第2話 ものすごくうるさい
それからおよそ五分後、無事に帰宅する。終始無言の黒江ナナを連れて。
俺の部屋を前にして、混乱を極めていた俺の脳はようやくこの奇天烈な状況を処理し始めていた。
——どうしてこうなった。
もちろん彼女の自殺を止めたことは後悔していない。問題はその後、つまり今この時この状況だ。
「……」
黒江は依然として無言で俯いている。
彼女と一緒に歩く帰路は今までの人生で最も体感時間が長かった。気を抜いた隙に道路へ飛び込んでくんじゃないかと車が通る度に気が気でなかった。
とても映画を観る空気ではないが、とにかくここまで来てしまったのだ。日和っていてもしかたがない。
本当は少し部屋を片付けたいが、今の彼女から目を離さないほうがいいだろう。今は落ち着いているように見えるが、彼女の内にはまだ死への情念が
「えっと、どうぞ。適当に座って」
ドアボーイのように扉を開放し、黒江を招き入れる。彼女は特に抵抗もなくその敷居を跨いでいった。
緊張は最高潮に達し、意図せず喉をごくりと動いた。
黒江が居るだけで見慣れているはずの部屋が急によそよそしくなったように感じる。女子を家に招いたことなど無いし、まさか初めての来訪者が黒江になるなんて、数日前の自分が聞いたら意味不明な冗談と思うだろう。それだけ彼女の存在は自分にとって遠いはずだったのだ。きっかけがあんな事でなければ喜べたのだが。
彼女はしばらく興味深そうに部屋を見回してから、ある一点を注視しながらつぶやくように言った。
「凄いね、本棚。というかDVD棚? レンタル屋さんみたい。見てもいい?」
黒江が指差すのは小遣いでコツコツと収集したDVD・ブルーレイたちを収納した棚だ。六畳未満の部屋にしては大きなそれはどうしても目に付くだろう。
何よりも彼女が自発的に喋ってくれたことで幾分か緊張がマシになった。それに、他意はないのだろうが、彼女から言葉を引き出したのが自慢のコレクション達という事実が俺の自尊心を高めた。
「もちろん!」
「……急に大声、びっくりする」
「ご、ごめん」
高めすぎて声量の調整に失敗してしまった。ただでさえ険しかった黒江の顔がさらに不機嫌そうに歪む。だが、不思議とさっきよりも彼女との間にある壁のようなものが薄くなっている感じがした。
彼女は棚を端から端まで空で指をなぞりながら目線をスライドさせていく。本人は意図していないだろうが、まるで自分のセンスや人間性を査定されているようで変に緊張してしまう。
少しでも気を紛らわせるために窓を開けに行く。ぬるい風が顔の輪郭をなぞるように過ぎていった。
「えっと、黒江さんは普段映画とか観たりは?」
沈黙が怖くて恐る恐る質問を投げてみる。自分でも笑ってしまうほど声が震えた。
「全然ない。映画館も小さい頃何回か連れて行ってもらって、それきり」
彼女は目線は棚に向けたままでぶっきらぼうに答える
返事がないことも覚悟していただけに内容に関わらず安堵の息が漏れる。だが、その油断がいけなかった。
「そっか、ご両親は結構観る人だったのかな」
「……さぁ、父親は会ったことないし」
やってしまった……!
ちょっと思慮を巡らせば避けた方が無難な言葉だったことは分かったはずなのに、完全に選択を間違えた。
返す言葉を見つけることもできず、当然ながら気まずい沈黙が流れる。突然標高が何百メートルも上がったと錯覚するような息苦しさが、罰だと言わんばかりに襲い掛かる。
「み、観たいのとか気になるのあったら手に取っていいから」
なんとか話題を転換しようと試みるが、それも苦しい。彼女は「ん」と聞いているんだかも分からない返事をするばかりで結局状況は変わらなかった。
駄目だ。耐えられない。
「俺適当に飲み物取ってくるから、ゆっくり見てて。お茶でいい?」
「ん……ありがとう」
部屋を出て、一つ大きく息を吐いた。
なんというか、ショックだ。
正直言って、自分はこういう非常事態にもう少しは上手く立ち回れると思っていた。
現実はもっと難解で明確な答えも伏線も無い。手探りで、慎重に自分の出来ることを考えるしかないのだ。
納戸からいくつかのペットボトルを見繕い、部屋の前まで戻る。
そこでやっと彼女から目を離してしまったことに気が付いた。家に着いたことで気が抜けていたのかもしれない。
「あ~もうほんと、しっかりしないとだぞ。俺」
本当に思考が正常にできていないと再認識した。自戒を込めて頬を空いた手でぱちんと叩いた。
「ふぅー……」
今一度大きく深呼吸をする。脳に酸素を沢山与えなければならない。
改めて、こんな自分にもできることは何かと考える。
——映画なら彼女の考えを変えて自殺を思い止まってくれるかもしれない。
そんな考えがパッと浮かんだ。
トーク力や魅力でそれが出来たらそれに越したことは無いが全く自信はない。意図せず俺は自分にできる最大限を最初に口にしていたのだ。
映画にはそれだけの力があるのを俺は身をもって知っている。だが、それを誰しもが受け取れるわけではないことも知っている。
だから俺が選ぶんだ。彼女に「生きていてもいいかも」と思わせる映画を。彼女を現世に留まらせる最高の映画を。
映画を観ると言ってついてきているのだ、彼女も興味があるのかもしれない。
そんな決意と淡い希望を胸にドアノブに手をかけた。
「おかえり」
「ただい——は!?」
ドアを開けると、そこにはベッドの縁に腰掛けて足をぷらぷらと揺らしている下着姿の黒江が居た。
薄水色のシンプルな下着に、スレンダーを超えて心配になるほど細い肢体。陶磁器のように滑らで白い肌。その姿は昔美術館で見た大理石の女神像を想起させた。
「っていや、なんで!?」
まさに目を奪われていたことを自覚して、それに抗うように勢いよく彼女から目を逸らし、真っ先に出た言葉は純粋な疑問だった。どこかに服を脱ぐ文脈があっただろうか、いや、ない。
黒江からの返答もない。
さっき整えたはずの思考はまた彼女の奇行によってぐちゃぐちゃに蹂躙されてしまった。
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