第3話 ありえないほどちかい
「とりあえず服着て、服!」
訳は分からなかったが、とにかく必死に訴えた。しばらく間を置いてから彼女の方から衣擦れ音が聞こえ始めた。
少しすると「着たよ」と声がかかる。ゆっくり振り返ると、黒江はちゃんと服を着て困惑したような顔でベッドの縁に腰掛けていた。ひとまずホッと息をついた。
今更だが黒江が俺のベッドに座っているだけでも十二分に異常事態だな、なんて冷静に考えられているのは一度脳のキャパシティを超えてしまったからだろうか。
さっきの記憶と煩悩を追い払うように頭を振り、努めて冷静を装う。そして俯きがちに片腕をさする彼女に問いかけた。
「なんで、こんなことを?」
「シたくて家誘ったのかなって。でも部屋着いてもそういう素振り無いから、試してみようかなって思ったんだけど……違ったみたいだね」
彼女は何でもない事のようにそんなことを言った。そんな理由で異性に肌を晒す彼女からは大きな諦念を感じてしまう。
俺と彼女の間に大きな認識の祖語があったことが分かり、思わず困惑が声に乗ってしまう。
「えぇ!? 俺そんなこと一言も……」
「あの状況で本気で映画誘われて素直に信じる方が変じゃない? いきなりで思わずOKしちゃったけど」
ズバリ言う彼女の言葉は全くもってその通りで、反論の余地もなかった。
自殺止めて心配するでもなく脈略無く映画誘う時点で普通に変人である。脳が映画に侵食されすぎている。
「あんときはとにかく必死で、多分なにか言わなきゃと思って咄嗟に映画が……いや、なんにせよ俺がパニくってたせいで混乱させちゃったんだよな。本当にごめん」
改めて指摘されると自分のダメさ加減に嫌気がさしてくる。
こちらの謝罪のような言い訳に対して彼女は「私の方も、ごめんね。迷惑かけて」と淡泊に、しかし綺麗に頭を下げて謝罪をした。
大変失礼なことだが、彼女が謝る姿はなんだか不思議な感じがした。これまでの印象は唯我独尊というか、「他人がどう思おうが知ったことではない」という感じの人だと思っていた。だが、どうやらそういう訳でもないのかもしれない。
とにかくハッキリしたことがある。映画よりもまず、俺と黒江の間に必要なものは対話だ。俺は彼女が自殺しようとした事情どころか人間性すらもよく知らないのだから。
「全面的に俺が悪いとして、対案がセッ……体目的とは限らなくないか? 俺がそんな雰囲気出してたとしたら結構ショック、というか申し訳ないんだけど」
話題のチョイスとして合っているだろうか。とにかく不安だ。
どうせ正解は分からないから、とにかく会話を継続させることを優先した。
「完全にそうと決めつけたわけじゃないけど、それが一番理解できる理由だったから」
彼女はまた足をぶらつかせながら答える。
なるほど彼女が俺の言葉を深読みした結果、一番可能性が高いものを考えての奇行(脱衣)だったわけだ。
理解はしたが、彼女の言葉は個人的には賛同しかねるものだった。
「えーと、他にも色々あるんじゃないかな。例えば、そうだな……正義感とか」
恐る恐るそう提起してみると、黒江は足の動きをピタリと止めて俺の言葉を一笑に付してそのまま自虐的な笑みを浮かべる。一際冷たい風が部屋に吹き込んだ。
「正義っていうのは“皆のために”何かすることでしょ。私はその中に入ってたことなんてない。それに、私なんて居なくなっても誰も何も思わないよ。あぁ、喜びそうな人は居るから、むしろ止めない方が世の為だったかもね」
彼女は堰を切ったように怨嗟の念を吐き捨てていった。
正義という言葉が逆鱗に触れてしまったのか、初めて彼女が感情を剝き出しにしている。
この世を丸ごと憎むような言葉、わざとこちらを挑発するような喋り方。だがそれを聞いて苛立ちや怒りなんて湧かない。ただただ悲しい、やるせない。そんな想いが湧いた。
俺が呑気に日々を浪費している間に彼女はいったいどれだけの苦しみと向き合ってきたのだろう。
それは想像することもできないし、安易に分かった気になってもいけないことだ。
そんな彼女にどんな言葉をかければ良いのだろう。分からないが、沈黙は何よりもダメだ。
「正義感って俺が言ったことだけど……正直、俺も体が勝手に動いたっていうか。そんな感じだから自分でもなんで助けたかとか言語化するのは難しいんだけど、多分そういうんじゃなかったと思うんだ」
「……」
「でも助けたことは全く後悔してないよ。俺は、黒江さんが居なくなったら多分“何か”は思っちゃうからさ。——ああ、うん。そうだ。完全に俺のエゴで死んでほしくなかっただけ。正義とか関係ないや」
話しているうちに自己分析をすることができた。それをただ発表するように言葉を繋げていった。だからこれは間違いなく俺の本音だ。
咄嗟に助けたのも、その後放っておく選択をしなかったのも、全部単純に黒江ナナに死んでほしくなかったからでアレコレ難しい理由付けなんて要らなかったのだ。
「たかがクラスメイト、しかも碌に話したこともない相手だよ。それなのにそんな風に思っちゃうの? お人好しなんだね」
彼女は今度こそ真っ直ぐに俺をバカにするように言った。
それがかえって彼女が自分と同じ人間で、ただの一人の高校生の女の子なんだと実感させた。そう思うともっと自然に話せる気がしてくる。思っていることをそのまま誤魔化さずに話せばいい。
「隠しても仕方ないから白状するけど、他の大して仲良くないクラスクラスメイトだったらここまでしてないと思う。俺も交友関係は狭いし、よく知らない人のことはうっすら苦手だし」
「私はそうじゃないって? 私神崎くんになにかしたっけ?」
ツンとした態度ではあるが、わずかに彼女の語気が和らいだ、気がする。
誤魔化さずに、と決めたばかりだ。ええいままよ!
