第4話 人生の柱


「ん、ちょっと楽しみになってきた」


 彼女はこちらに向けていた身体を正面に戻して、改めてソファクッションに腰を沈めた。今度はすぐに一番楽な体勢を見つけたようだ。正面の真っ黒なモニターに映る自分の姿を真っ直ぐに見つめている。

 その間に割り込むようにテレビとレコーダーの電源を入れ、パッケージからディスクを取り出す。これをレコーダーに入れる瞬間はいつだって最高だ。これから現実を離れ、どこにもない世界に没入するための儀式——サブスクでは味わえない現物の良さだ。


「電気消すけど、いい?」


「……えっち」


「えっ!? あ、違う違う! 明るいと雰囲気出ないっていうか、あっコレも誤解生むか!? えーっと、映画に没入するためにいつもそうしてて! その雰囲気の為であって決してソッチの意図があった訳ではないし嫌なら全然明るいままでも——」


「ふふっ、ごめんごめん。冗談。消しちゃっていいよ。その方が良いんでしょ?」


 悪戯っ子のような笑顔の彼女にものの見事に手玉に取られてしまった。自分の単純さと彼女の意外な一面に思わず変な笑いが安堵の息と共にこぼれる。

 この短時間で黒江の色々な面を知ってしまったな、とつい感慨に浸りそうになってしまう。


 電気を消し、リモコンで『再生』ボタンを押した。すぐに配給会社のロゴマークが画面いっぱいに映し出される。

 さて普段の特等席は彼女に譲ってしまっているから、腰には悪いが学習椅子にでも座ろうかと彼女の前を通ろうとすると、服の裾がか弱い力で引っ張られた。


「ここ、座って」


 彼女は自分のすぐ横の床を軽く叩きながら言った。


「えっ」


「お願い」


「あ、はい」


 彼女にとってそれがどういった意味のある言動かはわからない。だが断る理由もない。


 ベッドからクッションを一つ取って彼女の指定した場所に座る。どう座ったものかと悩んだ末に胡坐と体育座りの中間のような体勢になった。

 彼女の息遣いがすぐ横に聞こえる。石鹸のような甘い香りが微かに鼻腔をくすぐり、わずかながら左肩に熱を感じる。心臓が早鐘を打っているのが自分でもわかる。

 チラリと目線を向けると、画面からの青白い光に照らされた彼女の顔は青写真の中に居るようで、さらに美しく、そしてどこか儚く見えた。

 どうか彼女が明日も明後日もこの世に居ますようにと、心の底から願った。


 そうこうしている間に物語が始まる。

 タイトルは『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』。



 ——— ——— ———


『色んな人と出会っては別れる』


『パパは言ってた。“怖さを乗り越えて進め”と』


 ——— ——— ———



 テロで最愛の父親を亡くした少年オスカーの独白からこの作品は始まる。

 彼は父が最期に残した一つの鍵の正体と、その先にある父が残していったかもしれないナニカを求めて“調査探索”を進めて行く中で『死』や『悲しみ』と向き合う。

 

