している。

「似合うと想うよ。だけど駄目です」

「つまらない」

 四葉ちゃんは泣き真似をしてどっかへ行った。魔女がそこにいるだけで非日常が日常なのだ。もう十分だ。

 そのあたりのことを誰かと話したい。魔女と付き合っている同じ立場の男と愚痴りたい。

「魔女がいくら頑張っても、本人が狙う猥褻わいせつ性には足りませんよね」

 そんな贅沢を云いたい。俺のこの心理を深堀りするなら、幼稚園児の頃から知っている女だからだろうな。

 在学中から四葉ちゃんはモデルのアルバイトをしていて、今もそれを続けている。卒業式の後、四葉ちゃんは卒業証書を入れた筒を手にして俺の家にやって来て、夜になっても帰らなかった。



 桜の香りが風にする。雲の切れ目から降りると、そこは魔界だった。

「乗れ」

 魔法が使えない四葉ちゃんは箒にも乗れない。よってヨアヒムの箒に四葉ちゃんが、俺は迎えに来たもう一人の魔法使いの箒に同乗して魔法界に行くことになった。幼い頃に封印された四葉ちゃんの魔力は、危機的状況など、条件が揃わないと滅多なことでは発露しないのだそうだ。

 新年度の四月で忙しく、生徒に提出させた書類をまとめる雑用で午前中は休日出勤した。四葉ちゃんには先に行ってもらい、指定された公園に午後になってから赴くと、紺青色のインバネスを羽織った美形のマネキンが風に吹かれて立っていた。それが四葉ちゃんの従兄ハインリヒだった。

「荷物は持つな」

 俺より少し年上のハインリヒは俺を叱りつけた。嫁になる女の実家を訪問するにあたり、こんな時には誰もがそうするように、俺は百貨店で買い求めた土産の菓子折りを手に提げていたのだ。

 新調したスーツ姿の俺を箒の後ろに乗せ、ハインリヒの箒は空に飛び立った。男の相乗りなんて全くさまにならない。ハインリヒも同感のようで、

「乱気流に遭ったことにして振り落としたい」

 俺への不満を隠そうともしなかった。

 魔法使いの国は、二世紀くらいの前の欧羅巴諸国を想い浮かべてもらうと丁度いい。牧歌的な田園に豪邸が建っていて、それが四葉ちゃんの家だった。

「ヨツバは貴族ではない」

 道中、苦々し気にハインリヒは俺に教えた。

「旅回りの魔法使いがシェレンベルク家の領内に忍び込み、うまやでヨツバを産み落とした。赤子が生まれると、大きな蒼い星が夜空を横切って厩の上に現れ、八方に光を延ばして耀いた。その星に導かれて三人の幻術師がシェレンベルク家を訪れた」

 ちょっと待て。

「それはベツレヘム……」

「ただの赤子ではないというので、シェレンベルク家が赤子を引き取り、ヨツバが並外れた魔力をもつ魔女であることがはっきりすると、三人の幻術師は力を併せてヨツバの魔力を封印したのだ。そして子爵夫妻は無力化したヨツバを人間界に送り出した」

 では実家といっても、人間界の養父母と同じく、シェレンベルク家も四葉ちゃんの本当の家族というわけではないのだ。弟のヨアヒムとも血が繋がっていない。もっとも魔法界は養子縁組が盛んでよくあることらしい。

 誰にも怪しまれないような旧家の家系が人間界には幾つかあって、諸事情で魔法界から人間界に居を移した魔法使いはそこで人間に擬態して過ごしている。俺の実家の近所に暮らす四葉ちゃんの養父母は、海外からの移住組で、本家は永世中立国にあるらしい。

 箒の離発着場は館の屋上だった。

「これはシェレンベルク家所有の田舎屋敷のうちの一つだ。子爵の城は別にある」

 ハインリヒは軽蔑を隠さない態度のまま俺を箒から降ろすと、召使に箒を渡して、さっさと消えた。

 館には大勢の魔法使いが集っていた。魔法使いといってもあの怖ろしい魔法を揮うところさえ見なければ、外人とそんなに変わらない。保護者会の中に投げ込まれたと想えばいいのだ。適当に「ええ」「はい」「そうです」を繰り返してやり過ごした。魔法のお陰で同時通訳されて意志疎通に難はない。

「君はあの髪型ではないのだね」

 あの髪型とはまげのことだ。大昔から、たまに日本人も魔法界に来ていたのだそうだ。物陰から魔法使いの子どもたちがウラシマ、ウラシマと俺のことを呼んでいた。



》後篇

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