人生とは観測に限りがない映画そのものである


映画バカ。校内成績の順位は三桁目前。三者面談においては先生からは進路について詰られるわ、その過程で自分の大切なアイデンティティの部分を汚い舌鋒の的にされるわと、散々な一日を送った神崎少年。そんなお世辞にも華があるとは言えない少年と、少し影の見える少女(自殺未遂)の話。
映画を通して二人の心情や心境が変化していく様の機微が実に心地よい作品である。
個人的な話だけども、一話最後の「死ぬ前に!えっと、そのーー映画観ない?」というセリフと、一話タイトルの『死ぬほどお暇なら』のこのふたつの小さな相違が字幕版と吹き替え版の関係に見えて少しニヤッとした


本作の見所は実在する映画の初見を少年少女ふたりが語り合う所だろう。時に俗人ぽく、たまに鋭い角度からの気づき、そうした二人の感性の違いが丁寧に描かれている。生々しく人物の背景の影が書かれるや、次には映画を見終えたあとの現の抜けた感動がある。その差がとてもいい。また映画の内容ばかりではなく、二人の関係性が徐々に近くなっていく点、その表し方も好印象である。例を挙げると雨に唱えばを鑑賞した後のシーン、雰囲気などは最高だった。映画を見た直後の高揚が彼らにも息づいていると理解される。自然的な表現だなと関心をした。
また母上の存在もアクセントになっている。黒江女子の家庭内不和、それに対して温かみのある彼女の存在が刺激になったのではないだろうか。
そして同時に神崎少年においても、自分のアイデンティティが人を救うきっかけとなったことについて傷心の慰めにもなっている。一度は面罵された個々の大事なものが、違う形で役に立つというのはカタルシスも計り知れないものである。


これは個人の私見であるが映画においては喜劇と悲劇の色でよく二分されている感触がある。救いのない悲劇、救いのある喜劇。もっと言えば死別と生存。これらは切り離せない特徴だろう。相反するふたつがそれでも業界的に愛されているのはそれぞれに別々の付加価値があるからだと私は思う。
思うに死別は散り様に感動の価値を与え、生存は生き様に安心の価値を与えるからである。もし黒江女子がこのまま死に終えたなら彼女の人生は悲劇でしか無かった。散り際に何の感動も覚えない、酷い出来の作品になったろうが、そこに同じく傷心を経験した神崎少年が勇気を奮って彼女に話しかけた。ここに喜劇の兆しが詰まっている。
黒江女子が自ら死を選びその未遂にまで至った点では彼女なりの心境があったに違いないが、たまたま通りかかった一人の少年の手のひらと、あるいは共にすごした2時間弱の共感が彼女に安心を与えたのは言うまでもないことだろう。双方、後々に自分の価値を見出すことも出来ていて祝福の極みである。


事実は小説よりも奇なりと言う。全くその通りで、一人一人が進んできた轍は如何に辣腕な監督の魅せる技にも演技にも劣らぬ、その人だけの価値が飾られているのだ。その点で現実は創作に対して全く見劣りをしない。なぜならいくら装飾を積んでも作家がその人自身の追憶を完全に為せるわけが無いから。唯一性とはそれのみに多大な価値をもたらすのである。
世の中、加えて人生とは被写体の多い映画のようなものだ。目に映る限りの人間それぞれに語られていない物語がある。そのうえで二人共にするというのはそうした物語を分け合う意味となる。辛酸を舐め甘露を噛んで果たして二人の間にどう言った物語が紡がれていくのか、実に興味の湧く作品である。二人の関係の進展にも期待。

ほろりと甘く心も暖かくなれる作品をお望みな読者諸賢にはオススメしたい。
如何なる背景を背負っていても主演は君だ。栄華はそこにある。

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