蛭籠子

烏の人

蛭籠子

 物書きと言えば聞こえはいいが、事実を言えばただのフリーライターである。それで飯を食っていけるかと言われればノーだし、知名度だって全く無いだろう。

 そもそも、このご時世にオカルト雑誌の片隅にあるちょっとしたコラムなんて誰が読むのだろうか。私のこれはただの趣味である。本職は別に家でもできる仕事をしている。その片手間、時間を趣味に費やし、気が向けば現地に赴いたりしてネタを探しているのだ。

 現代とは便利になったもので少し検索をかければそう言ったオカルト話なんていくらでも出てくる。私の情報収集元ももっぱらここである。

 6月上旬のその日、アパートの一室で次の記事の題材を探している私の目に止まったのはとある捨て子の風習についての記事であった。 


 以下はその記事の一部の抜粋である。


 この集落には昔から捨て子の風習があったと言う。口減らしのためだとか、飢饉のためだとかそう言う俗に言う「仕方ない」と言ったものではない。もっと一般的に、山に我が子を捨てるのだそうだ。育てられない、面倒くさい、間違って出来てしまった、そんな我儘によって子供が捨てられると言うのは、いささか気の狂っている話である。


 とまあ、なんともエゴイズムに満ちた捨て子の風習であった。今はもう無くなっていると明言されているが、なぜこれが私の目に止まったのか。

 つい最近、あったのだ。この記事にかいてあるのと同じ地域で幼児の死体を遺棄した事件が。尤も、すぐに偶然だろうと片付けるに至る。理由は簡単でこの集落は40年程前に廃村となっているからだ。

 しかし、この記事自体は興味深い。少し惹かれるものがある。何よりタイミングがよい。無理矢理こじつけるのも私の十八番である。目に止まってしまったからには、次のネタはこれで行こうと決めざるを得なかった。


 計画を組み、数日後。私はその風習の舞台となった廃村に出向くことにした。

 数時間、車を走らせ某県の山の麓の街にあるホテルへとたどり着く。それから次の日には現場に向かえるように準備をする。山に出向く訳だ。それなりの厚着にカメラ。携帯食、水。前日から用意をしておく。そして、体力を考慮し何時もより早く床についたのだった。


 次の日、調査は滞りなく進んだ。気付いたことと言えばヒルがとんでもなく多い。普段見慣れないその生物に対し嫌悪を抱きながらその廃村の写真を撮っていく。

 私から出る二酸化炭素を検知し、周辺の蛭が一斉にこちらに集る様は憎悪以外の何者でもなかった。こんなところに我が子を捨てるとはどんな神経をと、思案したところでふと嫌な考えにたどり着く。

 仮にその子が生きている状態でこんなところに放置されたのだとしたら。幼児の小さな体躯に群がるそれを一瞬想像してしまった。鮮明にそれを思い描く前に足を動かす。変な考えはやめだ。私は取材のためにここに居る。

 もう1つ、気がついたことがある。ここは立地の関係上湿度が高い。至るところから水が流れだし、沢を形成しているところまである。長時間ここで動くとなると少し息をするのも苦しくなる程だ。

 現在は市によって管理されているらしいが、そこの職員も大変だなと痛感する。挙げ句、捨て子を見つけることになるとはなんとも不運と言うべきか。

 ここに来て30分が経過したくらいの時、山沿いの道に石碑を見つけた。


蛭籠子 慰霊碑


 と、そう書かれてあるのがわかった。それだけを写真に納め、私はその集落を後にしたのだった。


 ホテルへと戻ってからの出来事だ。「蛭籠子」の文字をスマホに打ち込み検索してみる。ここに来るきっかけをくれた記事でもこの文字は見受けられなかった。さて、検索した結果はこれと全く同じ名前のものは見つけられなかった。

 カメラの電源を入れて石碑の写真をもう一度確認しようとする。が、おかしなことに確かに撮ったその写真はどこにも無いのだ。撮り忘れか?いや、そんなことはない。記憶違いのはずはない。

