三途の川で映画でも

日上口

第一章 今夜だけ

第1話 死ぬほどお暇なら

 鍵っ子で友人作りが下手だった幼少期の俺にとって、映画は人生の寂しさを埋めて寄り添ってくれる巨大な支柱だった。

 冒険譚に心を躍らせ、SFの世界観に圧倒されてヒューマンドラマで人情を知った。


 周りの同級生たちはそこまで映画を観ないと知ったのは中学の頃で、そのときは本当に驚いた。そして「あの面白さを知らないなんてもったいない!」と本気で彼らに同情していた。

 だから当時の俺はとにかくその良さを周囲に広めようと躍起になった。


『そんで『サイコ』にはヒッチコックの表現技法の中でも特徴的な——』

神崎かんざきさぁ。知らない映画の話とかブツブツされても誰も興味ないから。皆気使ってんの! わかんねぇかな。正直迷惑だし、やめてくんね?』


 結果は当然の轟沈。

 

 大して珍しくもない中学時代の苦くてイタい経験だ。むしろ早めに痛い目を見れたのは良かったかもしれないが、そのとき投げつけられた言葉と冷たい目線の数々は数年の時を経ても頭の片隅に刻まれて薄まることはない。

 まぁ今にして思えば、覚えたての映画論やろくに観ていない邦画の批判なんかをドヤ顔で語る俺は典型的な嫌なオタクだった。今、その時の俺が目の前に現れたら一分と待たずぶん殴っていると思う。


 

 そんなことがあっても映画愛は冷めるどころか燃え上がるばかりだった。

 でも俺はそれを機に外ではなるべく映画の話をしないと決めた。特に親しくない同級生には。





「映画です。映画を観てます」


 九月の初め、高校二年の夏休み明けに行われる三者面談。夕に染まる教室の真ん中で放課後の喧騒を背に、俺は罪の自白をするようにそう言った。


 直後、一瞬の沈黙が訪れる。

 

 教室横の桜の木で懸命に体を震わせていたヒグラシも、大会前でどこか浮ついた合奏をしていた吹奏楽部も、さっきまで気合の入った掛け声と共に校庭を駆け回っていた運動部も……そして俺の答えを聞いた肥満体の物理教師も、全員が「何を言っているんだ」と冷笑するような刹那の沈黙。本当に奇跡的な静けさが訪れたのか、自分の耳がイカれたのかも判断付かない。

 心臓がキツく絞めつけられたように全身からドッと嫌な汗が湧きだすのが分かる。

 

——ああ、やっぱり言わなければよかった。


 一拍置いて母さんの「そうなんです~ほんと誰に似たのか」という言葉を皮切りに周囲の音は再開され、担任は困ったように口を開いた。


「お前だけだよ、神崎……高二の夏に一日四時間も潰すのは。しかも休日はもっとだろ? 授業は真面目に受けているみたいだがなぁ……皆もう大学受験に向けて各々で動き始めてるの。分かる? 学校の勉強だけじゃあ時間がなぁ。というかそんなに何本も見たってしょうがないだろ」


「いやでも、俺にとって映画は——」


「将来映画製作に携わりたいって訳でもないんだろ? お前経済学部志望だしな」


「それは、そうなんですけど」


 『経済学部っていうのは親の出身だから書いているだけで実際はまだ大学の事なんて何も考えていないです』なんて言える空気ではない。

 実際、制作側に回りたいかと言われればそれも違うという心情もある。とにかく担任の言葉に反論する理由も気力もなかった。


 そこからは既定路線とでも言うべきか、予め用意されていた大学のパンフだとか参考書を机に並べた担任が正論を武器にこちらを攻撃するだけだった。対するこちらは紙ペラ一枚の理論武装もない。母は変わらぬ調子で、重くは受け止めていないが一応はしっかりと聞いていたみたいだった。だが俺の方は半ば放心状態だ。

 ただそんな中でも映画を「そんなこと」呼ばわりされたことへの小さな苛立ちは最後まで燻っていた。我ながら救いがない。


 この人は一度も経験がないのだろうか? アンドリューの華麗なる脱走劇に思わず声が漏れたことも、死体探しの旅に出る四人の少年に在りし日の夏の思い出を重ねたことも——。


