“The life is beautiful” to you⑥

 久々に心地よく眠ることができた気がする。


 朝、目が覚めて誰もいない家を見渡してそう思った。壁に掛けられた時計を確認すると、時刻は六時を少し過ぎたぐらいだった。シャワーを浴びて、髪を整えて、化粧をして、朝食を食べて。学校には十分に間に合う時間だと判断したあたしは、あくびを一つして浴室へと向かう。汗で不自然に固まった真っ黒の髪は、自分のことなのに何だか間抜けに見えてくすりと笑ってしまいたくなった。


 髪を染めたら、ママが怒るから。あたしがそう言って笑うと、周りの子たちは、綾香の髪は綺麗だからねーとまるで見当違いな褒め方をした。


 本当はね。ママは怒るんじゃなくて、叫びながら殴るんだよ。あたしのことを、壊れたおもちゃみたいに。そんなこと、誰にも言えるわけがないじゃない。


 いや、もしかしたら。


 もしかしたらと思う。小夜子なら。彼女ならば笑わずに聞いてくれるかも知れない。しかし、そこまで考えて黙って首を横に振る。流石にそこまで甘えることはできない。友達は愚痴を吐き出すための存在ではないのだから。


 そんな暗い考えを洗い流すようにシャワーを浴び、軽く化粧をほどこす。夜の時とは違う、昼の顔を作り上げていく。どこまでも清楚になるように。汚い部分を隠すように。誰にも分からないように。


 冷蔵庫に入っている食材を適当に調理し、学校へと向かう準備をする。時刻はいつも通り。学校指定のセーラー服に着替え、のんびりと家を出る。


 空にはどんよりと黒く、重い雲が広がっていて帰るまでに雨が降りそうだった。だから、傘をひっつかみ家を出る。学校は比較的近い位置にあるため、別に早く出る必要はないのだが、できるだけ家に居たくないあたしは、七時半までには家を出るようにしていた。家には良い思い出なんてないから。


 学校に行くと、校門の前で一人の女子生徒が本を読んで突っ立っていた。


「小夜子?」


 女子生徒の名前を呼ぶと、彼女は嬉しそうに顔をぱっと輝かせてこちらを見た。


「おはよう綾香ちゃん」


「お、おはよう……じゃなくて、何してるの……?」


 あたしが怖ず怖ずと尋ねると、彼女はにへらと幸せそうな笑顔を浮かべた。


「綾香ちゃんといっぱい話したいなーと思って」


「あたしが来なかったらどうするつもりだったの……」


 曖昧な表情を浮かべたあたしとは対照的に、彼女はにこにこと楽しげな表情のまま下駄箱に向かっていく。


「えーでも。綾香ちゃん毎日来てるじゃん。しかも一番に」


「知ってたの?」


「うん。美化委員の仕事で早く登校しなくちゃいけない日にね」


 見かけたの、と小夜子は靴を履き替えながら、独り言のように言った。


「あぁ」


 そういうことかと納得する。仲のよい子はあたしを見かけたらすぐに声を掛けてくれるから分かりやすいが、そうでない子はあまり把握できていなかったりする。


「見かけたときはいつも机に向かってるけど、何してるの?」


「勉強かな? どうせすることないし」


 廊下から見えるグラウンドからは野球部が朝練をしており、元気な声が耳障りなほど鼓膜を揺らした。もう少し校舎とグラウンドの距離が遠かったらいいのに。


「へー。勉強かあ……ねえ、もし良かったら私も一緒にしていいかな?」


「え?」


 突然の申し出に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。


「ダメかな……?」


「いや、ダメってわけじゃないんだけど……でも、いいの?」


 あたしの言葉の意味が上手く伝わっていないようで、小夜子は首を傾げて続きを促した。


「えっと、あたしの仲良い子ってさ……ちょっと元気な子が多いから……」


「あー……」


 小夜子は納得したようで、しゅんと寂しそうに肩を落とした。


「ごめん変なお願いして……」


 彼女の言葉に、咄嗟に違うと叫んでいた。リノリウムの床の上をあたしの声が無機質に反響していく。


「そうじゃなくて、そんな子たちに慣れてなかったらしんどいかなと思ったの……」


 あたしの声にびっくりしたのか、それとも発言内容にびっくりしたのかは分からないけれど、小夜子は目をまん丸に見開いてこちらを見た。


「だから、絶対に小夜子が嫌な訳じゃないの。信じて」


 彼女の目を見て、正しく伝わるようにと願いながら言葉を繋げる。そうすると、頭の理解が追いついたのか、少しだけ彼女の表情に安堵の様子が浮かぶ。


「私も綾香ちゃんの気持ちも知らずにごめんね。確かにあぁいう雰囲気の子たちは苦手だけど、綾香ちゃんの仲良しの子なら、きっと大丈夫だと思うの」


 この子は無理をしているとすぐに分かった。でも、それはあたしを想ってのことだから。


「なら、」


 教室に入ったとき、あたしの口から自然とその言葉が出てきた。


「なら、授業前の時間と小夜子の塾終わり。こっそり会おうよ。もちろん二人だけで」


 その提案に一瞬小夜子はきょとんとした表情を浮かべると、意味が分かったのかぱっと華やぐような笑顔を浮かべた。この子は本当に嬉しくなったとき、こうやって笑うのか。そんなことを考えているあたしの顔にも、自然と笑みが浮かんでいた。


 それから毎日授業が始まる前に二人で落ち合い、そこから夜まではお互いに無干渉を貫いた。クラスには秘密。そんな少しだけ甘い嘘を楽しんでいた。


 小夜子の塾は毎週月水金の三日間。授業前は毎日会うことができたけれど、塾終わりは会えない日が苦しかった。小夜子と話している時間だけは楽な気分でいることができた。ご機嫌取りのために調子を会わせる必要もなければ、馬鹿みたいに内容がない話に合わせる必要もない。嘘のない自分のままでいれるということ。それはとても息がしやすい関係だと思った。


 依存。そう言われてしまえばそれまでだけれど、それでも構わないと思った。


 だって、あたしには彼女しかいないのだから。


 他に頼るものがないのなら、それにすがって何が悪いの?


 あなたたちは、何も知らないくせに。

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