 そうは言っても無いのが事実だ。首をかしげつつ、半ば強引に「やはり記憶違いだったのだ。」と決めつけ、カメラを閉じる。

 なんだかんだあったが、最後には嬉しいトラブルも起きた。これはそれなりに面白いものが書けそうだ。そうして、次の日。私はその土地を後にしたのだった。


 あれから数日が経つ。面白おかしく脚色するのもなかなか難しい。発情期の猫のうるさい鳴き声を聴きながらパソコンと向かい合う。数日もこんな生活をしていれば自然と肩も重くなり余計に作業が滞る。仕方なくベッドに倒れこんでも、奴らの鳴き声がうるさくて寝れやしない。時計を見ると12時を回ったあたりであった。ともかく目をつむり、疲れきった頭をシャットダウンしようとする。BGMとしては最悪な環境音は耳にへばりつき離れないが、それでも次第に思考がままならなくなるのは不思議だ。

 ふと危機感に駆られ意識を完全に取り戻したのはそれから数分経ってのことである。一瞬で現実に引き戻され、後から冷や汗が湧いて出てくる。その行動は本能的なもので、原因があの鳴き声であると言うことに気が付くまで時間を要した。起き上がることもなく、目を見開き集中する。いつもとなにか違うその鳴き声。

 赤ん坊の泣き声である。

 導きだした答えはそれだ。であれば、なぜ窓1枚挟んだすぐ向こうから聞こえる?ここは2階である。ベランダは仕切られて幼児が勝手にこちら側に来ることはないだろう。ましてやこの時間。可能性は限りなくゼロに等しい。

 思案しながらその泣き声に集中する。するとより鮮明に聞こえ出す。どこかに居る、と言うよりもイヤホンをつけられ赤ん坊の泣き声を聞かされている感覚だ。

 不思議と恐ろしさは無かった。だがこんな状況で眠れるわけがない。妙に冷静だった私だが、泣き声がふと止んだ瞬間我に返る。明らかにこの状況はおかしい。そこでようやく、自分の身体が今の今まで緊張で動かなかったことに気が付いた。先程までの騒々しさが嘘のように静かである。思考が落ち着くと共に体温が急激に上昇する。

 蒸し暑さも合間って、じとっとした息苦しい空気が漂っていた。状態を起こす。水の一杯でもないと死にそうだった。ふとベッドからベランダの方を向いてみる。何も無い。一安心し、立ち上がろうとした。靴下越しに慣れない感触が伝わる。短い紐状の何かを踏んだ。それだけわかった。次の瞬間耳元で赤ん坊の笑い声がしたのは覚えている。それ以降は、どうにも気を失ってしまったらしい。


 夢を見た。見知らぬ浴槽に幼児がうつ伏せで浮かんでいた。取り上げようとした。身体は縛られたみたいに動かない。次第にどこからともなく湧いてきた、ヒルどもが子供に集る。あの緑色の毒々しい模様がピクリともしないそれに集る。

 足に、何かにしがみ捕まれる感覚を覚えた。見たくなかった。だと言うのに視界は勝手に下を見せに来る。ゆっくりと、勝手にその方を向いてしまう。

 それと目があった。私の足にしがみつくその幼児はまっすぐこちらを見ている。一切の無表情。所々その皮膚は黒くふやけて、蛭に集られていた。「うん」と言う喃語を最後に、視界は真っ黒に染まった。


 2024年7月4日。男性の遺体がとあるアパートの一室にて発見された。遺体の状態から死後1週間程が経過しており、遺体はこの部屋に住む「佐野 敏樹」として警察は捜査を続けている。特筆すべき点と言えば、首を絞められたことによる窒息とされているが、首に残ったアザはどう見ても幼児の手の形にしか見えないことだ。



 凄惨な思い出の始まりは一発の拳からであった。それ以前の記憶は曖昧で、なぜ自分が怒られているのか見当もつかない。

 その怒号はひどく耳にこびりつく。罵詈雑言を浴びせられる。蛭籠子にしてしまえばよかったと喚かれる。それが私の幼少期の記憶である。最も身近な存在から向けられる嫌悪の目。曰く、私は間違って出来てしまった子供らしい。両親の顔を私は知らない。母は、私を生んだときに死んだ。父は妊娠が発覚したと同時に消息を絶った。気が付けば私は「ひらこ」と呼ばれていた。いつしかそれが名前となった。元々捨てられる予定だったからだ。生まれてきたことが間違いだと、よく言われてきた。