「——では以上で終わりになりますが何か質問などは」


「俺は大丈夫です」


「私も特に。ほんとにお世話様でした~」


「こちらこそご足労頂いてありがとうございました。徐々にで良いから、映画の時間は減らしてけよ。映画なんて大学入ってからいくらでも見れば良いんだから」


「……はい」


 最後まで念入りに釘を刺されて面談は終わった。先生は終始正しい事を言っていたと思う。俺の将来を俺以上に真面目に考えているのは綿密な準備からもよくわかった。

 ただ、俺には当事者意識というものが未だに芽生える兆しもない。


 いい大学を出て大企業に勤め、朝から晩まであくせく働き、やがては家庭を持って子を育てる……そんな一般的な理想像は確かに尊敬こそすれ、自分がそのようにできるとは到底思えなかった。

 これは勉強をしたくないが為の言い訳だろうか。それすら自分でもよく分からなかった。


 そんなことを考えながら帰り支度をしていると、資料を片付けていた担任が思い出したように言う。


「ああ、そうだ。次の人呼んでもらえるか。来てなかったら教えてくれ。えーっと次は……黒江か」


「あー、はい。わかりました」


 黒江くろえナナ。自分は特に接点もないが、何かと話題になることが多い女子だ。それも大抵いい話ではない。それ故にクラスでも孤立した存在。心なしか担任も「また問題児か」という顔をしている。

 ただ、こんな一瞬の交流では関係のない話だ。


「私はちょっとお花畑へ……実は途中から結構ピンチで我慢を——」


「はいはい、分かったから早く行きなって」


 母親の膀胱事情なんて聴きたい奴は居ない。他人に聴かせたい奴はもっと居ない。背後で担任の苦笑いが聞こえる。

 多分、夕日のせいだと誤魔化せないほどに耳まで紅潮している。


 小走りで廊下へ出る母親に数秒遅れて「失礼しました」と足早に教室を出る。とにかく一刻でも早くこの場から離れたかった。


 トイレへ駆け込む母の背中を見送ってから振り返ると、一人の女子生徒が廊下に置かれた椅子に座って文庫本を読んでいた。

 授業中いつも視界に入る、長くて艶のある黒髪。間違いなく黒江ナナだ。

 彼女はいつも通り、どことなく人を寄せ付けない雰囲気を纏っている。一瞬声をかけることに気後れしそうになるが何とか喉から言葉を押し出した。


「黒江さん。次、どうぞ」


 声をかけられて初めてこちらの存在に気が付いたのか、彼女は一瞬こちらを見て、またすぐに目を落として本をゆっくりと閉じながらギリギリまでその文字列をなぞっていた。その仕草だけで彼女の本や物語への愛着が伝わってくるようだ。俺はその姿に一方的な親近感を覚えた。

