“The life is beautiful” to you⑦

 マンションを後にしてしばらく歩くと、交差点の一角で小夜子が単語帳を捲りながら白い息を吐き出して待っていた。咥えていた煙草を地面に落として、革靴のつま先で消化する。周りの子が履いているからと履きたくもないのに買った革靴はすっかり足に馴染んでしまっていて、今では一番履きやすい靴になってしまっているあたり皮肉なものだと思った。


 火がちゃんと消えているのを確認すると、コンビニ前に設置されている灰皿にそっと放り込んだ。


「おはよー」


 その声に彼女は顔を上げると、朗らかな笑みを浮かべてあたしを見る。出会ったときは同じぐらいだったはずの身長は、気が付けばあたしのほうが頭一つ分大きくなっていた。成長期が羨ましいと小夜子は笑うが、正直彼女ぐらいの身長の方が可愛らしくて羨ましいと思う。一度も口に出したことはないけれど。


「もしかして綾香ちゃん、煙草の種類変えた?」


 突然のことにあたしは間抜けな表情を浮かべてしまう。確かに気分で今まで吸っていた銘柄とは違う物を購入したが、そんなに特徴的な臭いだったのだろうか。


「変えたのは変えたけど……でも、なんで分かったの?」


「うーん、なんとなく……かな?」


 小夜子はそう言って頬を緩ませる。その様子がとても愛しく思えてしまい、あたしも思わず笑ってしまう。


「何それ」


 言い方は尖っていたけれど、顔だけは笑ったままだったから小夜子もにこにことした表情であたしを見ている。この空間は幸福だと、心の中のあたしが満足げに呟いた。


 そんな何気ない会話をしながら、二人連れだって学校へと向かう。お互いの通う学校は同じだけれど、通っている学科は異なる。小夜子は、将来音楽療法士になることが夢で、それを叶えるため音楽科に。あたしは普通科に通っている。音楽科のある学校がこの付近では私立を除いて一校しかなく、都立志望だった小夜子は必然的にその学校を受けることになった。


 本当はもっと上の高校に行くべきだと言われていたが、小夜子と離れるくらいならと適当な理由をでっち上げ、結局彼女と同じ学校を受験した。合格発表を見に行ったとき、お互いの番号があるのを見て抱き合って喜んだことを今でもはっきりと覚えている。「これでまた一緒だね」そう言って笑った彼女の笑顔も一緒に。


「そう言えば、ちゃんと勉強した?」


 吐いた息が白く染まるのを煙草の煙のようだ、とかそんなつまらないことを考えていると、小夜子が少しだけ意地悪な表情を浮かべて言った。


「少しだけ……」


 事実、あたしは少しだけだがちゃんと勉強をした。一応授業で習った部分だし、復習も何度か行っていたから赤点を取ることはまずないはずだ。


「なら良かったー」


 小夜子はそう言って安堵の溜息を吐いた。あたしのことをまるで自分のことのように心配してくれる彼女は、本当に綺麗な人だと思う。あたしなんかとは、全然違う。手垢のついていない、真っ白な人。


「まあ、満点は無理でも、それに近い点は取れるかな」


「真面目だもんね、綾香ちゃんって」


 小夜子は小さく微笑んであたしを見た。純粋無垢なその表情に少しだけ。本当に少しだけ、憧れてしまう。


「あっまた新しくなってる」


 歩き出して間もない頃、小夜子があたしの左耳を触りながら言った。その位置は昨日買ったばかりの銀色のピアスが着いていて、歩くたびに小さく揺れた。


「うん、昨日ね。渋谷に行ったついでに買ったんだ」


「ほー」


 何が小夜子の興味を誘っているのかは分からないが、彼女はしばらくの間ピアスを触ってはよく分からない声を上げていた。


「似合ってるね」


 やがて触ることにも飽きたのか、小夜子はあたしの耳から手を離すと、白い息を吐き出しながらスキップする。鼻で息をすると、軀の奥がしんと冷える感覚があって、あたしは厚手の手袋で軽く鼻先を覆った。


「綾香ちゃんって見た目だけだと、絶対ピアスなんてしなさそうなイメージがあるのになー」


「えっそうかな?」


「そうだよー」


 そう言って彼女はあたしの目を真剣に見つめる。彼女の大きく、澄んだ目の中にあたしの不安そうな顔が映っている。


「ほら、綾香ちゃんってロングで黒髪ってことを含めて見た感じ清楚なイメージだから。それに美人だし。でも、そのギャップが良いのかもしれないけどね」


「そんなつもりはないんだけどなあ……」


 自分の格好を思い出してみる。着崩した制服に、膝丈よりも短いスカート。ネクタイをきっちり締めた記憶なんて全校集会や学校行事以外ではない。だから、自分が清楚なイメージかと言われればそれは違う気がする。


「あたし的には小夜子の方が清楚だと思うけど?」


「んーそんなことないよ? 私は清楚って感じより、地味ってだけだし」


 小夜子は微苦笑を浮かべると、逃げるように前を向いてしまう。その横顔が少しだけ寂しそうで、なんと声をかけていいのか分からなくなる。


 肩までで切りそろえられ、天然で色素の薄い髪。大きく、潤いのある瞳。薄化粧で整えられた顔は、そこらの化粧で誤魔化している子たちよりも遙かに可愛らしいように思える。恥ずかしいからと長めの前髪で目元が隠されていなければ、きっと色々な男が言い寄っていたかもしれない。小柄で、少しだけ丸みのある身体つきは、守ってあげたくなるような気持ちにさせられる。でも、小夜子はこれで良い。あたしだけが、彼女の魅力を知っていればいいから。


「小夜子は化粧さえちゃんとしたらもっと可愛くなるよ」


 本当に、と続けると、彼女は小さく笑った。


「綾香ちゃんにはかなわないよ」


 そんなの、気にしなくていいのに。あたしなんかより、貴女の方が綺麗なのに。嫌味の含まれていない言葉だからこそ、何も言うことができなかった。彼女は本当にそう思っているのだから。あたしが何か言ったところで否定し続けるだろう。


 自分が美しいことを人はうらやむけれど、決してそんなことはない。美しい花に人は憧れ、うっとりとした視線を向ける。けれど、そこに集まるのは人だけではない。虫だってうじゃうじゃと集まってくる。美しさが引き寄せるのは、同じ、美しいものなんかではない。醜い欲望にまみれた、下賤な存在だけ。


 美しさにあるのは幸福ではない。そこにあるのはただの苦痛。それも、酷く気味の悪い感情の、入り交じった。

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