永遠のさよなら(旧・明日ありと思う心の仇桜)

煙 亜月

永遠のさよなら

「気持ち悪いんだよ」


 前を歩く彼女は、前に向かってそう話した。映画の真似かなにかか、たばこの灰をふうっ、とやはり前方へ吹き飛ばす。――平成初期。

「それでさ」話は終わってないらしい。「あっちの店ではハルミじゃん。でもこっち側んなると客層がちがう訳。名前もハルコになんのよ。あー、くだらない。名前まで客の年齢層に合わせんなっつーの」


 実際の名前はハルミでもハルコでもないが、とにかく彼女はそう毒づいた。呼び名ひとつでこうも腹を立てるような職業でもないように思ったが、彼女にとってはおおごとらしい。フーゾクとひと言にいっても、様々だ。


「着いたよ。精力絶倫、『うなぎの七夜』」ショーケースはない。メニューもない。すべて時価。わたしはこういう高い店にはあまり縁がない。もとい、まったく縁がない。しかし彼女はやれ香水だのやれジュエリーだのと、ホステスなみに貢がれるらしい。半休を出したわたしを連れだして遊びにつき合わせるなど、彼女にしてみれば造作もないことだった。


 カウンターに掛け、箸を割る。ふたりとも下手くそ箸になる。彼女がわたしに向かって、にっ、と歯を見せる。ああ、口さえ開かなければ美人なのに。口さえ開かなければ。

 彼女の源氏名は通名に由来するものだった。だからか、最初のうちはハルミだかハルコなどという名前にも抵抗もなく名乗れたらしい。だが仕事に慣れるにつれ、「自分の名前に縁があるってのが気に食わない。どうせならナツミとかカエデとか、シャレた名前がよかった」とぼやくようになった。


「――あっ、うん、いいっ! あ、あ、チリチリする——あ、だめ、その名前で呼ばないで、あんたの好きな人の名前で呼んで。あたし、今だけ、一番になりたいから——」

 初めて交わったとき、彼女はそういった。それから彼女は、わたしの昔の恋人の名前を名乗るようになり、出会って当初は本名も分からないままこうして鰻やすっぽん、チェーンの居酒屋やミスタードーナツを食べては一夜、また一夜と肌を重ねるようになった。


 お互いに本当の名前ではなく、それぞれの想い人の名で呼びながら媾合にふけった。彼女がわたしに突かれながら、想い人の名を何度も何度も呼びながらよがる光景を見て滾るわたしも相当だが。

 つまるところ、その男に優越感を抱けるからだろう。なあ——おまえに惚れている彼女はそばにいないんだぜ。なぜならいまわたしが抱いているからな。それも、長い黒髪を振り乱し、大きな乳房は揺れると痛いから両手で押さえ、ふたりで達したときにはぐったりと身体を重ね、呼吸も落ち着き拍動が分かるくらいの無音になるそのときも、やはり彼女はおまえの隣にはいない。

 股間から糸を引きながら彼女はテーブルに歩いてゆき、たばこに火を付ける。


「あ、ポカリ」

「あたしはポカリじゃないっつーの。ひと口貰うよ」くわえたばこの彼女は冷蔵庫を開け、ポカリスエットの一・五ℓのペットボトルをそのまま飲み、派手なげっぷをしたのちに投げて寄越す。

「痛えよ」

「四、五〇〇は軽量化したんだぜ?」

「おまえの身体でそんなに飲めるかよ」

「ははっ、知らねえよ。でもあんたの分は残したんだし、かわいいもんだろ」


 たばこをもみ消し、ベッドに飛び乗ると壁を背もたれにし、わたしをフットレストにする。

「重い」

「ポカリの四〇〇も飲めないか弱い女の脚が?」彼女は歯を見せ笑った。


 急に彼女の羽振りが思わしくなくなったのは嫌でもわかった。わたしの奢りが多くなったのもそう。やたらと甘え始めたのも、そう。生命線を確保し始めたのだ。「ハルコはもう、いらないんだってさ」


 外食が減り、家で鍋をつつくようになった。これもこれで悪くない、わたしはささやかな幸せさえ覚えていた。バブルがどうの銀行がどうの、それよりも彼女と晩酌できることの方が嬉しかったのだ。内縁か、婚姻関係のように思っていたのだ。


「まあ、いいんじゃない? ハルコにたかるのは息のくせえジジイ連中だし」

「逆。金回りがいいのはハルコの客。マスターに掛け持ちバレて、減給食らって、正直ハルミだけじゃやってらんない。あたしはね、もう奴隷なんだ、マスターの」

「大竹組だっけ? マスターのバック」

「それが、なんか――もうわかんない。――わかんないんだよ! 組とか金とか、もう訳わかんねえんだよ!」

 テーブルをがん、と叩き立ち上がる。椅子が傾いだが、倒れるほどこの部屋は広くはなかった。座り直した彼女は突っ伏してすすり泣いた。わたしは今にも髪を燃やしそうなカセットコンロの火を落とし、奥の部屋に歩いてゆく。


「――金が尽きるとそうやって逃げてったよ。シュウも、エドも、シフも。あんたもなんだね。どうせなら殺してくれりゃよかったのに。いいじゃん、こんな華僑の私生児、なんの価値も――」

 食卓へ戻る。

 椅子に座る彼女に片膝を突く。彼女の手を取る。自分の手が汗でびっしょりだ。声が上ずりそうで怖い。あれだけ睦び合ったというのに、馬鹿みたいだ。馬鹿みたいでも、どんなに格好悪くても、

「あなたを愛してます。どうか、受け取ってください」――そういうほかなかった。


 彼女は立ち上がって後ずさりする。

 両手で合掌するように口許を押さえ、大粒の涙を流しながらも嗚咽をこらえるため呼吸を止める。顔が真っ赤になる。こめかみに浮かぶ血管が彼女の歩んだ軌跡、その長さを雄弁に語っている。「や、めて――お願い、やめて――」懇願しながら壁にもたれかかった。

「そりゃ、その――今日すぐにすぐ、どうこうしようとは思ってない。時間をかけて考えてくれてもいい、少し距離を置いてもいい。これは、おれが持っとくから。その、急だったよね、悪かったよ。お、おれはソファで寝るから。おまえはベッドで寝たらいい――そんなに逃げるなよ。爆発したりはしないから」


 ――無意識から一瞬の無重力状態があった。そこで急に目が冴える。受け身を取ろうとする。どん、とソファから落ち、全身の痛み、尿意と寒気で完全に目が覚めた。トイレから戻るとほの暗いテーブルの便箋に気がつく。


『――勇太へ

 あなたには毎日のようにレイプされ、そのたびにできた子どもを殺さなきゃいけない仕事や世界をほんとうに理解しているのか、わたしには想像もつきません。

 でも、きのうのあなたからのまっすぐな目やふるえがちな声、大きくて汗びっしょりなてのひらかから、あなたの気持ちがなにより、なにより、どうしようもなくばかで真剣なあなたを目の前にして、わたしは逃げました。だって、勇太みたいないいひとがいるのに、世の女どもが見すごしているのがたまらなく悔しかったから。

 だって、勇太がわたしを選んだことが大きな間違いのような気がしたから。

 勇太が、もっと幸せな女といっしょになって、もっともっと幸せになってほしかったから。

 わたしは消えます。お願いだから、忘れてね。さよなら。


 PS ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい。わたし、ユータがだいすきです。こころのそこからあいしています』


 便箋を握りしめ、パジャマ姿のまま玄関へ駆け出す。サンダルが指の股に引っかかる。苛立ちまぎれにサンダルを蹴飛ばし、裸足で外へ飛び出した。まだ外は暗く、新聞や牛乳配達のカブの音がする。時刻は四時か五時。彼女なら裏番号でタクシーを呼べるはず。そうだとしたら駅まで二〇分。追いつくには――。

 おれは交通量の多い道路を目指して走った。アスファルトが裸足に刺さる。見ずとも血まみれなのが、コンクリートの路面を通った時のねっとりとぬめような感覚で分かる。だが今はアスファルトだろうがコンクリートだろうが、走らないと一生をふいにしてしまう。交通量の多い道路? そこなら彼女がぼうっと突っ立って待っていてくれるのか? おれはタクシーより速く走れるのか? 配送のトラックが地響きとともに通り過ぎる。風で細目になるのをこらえながら考える。


 ぽつり、ぽつり、と雨粒が顔を打ちはじめたと思えばすぐに本降りとなった。

チュンファ――」

 と、口に出した。雨粒は彼女の手紙のインクをにじませ、やがてどの文字も判読不可能となった。

 二週間捜しても、なにもなかった。一か月後、死ぬべきだと思いビルの屋上へ行ってみたが、だめだった。


 バブルがはじけた。

 あっという間の出来事のようにも、かねてより定められた細胞の計画死のようにも思えた。

 ずいぶんと長く待ったものだと呆れてしまうほどの時間が過ぎた。食うに困らない職は得たが、展望は明るいとまでは断じえない。『七夜』の鰻は、あれから一度も食っていない。食う用もない。


 それからから二年もしないうち、電話がかかってきた。「――はい、篠崎です。ええ、篠崎勇太ですが。――乳児院? リュウハルカさんの子――ハルカ? りゅ、リュウチュンファですか! は、はあ? し、死産――そんな――はい――では、その子はわたしが責任もって――え? 措置変更――保育園に相当するところ、ですか。一歳児保育。印鑑と――分かりました。伺います」

 施設は真新しく、近くの河川に沿って桜並木が咲いていた。この日は上着もいらないような日和だった。担当の職員は花粉症でくしゃみも鼻水も止まらず、笑ったら怒りますからね、と釘を刺して鼻にティッシュで栓をしていた。

「では、りゅういさはるくんの措置変更事由、一枚目は控えで二枚目と三枚目は同じところ――あ、四枚目もですね。はい、これでけっこうです」

 車に戻り、四枚複写のうち控えの一枚目を見た。

「リュウ・ヨンチュン――通称名、りゅう・いさはる」誰の子か。しかし、彼の名前からそれを勘ぐる必要はないようだった。

 わたしは彼女の人生に関わりすぎた。この子の人生にも、これから将来、深く関わるのだ。


「あ、もう大丈夫です」

「あら、そう? 挨拶くらいしてもいいのに」

 職員と話していた女性は「でもわたし、いつだって大丈夫だったしさ」といい、「――感谢ガンシェ一路イールゥ有你ヨウニィドゥ陪伴ペイパン永别了ヨンピエルゥ」と結ぶ。

「中国語? なんていう意味なの?」

 女性は煙を吸い込み、吐き出しながら「バイバイ、ありがと、さよなら、かな」と笑い、たばこの灰をふうっ、と吹き飛ばした。ちょうどたんぽぽの綿毛を飛ばすように。

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