「名前……覚えててくれた」
本人に言いたくなかったが素直に答えた。黒江との数少ないやりとりの中で俺が嬉しかったことを。
恥ずかしくてとてもじゃないが彼女の方は見ることができない。
それを聞いた黒江は、俺の二の句を待つように数秒待って、それから心の底から驚いた声を上げた。
「えっ、それだけ?」
頬が紅潮していくのが自分でも分かる。でも本当にそれが一番嬉しかったのだから仕方がない。
彼女は俺のその様子を見てそれが本心からの言葉だと理解したのだろう。
「なにそれ、意味わかんない」
そう言って彼女は呆れかえったように、そして心底愉快そうに笑った。
笑顔にできたという喜びと羞恥心で頭が沸騰しそうだ。
「はぁ~……神崎くんって思ってたよりずっと変な人だったんだね。死ぬ前に知れてよかった」
黒江は笑いが落ち着くとあっけらかんと言った。横から頭を殴られたような気分だった。
当然と言えば当然だ。少し言い合いをして感情を吐露しようが、笑顔になろうが、多少同級生と打ち解けようが、彼女の人生が好転するわけじゃない。彼女の決意を揺るがすことは出来ない。
だから、俺はもう最後の武器を出すしかなかった。
「なぁ、やっぱり映画観ない? 咄嗟に引き留める口実だったかもしれないけど、死ぬ前に観て欲しい映画は本当にいっぱいあるんだ」
わざとズルい言い方をした。ちょっとした意趣返しだ。
黒江は少しだけ目を見開いて驚いた素振りを見せたが、すぐに柔らかく口元を緩ませた。
「あの時いいよって言っちゃったし、観ようか」
「ほんと!?」
「だから声量……そんなに嬉しいかな」
彼女はそうぼやいた上で目でも不平を訴えてくる。
苦笑しながら申し訳ないと軽く頭を下げた。さっき同じようなやり取りをしたときより幾分か空気は柔らかい。
「特に気になるのが無ければ俺が選びたいんだけど、いいかな」
「うん。全然分かんないから神崎くんが選んで。あんまり長すぎないやつなら何でもいい」
「わかった。じゃあこのクッションの方に座って待ってて貰っていい? そこじゃ画面観にくいから」
黒江は素直に指定したソファクッションの方へ腰を下ろした。一時期流行った“人をダメにする”という触れ込みのものだ。黒江は初使用だったようで不思議そうにその感触を確かめたり身を捩って最適な体勢を探したりしている。売り場の体験コーナーでよく見る光景だ。
大事な局面なはずなのだが、そんな彼女を見ているとなんだか気が抜けそうになってしまう。
だが、そんなことも言っていられない。俺は俺のために、文字通り黒江ナナの人生を変える映画を選ばなければならないのだから。
毎日見ている背表紙達を今一度端から端まで吟味していく。
全てのストーリーを脳内で再生し、現時点で分かっている黒江の状況を加味して最適なものを探していく。知恵熱が出そうになる作業だが、不思議と俺の胸はかつてない高揚と充足感が溢れている。今までのすべてはこの瞬間のためにあったと思ってしまうほどに。
ああ、思考が溢れて止まらない——。
「長すぎないとなると二時間位で終わるのがいいよな。さすがにB級ホラーは除くとして、というかホラーはダメだろ。人死にまくるぞ……SF、も割と死ぬ。というかもっとパッと観て引き込まれるような面白さの——お、『ジョン・ウィック』いや一番駄目だろ。伏線回収が気持ちいいやつとか……『シックス・センス』、もダメだ。死んでる。となると人情物とかか? でもこの辺もわりと……『ミセス・ハリス、パリへ行く』、いい話だけど今じゃないよな。となるとこれと、これか? うーん……黒江さんこの二つならどっちが——あっ」
黒江の意見を聞こうと振り返ると黒江は口を半開きにして驚いたような表情でこちらを見つめていた。
そのときようやく集中するあまり声が漏れていて、自分があの頃と同じようなことをしていることに気が付いた。
またやってしまった……!
釈明しなければと思うが何をどう謝るのかもよく分からずただ硬直してしまう。
脳裏にあの時の冷たい目線に射抜かれる感覚が蘇る。
だが、今目の前にいる彼女は柔らかい微笑みをたたえていた。
「ホントに好きなんだね、映画。なんかいいね、そういうの」
「いや、キモいでしょ。こんな——」
「どうかな。別にいいんじゃない? 好きなものに熱中するのって悪いことじゃないでしょ」
彼女の言葉に「でも」と言いかけて気が付く。なんで、俺は進んで自己否定したがっているんだろう。
黒江があの日の俺を否定しないなら、少なくともこの場では過去なんて気にする必要はないじゃないか。
そう独りで納得して、疑問符を浮かべる彼女に「たしかにそうだね」と答えた。
「黒江さんありが……いや、映画決まったから、観ようか」
俺は一つのDVDパッケージを手に、そう言った。最後の彼女の言葉が決め手になってこれに賭けようと決心がついた。
感謝はまだ早いと思ってやめた。なんだか最後のお別れみたいになってしまうのが怖かった。
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