不可逆変換

夕方 楽

全1話

『COFFEE』

 乱れた文字で書かれたメモ書きがリビングの低いテーブルの上に置かれている。

 もちろん、余計なものが付着しないように、ビニール袋に入れられて封がされている。

「これが、殺された被害者が残したダイイング・メッセージというわけです」

 私たちは、立ったままそのメモ書きを見下ろした。

 私たちというのは、重要参考人として犯行現場であるこの邸宅へ呼び出された山梨美奈と、刑事二人、そして私立探偵の私である。

 刑事二人のうち、年長の方はテーブルから離れた壁際に寄りかかって仏頂面をしている。経験豊かな現場の刑事を差し置いて、私立探偵ごときがこうして得意げにしゃべっているのが気に食わないからだ。

「だからなんなの?」

 いかにもくだらない、という口調で美奈が言った。

「彼は毒入りコーヒーを飲んで死んだんだから、当たり前じゃない。今日はこれから大事な用事があるんだから、早く帰してくれない?」

 ミステリ作家の埼玉一夫が、ここ自宅の書斎で誰かが用意した毒入りコーヒーを飲んで殺害された。しばらく息のあった彼は、手元にあったメモに『COFFEE』の文字を書き残した。

「ところが、そうでもないんです。この『COFFEE』の文字をよく見てください」

 若い刑事が興味深そうに、美奈が渋々といった感じで腰を曲げてメモを見る。

 年長の刑事は相変わらずふてくされたように壁に寄りかかったままだ。

「この二番目のオーの文字ですが、よく見るとオーにしては少し細いと思いませんか?」

 若い刑事がなるほど、というようにうなずく。

「実はこれは、アルファベットのオーではなく、数字のゼロだったんです」

 私はテーブルに無造作に放置されていた不動産買い取りのチラシを裏返して、そこにあえてゼロを細目に『C0FFEE』と書いた。

「これ、なんだかわかりますか」

 私は一同を見回してみたが、反応はない。

「コンピュータをかじったことのある人ならピンとくるかもしれませんが、これは16進数なんです。十進数の数値を、0から9までの数字とAからFまでのアルファベットの組み合わせで表す手法です。コンピュータの分野では、十進数の0から255までを一区切りとして、0からFFまでの16進数で表すことがよくあります。それに倣って『C0FFEE』を、C0、FF、EEと分けてみてください。十進数の値はそれぞれ、192、255、238、になります。この9つの数字を全部足してみると……」

 私は、チラシに1+9+2+2+5+5+2+3+8=と書き、その後に大きく37と書いた。

「ミナ、と読めませんか? つまり山梨美奈さん、あなたの名前です」

 その瞬間、美奈の表情が硬くこわばった。目線が落ち着きなく左右に揺れている。ほどなく美奈はがっくりと肩を落とすと、静かに言った。

「そう、やったのは私。こんなことになるなら、あの時メモを片付けてしまえばよかった。コーヒーのせいだってことはどうせすぐわかるんだから、よけいな工作はしない方がいいと思ったのに……」

 年長の刑事が億劫そうに壁から体を起こすと、若い刑事に、

「つれていけ。手錠はしなくていい」

 若い刑事と美奈が部屋を出て行ったあと、年長の刑事が私に言った。

「いつもながら、さすがだな。だが今回はちょっと気になる点がある。確かにCOFFEEの文字から、37を導き出すことは可能かもしれない。ただ、逆に37を192255238に分解してCOFFEEまで持っていくのは、無理があるんじゃないか? しかも瀕死の状態で」

「その通りです。37からCOFFEEに持っていくのは、かなりハードルが高いと思います。しかもCOFFEEが特別に意味のある単語になったのは偶然によるところが大きい。埼玉一夫は本当に単純に、凶器がコーヒーだと伝えようとしただけなのかもしれません。さっき山梨美奈がそこに気付いてしまっていたら、この作戦は失敗したでしょうね」

 刑事は絶句し、続きを促すように私を見る。

「ただ、僕はこうも考えるんです。山梨美奈が、殺害にコーヒーを使おうと決めた瞬間、こうなる運命になることを自ら決定づけたのだと」

 年長の刑事は、納得したようなしないような、何か複雑な表情で窓の外に視線を投げた。

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