 育ててくれたのは叔母である。ことあるごとに叱られ、なにもしてなくても叱られ、その都度家の裏手の山に逃げた。蛭の巣窟となっているその場所でうずくまる。そんなことをしているのだから、私には蛭が集る。そうして家に帰るごとに火傷の跡が増えていくのだ。

 私が小学校に上がる年。私たちは引っ越しを余儀なくされた。理由はこの土地にあった。あまりにも地盤が緩くなっているため安全性が問題視されたのだ。


 新天地での生活はそう上手くいかなかった。私はこれまで同じくらいの年の子供と出会ったことなど無く、ましてやコミュニケーションも最低限のものしか取らなかった。小中9年間、いつまで経っても私は孤独だった。いいや、自ら孤独を選んでいた。私はいらない子だったから。


 転機が訪れたのは、15の年。ただ1人、私の今までの人生でただ1人の友人が出来た。何とかありつけたバイト先で出会った少年であった。周りとはどこか違う、そんな雰囲気を纏っていた。最初に話し始めたのは、どちらからだったか今となっては覚えていない。が、すんなりと仲良くなっていったのは確かだ。私の人生の中で最も楽しかった時間と言っていいだろう。


 関係は長くいた、私が18になった年の暮れのこと。その少年は私に告白をした。最初はただの友達ではあったのだが、長く付き合ううちに好意を抱いていたのだと。勿論嬉しかった。だけど、唐突な告白であり、何より怖かった。私の何もかもを知られてしまうことが。火傷の跡、名前の意味。それらを知られたときまた孤独になるのではないかと。それが怖かった。だから、私はその告白を断った。

 お互いの幸せを思ったその回答は、少年の怒りを買った。

 特別だと思っていたその少年さえも、所詮はただの人間であり男であった。その回答は、少年の欲望の暴走を招いてしまった。望まぬ消失を経験し、私は18にして男の子を身籠った。


 19になった年、私は無事にその子を出産した。翔真と名付け必死に育てた。大変ではあった。それでも、その子の顔を見るたびに頑張ろうと思えた。

 だが、幸せなど長くは続かない。翌年の6月、浴槽の事故により私は翔真を亡くした。そう、それがつい先日の出来事である。何もかも、嫌になった。恨んだ。ぷかぷかと浮かぶ翔真の背中が、染み付いてはなれなかった。そうして足元の椅子を蹴ったのだった。


 2004年6月27日、加藤ひらこ、加藤 翔真くんの遺体が発見された。翔真くんの首にはアザがあり、ひらこが殺害した後心中したとされている。

 翔真くんが見つかった浴槽からは、何故か生きたヒルが数匹見つかったと聞く。



 口止めされてたが、知りたいなら話してやろう。どうせ病気で長くはねぇんだ。あれは…蛭籠子ひらこは俺達の集落における最大の汚点だ。あれは無作為に食い荒らす神だ。

 ことの発端は大飢饉まで遡る。その時に行われたのが口減らしの捨て子であった。するとどうだろう。捨てた子供に蛭が大量に群がる。その様が籠の目をなす程にまでなり蛭籠子と呼ばれるようになった。

 1番の問題はこいつが習慣化してしまったことにある。

 もともと姿形があまりにも異形であったそれらは神とされていた。それで供養をしていた。だが次第にそれは廃れていき、間違って出来た子供であれば捨てて当然という風潮がひろがった。

 次第に忌避され、慰霊碑さえ今となっては紛失されたらしい。縛り付けるものがなくなったんだ。

 あれが欲するのは未来だ。自分が正しく生きていた未来。それをずっと探して回っている。無論だが、そんなものを欲したところであれの存在は変わらない。代わりに誰かの未来を奪う。たちの悪い餓鬼こそ、あれの正体だ。縁さえ結んじまえばどこにでも現れ、ヒルみたく吸い付いて離さねぇ。

 我々はとんでもねぇもんを産み出しちまったのさ。

 話しちまったからには俺ん所にももうすぐ来るだろうな。縁さえあれば、どこにでもわいて出てくるからな。

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