 それにしても俺の前に母さんが飛び出していったのに、それにも気づかないとは凄まじい集中力だ。


 返事をするでもなく、当然雑談を始めることもなく、無言で本を鞄にしまう彼女を何の気なしに見ていると一つの違和感に気が付いた。


「親御さんまだ来てないなら、先生に言って待ってもらう?」


 黒江の傍に親らしき大人は居なかった。


 彼女の鋭い目と視線がぶつかる。吸い込まれそうな瞳——そんな使い古された言葉が脳裏を掠めた。

 余計なお世話だっただろうかと不安になったが、彼女はこちらの言葉を咀嚼するように数秒考えこんでから、ふっと口元を緩ませた。


「大丈夫。来ないから、うちの親——ありがと、神崎くん」


 笑ってはいるがどこか達観した表情、それにしては寂しそうな彼女の背中。彼女の髪が教室に吸い込まれるのを見送った。最後まで目は離せず、心臓が喧しくて仕方がなかった。



 母の車で家に帰り、ご飯を食べて風呂に入って映画を観てベッドに潜っても、彼女の一挙手一投足がやけに頭に残っている。


「名前、覚えてんだ」


 もう九月、クラスメイトの顔と名前なんて覚えていない方が珍しい。それなのに俺はたったそれだけのことで温かく浮ついた気持ちが抑えられなかった。



  * 



 三者面談から数日経った日曜日。

 制作発表の段階から期待していた映画を観に都内まで出かけた。

 タイトルは『ファルコン・レイク』。

 ドが付くマイナー映画なため小さな劇場にわずか数人の観客しか居ない。画面に没入するには最高のコンディションだ。

 宣伝が終わり、ついに本編が始まる。



————— ————— —————


『湖の幽霊が怖い?』


『何処にも馴染めない。一生独りぼっち……それが一番の恐怖』


『……独りじゃない』


————— ————— —————



 ——素晴らしい映画だった。今月最高、いや今年最高を更新した。

 この作品を劇場で見ることができて本当に良かったと、最寄り駅に着いた今でも胸の内が満たされている。帰りの電車なんて一瞬だった。


 設定だけを切り出せばよくある“ひと夏の想い出”もの。でも王道でありながらも細部を徹底して描くことで新鮮な感動を与えてくれた。ホラー要素も中々に強かったがそれもまたいいアクセントになっていた。

 地元で居場所のない少女とそんな少女に魅かれる思春期の少年。二人の境遇や悩みは少なからず胸に突き刺さるものがあった。 

 間違いなく、我が生涯に深く刻まれる一作だった。


 唯一の問題は日本では上映館がごくわずかで時間も夜しかないということだ。


「やっぱ迎え頼めば良かったかな。失敗した」


 東京のベッドタウンである最寄り駅は駅周辺こそ夜でも多少賑わっているが、三分も歩けば明かりは街灯と民家から漏れ出る光くらいしかなく、人通りもまばらだ。治安が悪い訳ではないが一人歩きは推奨されない。今更迎えに来てくれなんて言える訳もなく、映画の内容を思い返しながら閑静な町を早足に行く。


 家までの中間地点である斜張橋に差し掛かろうとしたとき、橋の中腹でオレンジの街灯にライトアップされた一人の女性の姿が目に入った。

 違和感のあるその光景を前に、背中を一筋の冷たい汗が流れる。

 誰も居ない橋の上で何故か佇む女性、どうしてもさっき観た映画の『湖の幽霊』を思い出してしまう。いやそんなまさか。


 ともかくさっさと通り過ぎてしまおう。そう決心したとき、ちょうど風で女性の髪がなびき、その顔がハッキリと見えた。


「あれ——黒江さん?」


 完全に予想外の人物だった。幽霊ではなかった安心と、彼女はこんなところで一体何を? という疑問が同時に浮かぶ。

 

 彼女は、ジッと川の方を向いて動かない。その瞳は虚ろで、川の底のさらに向こう側の、他の誰にも見えていない何かを見つめているようだった。

 当然、近づくこちらにも気が付いていない。彼女の顔に生気は無く、まるで蝋人形のようだ。

 

「あっ」


 なぜ今の今まで気が付かなかったのか、最初に感じた違和感の正体に。それを理解した途端、サッと全身の血の気が一気に引いていくのがわかる。


 彼女はのわずかな足場に立っていたのだ。


 その状況の意味、彼女がこれからしようとしていること……俺の頭ではそんなもの一つしか浮かばなかった。



 そのとき、少し遠くで消防車か何かのサイレンの音が鳴りだした。

 

 その音に急かされるように歩調が速くなり、やがて駆け出していた。心臓、サイレン、荒くなった呼吸の音で聴覚はぐちゃぐちゃに埋め尽くされた。思考はろくに働かない。なんでこんなに必死になっているのかもよくわからない。

 

『ありがと、神崎くん』


 ただどうしようもなく、あの時の彼女の笑顔が脳裏に浮かんでしまうのだ。



 黒江もまた、不安を煽るサイレンの音に後押しされたようにフッと天を仰いだかと思うと、欄干を掴んでいた片手をパッと離した。


——間に合え!


「え」


 頭で考えるよりも先に動いていた自分の手は彼女の右腕を掴み、引き寄せる。サイレンの音はもう聞こえない。

 驚く彼女に向かって咄嗟に浮かんだ言葉を口走った。



「死ぬ前に! えっと、その——映画観ない?」



「……いいよ」

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