 これは、絶望の淵からの再起を描いた物語だ。



 ——— ——— ———


『ママは何も知らないくせに!!』


『知ろうとしてもあなたが突き放すでしょう!』


『——死んだのが、ママならよかった』


『ママも、そう思う』


 ——— ——— ———



 “調査探索”は難航、母親との関係も悪くなるばかり。苦難は連続して訪れて人の心を容易く圧し折る。


「……ッ!」


 隣でクッションを強く握ってビーズが擦れる音がする。

 見ると黒江は酷く苦し気な顔をしていた。膝を抱えて唇をギュッと強く結び、睨みつけるように画面を観ている。

 彼女も母親と大きなトラブルがあったのだろうか。もしかしたら自殺のきっかけも——そんな安直な推測が頭に浮かんだが、それ以上勝手な憶測はしないようにした。


「大丈夫だよ」


 もしこの先の展開を知らなければ、俺は映画を止めてしまっていたかもしれない。

 掘り返された彼女の苦しみはそう思ってしまう程大きい。

 それでも、だからこそ最後まで観て欲しい。そうすればきっと、映画が彼女を少なからず変えてくれるはずだから。


 オスカーは調査を辞めなかった。

 諦めず、ありえないほどの努力と奇跡的な縁を辿ってついに鍵の正体を突き止めた——だが、それはオスカーの期待していたようなものではなかった。


 だが最後に、母親が常に自分を陰から支えてくれていたことを知った。彼の動向を探り、彼の行く先々で自分の息子が訪問してくることを知らせ、邪険に扱われないように頼み込んでいたのだ。



 ——— ——— ———


『すぐよくなるから。きっと普通になる』


『そんな必要ない。今のままがいい。——ちゃんと知ってるわ』


『ウソだ。そんなはずない……』


『パパも誇りに思ったはず。探し続けたこと』


 ——— ——— ———


 

「……」

 

 隣で何度も鼻をすする音が聞こえる。

 邪魔にならないよう、静かにティッシュ箱を指さした。彼女は黙ってそれに手を伸ばした。


「——誰かの前でこんなに泣くとか」


 彼女は呟いた。


「“横”だから、セーフ」


 隣で小さく笑い声が零れた。




 ——— ——— ———


『おめでとうオスカー。年齢を超えた驚くべき勇気と知恵で、君は第6回調査探索を制覇した』


『さぁ家におかえり』


 ——— ——— ———




 オスカーとその家族は、大切な人を亡くしてしまった。だが彼の懸命な努力と、それを支える大人たちの優しさによって、彼らは新たな得難いものを手に入れた。そして、探索の果てにオスカーは本来求めていたものまでも得ることが出来た。

 それが最愛の父からのメッセージだ。


 このラストが大好きだ。全ての負の感情が優しい気持ちに代わって胸に満ちるような感覚がする。


 黒江のために観ていたはずなのに、最後には結局引き込まれてしまった。

 彼女はどう感じただろうか。激しい感情移入は大きな感動を生むこともあれば、かえって失望を与えてしまう場合もあるから隣を見るのが怖い。何も変わっていなければ彼女はまたあの橋で——。


「使う?」


 俺が躊躇っていると横からティッシュ箱が差し出された。それで初めて自分が泣いていることに気が付いた。

 この映画で泣いたのは初めてだった。

 ティッシュを一枚引き抜き、黒江に見えないように目元を拭った。今更無駄な抵抗と分かっていても、なんとなく彼女に見えるようにはしたくなかった。

 

「その……どうだった?」


 聞くのは正直怖かったが聞かないわけにもいかなかった。

 黒江は、目で流れていくエンドロールを追いながら、たっぷり間をおいて口を開いた。


「面白かった。正直想像の何倍も。物語で泣いたのなんて何年振りかな……うん。観てよかった」


 彼女は内容を思い返しているのかゆっくりと言葉を区切って感想を述べていった。

 ひとまず良かったと胸を撫で下ろしかけたところで、彼女は意を消したようにまた口を開いた。


「……神崎くんは」


「神崎でいいよ」


「ん。じゃあ神崎は、生きる意味というか、人生の大きな柱みたいなものを否定されたり、無くした経験ある? オスカーがお父さんを亡くしたみたいに」


 彼女から出た言葉はとても繊細で、同時に壮大なものだった。そして恐らく、彼女の自殺の動機と密接にかかわる話題がついにきたのだ。


 人生の柱、それは間違いなく映画だ。それを否定された経験——。

 真っ先に浮かんだのは中学の頃のトラウマ。だがそれは先ほどの彼女の言葉で、少しずつだが飲み込んでいける気がしていた。それにそもそも自業自得だ。


 他に何かあったかと少し考えて先日の三者面談が思い浮かんだ。だが、アレは現在の否定ではあっても人生の否定かと言われれば微妙なところだが。


「ほとんど無い……かな。その予備軍みたいな言葉には最近ぶつかったけど。それこそ映画と現実の兼ね合いというか。でも全部これからの俺次第って感じ」


「……怖くない? 自分を変えるのって」


「怖いっていうか、難しいとは思うけど……あっ、さっきの映画で好きなセリフなんだけど『なにもないより、失望した方がずっといい』ってあったじゃん。あんな感じで頑張りたいなとは思う、かな」


 また喋りすぎてしまったかと彼女の様子を伺うと、彼女は「そっか」と小さく笑った。そしてその自嘲気味な笑顔のまま言葉をつづける。



「色々省くけど、今日……私が大事にしてたものをね、お母さんに全部ぐちゃぐちゃにされちゃった。本当に、人生賭けてようやく形にしたものだったの。それで、生まれて初めて大喧嘩して家を飛び出して……あそこに——それなのにまさか君の部屋で映画観るなんて、ほんと訳分かんないね」



 彼女は困ったような、今にも泣きだしてしまいそうな笑顔を浮かべる。

 俺はどんな顔をすればよいのかも、何と答えたらよいのかもすぐには分からなかった。


「私も“ありえないくらい”頑張れば、ママと上手くいったのかな」


 彼女はこちらが言葉を探している間にそんな呟きだけ残して立ちあがった。



「私、もういくね」


 

 それは家に帰るという意味であっているだろうか。

 嫌な想像が脳裏を駆け巡る。その間に彼女はスッと立ち上がって部屋を出ようとする。ハッとしてとにかく後に続いて廊下へ出た。フローリングは冷たく、家はシンと静まり返っていた。二人分の控え目な足音だけが鼓膜を微かに振動させる。

 黒江が靴を履き終わるのを待って近所を歩く用のラフな靴に足を通そうとすると、不思議そうに首を傾げる彼女と目が合った。


「流石に送る。夜遅くまで拘束しちゃったし」


 思いつきにしては良い言い訳だ。本当はとにかく目を離したくないだけ。

 

「……ありがとう。じゃあ途中までお願い」


「うん」


 彼女もきっとそれに気づいているだろうが、悩んだ末に了承してくれた。

 玄関扉を開けると秋の香を乗せた涼風が体を包み、夏の終わりを肌で感じる。彼女は目を細めて風を浴びるとふっと微笑んだ。彼女も同じようなことを考えているのだろうか。それとも全く別のなにかを思い出したりしているのだろうか。こんなに人の頭の中を知りたいと思ったのは初めてだ。


 どこか浮ついた足で歩いていると例の橋が目の前に現れた。一気に現実に引き戻されるような感覚に足が止まりそうになる。しかし彼女は歩みを止めない。ふっと後ろから吹き抜けた風に背を押されるように足を踏み出した。


「ねぇ」


 橋の中腹、彼女の呼びかけにわずかな緊張が走る。

 

「なに?」


 ほんの数時間前だ、彼女がここで身を投げようとしたのは。彼女の決意が変わっていなければ、また——。

 今となってはそれが途轍もなく恐ろしくて残酷なことに感じる。俺は黒江ナナをほんの少しでも知ってしまったから。そして彼女の事をもっと知りたいと思ってしまっているから。

 だからこそ、彼女が変わらず自死を選ぶというなら強く引き留めることもできないとも確信していた。


 何が起きても、何を言われても良いように……彼女の言葉も、動きも、息遣いにさえも意識を集中させる。涙を堪えるために必死に力を込めているから、たぶん俺は酷い顔をしているだろう。

 彼女は川風に靡く髪を抑えながら子どものような無垢な笑顔で言った。

 

「明日も観に行ってもいい? 映画。いっぱいあるんでしょ? 死ぬ前に観て欲しいやつ」


 強張った体が脱力し、胸から温かいものがこみ上げてくるのを感じる。俺の持つ何もかもが肯定されたのだ。


「もちろん!」


 左目から溢れた雫はひと際強い風に乗って、代わりに川へ落ちて溶けた。


「じゃあ、またね」



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