“The life is beautiful” to you②
家のあるマンションに辿り点いたのは、ホテルを出てから三十分も経っていないぐらいの時間だった。一度大きく息を吸い込んで扉をゆっくりと開いていく。家の中はしんと静まりかえっており、そこには誰も居ないことが窺えた。そのことに安堵し、息を勢いよく吐き出す。おおかた母親は浮気相手と、父親はそこらの居酒屋で同僚か、それとも違う誰かと酒でも飲んだくれているのだろう。どちらもあたしには関係ないことだけれども。
愛なんて貰った記憶がない。
一応あてがわれている部屋に荷物と防寒具を投げ込み、シャワーを浴びるためにバスルームへと向かう。そこに行く途中はひんやりと冷たく、この温度がこの家にはお似合いだと頭の片隅で考えた。
今まで様々なシャワーを使ってきたが、それでも使い慣れた家のシャワーが一番落ち着く。この家で唯一と言っても良いような暖かさが、凝り固まったあたしの心を解してくれるような気がした。
母親は浮気相手ができてから、ヒステリックになってあたしを殴らなくなった。父も家にさえいなければ暴行してくることはない。だから、一人でいるほうが楽だった。高校まで進学させてくれていることには感謝しているが、ただ、それだけ。
着慣れたジャージに着替え、バスルームを出て、念入りに髪を乾かす。真っ直ぐで、綺麗な髪の毛だねと褒めてくれた人を、思い出す。それは今まで一緒に寝た人では決してなく。願っても絶対に手に入らない人。抱きしめることの、できない人。
その人のことが好きかと訊かれれば、きっと好きだと言えるだろう。それでも、本人の前では絶対に言わないけども。いや、言えないのほうが正しいだろうかもしれない。
スマートフォンを取り出して時刻を確認すると、ディスプレイに映し出された時計の針には五時と少しを指し示していた。
学校、さぼろうかな。
ぼんやりとそんなことを考えて、リビングに備え付けられた大きな窓を開き、バルコニーに出る。徹夜なんて何度も繰り返してきたから、一晩ぐらい寝なくても全く問題ないのだけれど。
この家はマンションでもかなり高い階層にあるため、ついさっきまでいた池袋の街が遠くに見えた。冬の冷たい風があたしの頬を撫で、そのまま消えていく。それがシャワーで火照った軀には丁度良い冷たさだと思った。
着ているジャージのポケットを漁って煙草の箱を探すが、鞄の中に入れっぱなしにしていたことを思い出して重い溜息を吐き出す。別に吸わなくても苛立ちを感じることもないし、焦燥感にかられることもない。ただ、男と寝た日は、寝ているときに考えていたことを煙と一緒に吐き出したくなるだけ。男と寝て削られた心の隙間を、灰で埋めるだけ。
あきらめて一度部屋に戻り、煙草を回収する。再びリビングに出ようとしたとき、何も置かれていないテーブルに目を落とす。最後に家族みんなで食事をしたのはいつだったかと思い返すが、結局思い出せずに口をへの字に曲げてリビングを後にする。
もしかしたら、思い出せないのではなくて、そんな経験があたしにはないのかもしれない。みんなが必ずと言って良いほどあるはずのそれがないことを、人はかわいそうだと思うのだろうか。分からないけれど。もし、そうだとしたら余計のお世話だ。何も知らないくせに。
苛立ちを抑えるように煙草を口に咥えると、小さく息を吸う。乾いた葉の匂いを舌先で転がし、飽きたら火を点ける。吸い込んだ苦い煙が舌を撫で、滑り落ちるように肺を満たして行く。胸の奥に溜まった鬱憤を煙が一緒にかすめ取っていき、そのまま外の闇の中に吐き出されて消えていく。
そのまましばらくの間ぼんやりと煙草を吸っていると、ポケットに入れたままになっていたスマートフォンがぶるりと震えた。震え方から察するにどうやらチャットではなくメールらしい。
時間を確認して不思議に思い、かじかんだ手でメールアプリを開くと、そこにはある一人の友人の名前があった。
〈綾香ちゃん、今日学校どうするの?〉
絵文字も何も使われていない簡素なメール。このスマートフォンが普及したご時世だというのに、かたくなにガラケーを使っている変わり者。それが、あたしの友人であり、この世界で唯一の大切な人だった。
〈考え中〉
それだけを文面に書き込み、送信ボタンを押す。手紙の形をしたデータが何回か空を舞ったのち、送信完了の文字が表示される。時刻は五時半。起きるには早すぎるし、もしかしたら寝ていないのかもしれない。
さすがに寒くなってきたから中に入ろうとしたタイミングで、またスマートフォンが震える。家の中に入り、電気ストーブの電源を入れながら内容を確認しようとすると、画面が着信の表示に切り替わる。なんとなく一、二秒ほど待って、通話ボタンに触れる。
「もしもし?」
『あっもしもし綾香ちゃん?』
おっとりとした声が耳に届く。優しく包み込んでくれるような、安心する声音。彼女の声は煙草の煙よりも、はるかに心の隙間を埋めてくれるような気がした。
「うん。で、どうしたの? こんな夜中に」
『えっ? 綾香ちゃんが起こしてって言ったよね?』
「え?」
彼女の声が少しだけ困惑したものに変わる。だが、それはこちらとしても同じで、何を言いたいのかが理解できなかった。
『明日テストだから、勉強するために五時半に起こしてって言ってたじゃん……』
「あっ」
昨日、学校の帰り道に彼女と交わした会話を思い出す。真面目な彼女はテスト前は早く起きて勉強することを知っていたあたしは、ついでに自分も起こして欲しいとあらかじめ頼んでいたのだ。
「ごめん完全に忘れてた……」
『もしかして、テスト期間ってことも忘れてたとかってないよね……?』
「うーん……うん……」
正直頭から完全に抜け落ちていた。テストなんて簡単だから勉強しなくていいと考え続けていたことが仇になっていた。
『まあいいけど……。で、起きてたってことは勉強してたの?』
彼女の溜息まじりの問いに、しどろもどろになってしまう。それから黙っていると、スピーカーの向こうから再び溜息を吐く音が聞こえてきた。
『もしかして、またあれ?』
「まあ……うん……」
あたしのしていることを知っている唯一の人。知ってもなお、友達だと言ってくれる不思議な人。
『もー。そろそろいい加減にやめなよー? 来年私達受験生だよ? 大学も一緒のとこ行こうって約束したじゃん』
その言葉に思わず苦笑いを浮かべてしまう。彼女と同じ高校を受けると言ったとき、言われた言葉。とても、優しくて、苦い約束。
「まあ、来年は受験に集中するから」
それから二言ほど言葉を交わし、通話を終える。
生きてきた中で、一番愛されたいと思った人。
世界で唯一愛したいと思った人。
でもそれは絶対に叶わない人。
それが、唯一の本当の友人と呼べる、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます