第二章 もし君がほほえんだなら

第5話 ひととなり

 

 翌朝、一睡も出来ずに迎えた月曜日の朝は最悪の気分だったが、居ても立っても居られず誰よりも早く登校した。

 頭の中を占領するのは当然黒江ナナのこと。彼女がちゃんと登校してくるか否か、それだけが気掛かりだった。


 今日もまた映画を観ると約束した。あんなに爽やかな笑顔で別れた。それでも万が一ということも——そんな無限の自問自答を終わらせるのはこの目で彼女の姿を見るしかない。


 一人、また一人とクラスメイトが登校してくる。その度にそちらにをジッと見てしまう。きっとただでさえ良くはない印象がどんどん悪くなっているだろう。でもそんなことはどうでも良かった。


「あっ」


 何十分経っただろうか。黒江が静かにドアを開けて教室へ入ってきた。

 特に昨日から変わったところもない。まるで昨日の事は全部夢だったんじゃないかと思ってしまう程、いつも通りだ。


——よかった。


 心の底から安堵の息が漏れ、緊張の糸が切れた勢いそのままに気を失うように眠りに落ちた。





「お前午前中の授業ほぼ寝てたな。今もゾンビみて—だけど、完徹か?」


 ボーっとした頭で昼飯の総菜パンをかじっていると、数少ない友人の風間譲二かざまじょうじがそう声を掛けてきた。

 彼は今まさにモリモリの弁当を平らげたばかりだというのに追加の焼きそばパンを開封している。信じがたい光景だがさすがに毎日見ていれば見慣れてきた。運動部は消費カロリーが桁違いらしい。


 精神を擦り減らした上での徹夜は想像以上に身体に負担があったようで、彼の言う通り、俺は半日ほぼずっと寝ていた。挨拶や移動は辛うじて起きていられただけ奇跡的だった。


「まぁ、そう。色々あって」


「ふ~ん、どうせ映画だろ?」


「……ほぼそうかな」


 彼は中学からの付き合いで、それ故に俺の映画好きも黒歴史も知っている。そのうえで仲良くし続けてくれている貴重な友人だ。

 本当はそんな彼に昨日の出来事を壱から百、AからZまで説明したいが、まさか勝手に自殺未遂の件を軽々しく話すわけにもいかない。

 そこを抜きにしても、他人のナイーブな部分を広めるのは気が引ける。

 

 とはいえ、彼にずっと隠し事をするのもまた心苦しい。この矛盾を抱え続けられる自信はないから、いつかは報告するときがくるのだろうか。

 そのときはどこかを掻い摘んで話そうか? そんな風に思考を巡らせていたはずなのに——。


『シたくて家誘ったんじゃないんだ』


 昨日のことを回想していると彼女のその言葉と色白の肢体にどうしてもぶち当たった。一番話せない場面だ、これは。

 それらを霧散させるように頭を振るうと、それをどう解釈したのか、風間は「やれやれ」と呆れたように溜息を零した。


「ま、よくわかんねぇけど程々にな。『映画観続けて過労で死』……なんて流石の映画バカでも笑えねぇからな! ハッハッハ!」


 笑ってるじゃん。と返すだけの元気は無かった。

 まさか昨夜本当に映画と生き死にが密接になった瞬間があったなんて言っても信じられないだろう。


 それに、根本的問題が解決していないのだから、またいつ彼女が死を選ぼうとするかは分からない。まだ戦いは終わっていないのだ。

 やはり今はまだ軽率に他言する気にはなれなかった。





 トイレから教室へ入ると丁度ロッカーから教科書を取り出して席に戻ろうとする黒江と目が合った。

 彼女は何か発声しようと口を開け、隣の風間の存在に気が付いたのかそれを中断し、澄ました顔で席へ戻っていった。


「あの子……黒江さんだっけ? たしかちょっと前P活ぱぱかつがどうこうで噂になった。お前あの子となんかあったん?」


 風間は変なところで勘がいい。

 というか話題になっていたのは知っていたが具体的な内容なんて知らなかった。

 改めて思うが黒江のひととなりも彼女の境遇も知らないことだらけだ。

 動揺が表に出ないように努めて冷静を装って答えた。


「いや、全然。風間のチャックが全開だからびっくりしたんじゃないか?」


「うおっ!? お前気づいてたならもっと早く言えよな!!」


 大げさにショックを受けた素振りをする風間に「ごめんごめん」と軽く謝りつつ席に戻ると椅子の上に小さな紙切れが置いてあることに気が付いた。

 それはノートの切れ端で、やや丸みを帯びた綺麗な字で簡潔な文章が書かれていた。


〈〇〇公園で待ってる〉


 それが黒江の残したメモであると理解して、すぐにポケットに仕舞った。

 なんだかスパイ映画みたいだな、と少しだけワクワクしている自分が居る。

 今日は何を観ようか。昨日同様、彼女を繋ぎ止めるだけの映画……午後はそればかり考えて結局上の空だった。

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