第6話 驟雨



 昼間の晴れ間が嘘みたいだ。


 曇空の夕暮れ時は湿った空気が重苦しく歩調を遅くし、視界の彩度も下がった感じがする。

 いざ映画を観る時間が近づいてくるとなんだか気が重たくなってくる。こんな事生まれて初めてだ。


「おっ」


 学校と家の中間にある小さな小さな公園、ただ一本の桜が植えてあるだけの、小さすぎて子どももご老人も来ないこんな過疎公園に唯一あるベンチ。その端に黒江はぽつんと座って本を読んでいた。

 ただ読書をしているだけで絵になるものだと感心してしまう。きっと春であればもっと美しい光景になるのだろう。

 

「おまたせ……ちゃんと居てくれてよかった」

「そりゃあ居るよ。私から言ったんだから。むしろメモにちゃんと気づいてなかったらどうしようかと思ってた。今日の君なんかぼーっとしてたし」


 黒江は起伏のない言葉と共にテキパキと本を仕舞って立ち上がった。

 彼女も少なからずこちらを意識していてくれたことに嬉しいような恥ずかしいような感じがする。


「ほんと、よかったよ。ちゃんと居てくれて」


 目の前に居る彼女を見て、こうして彼女と会話をして改めてそう噛み締めた。

 朝、教室に入ったとき黒江の姿を見てどれだけホッとしたことか。当の本人はそんなこと知りもしないだろうが。


「私ってそんなにドタキャンとかするように見える?」

「いや、そうじゃないけど。こっちの話」

「? まあいいや。行こ」


 彼女はスカートの砂を軽く払うとズンズン歩き出した。

 やっぱり基本はクールなんだな、なんて思った。





「「……」」


 昨日は無我夢中で歩いた帰り道、今日は幾分か余裕がある分かえって会話もなくただ歩くだけの時間が気まずい。

 黒江はなにやらスマホをいじっているし、取り付く島もない。何か話題を……と考えていると横からトントンと軽く肩をつつかれた。


「ねぇ、連絡先教えてよ」


「み、脈略ないな……全然いいけど」


 実際、昨日聞くべきだったなと少し後悔していたが、完全にタイミングを逸してしまっていたので彼女の申し出は有難かった。

 というか彼女からそんな提案をしてくるだなんて意外だった。


 彼女はすぐさま準備してあった二次元コードをずいと差し出してくる。

 慌ててそれを読み込むと、全て初期設定のホーム画面とアイコンに名前も『ナナ』とあるだけの遊び心も人間味も何もないアカウントが表示された。あまりにも彼女らしくて少し笑ってしまった。こうして直接でなければスパムアカウントと間違えてしまいそうだ。

 「追加した」と言って何か適当なスタンプか絵文字でも試送しようと画面をいじっていると、そこにぽつりぽつりと雨粒がまばらに落ちてきた。


「やば、降ってきたな……傘ある?」


「ない」


「そんじゃ走ろう! これ多分すぐ本降りになるやつ」


「ん」


 急いで携帯を仕舞い、通学カバンを傘替わりにして少し走ればすぐに我が家に到着だ。走っている間も徐々に雨脚は強まり、鍵を開け玄関に滑り込んだ直後に一気に本降りとなった。


「ふぅ~ただいま」


「おじゃまします……はぁ、ホントにすぐ降ってきたね。結構濡れちゃった」


「いやぁギリギリセーフだっt——」


 セーフ、ではなかった。黒江の言う通り彼女の服がかなり濡れてしまっている。

 目の端に映る腕に濡れたシャツが張り付いていて反射的に目を逸らした。我ながら過剰反応だなとは思うが耐性がないのだから仕方がない。 

 気づいていないフリをして、とりあえずタオルなどを持って来ようと考えながら肩やカバンの表面についた水滴を軽く払っていると、リビングからドタバタと忙しない足音が聞こえてくる。

 そこで一つ重要なことを忘れていたと気が付いた。


——黒江のこと、母さんに言ってない!


 昨夜も今朝も母さんと会わなかったし、何よりもそれどころじゃなかったから頭からすっぽりと抜けてしまっていた。

 だが何をするにしてももう遅い。既に廊下に繋がるリビングの扉は勢いよく開け放たれた。


「あら、あらあらあらあら——女の子の声が聞こえてきたと思ったら……! いらっしゃ~い! ってあら、雨に降られちゃったのね! 今タオル持ってくるから二人ともちょっと待ってて~? しん、あんたこーんな可愛い子とだったなんて、隅に置けないんだからもう!」


 母さんは誰の声も挟ませず、言うだけ言って嵐のように過ぎ去っていった。

 黒江はポカンと口を開けたまま硬直してしまっている。俺の方は羞恥と申し訳なさで頭を抱えたい気分だった。

 

「ごめん……! 今日母さんが居ることすっかり失念してた。あと多分俺らの関係も勘違いしてるっぽい。それも、ほんとごめん」

 

 とにかく説明と謝罪を最優先にした。

 黒江は「大丈夫」と言ってはくれたが苦笑は抑えきれていなかった。


「すごい、元気な人だね。私、挨拶も出来なかった。いつもあんな感じ?」


「あ、あんな感じ……どうだろう。多分俺が初めて女子を家に連れてきたからこそのハイテンションかな。いつも元気は元気だけど」


 黒江は心なしか寂しそうな目で「いいね」とつぶやいた。

 その姿を見ると、どうしても彼女と母親の関係について考えずにはいられない。今、かえって彼女を傷つけてしまってはしないだろうか。

 

「は~いお待たせ! 二人ともタオルと、足ふき置いとくから。アナタのはちゃんと来客用の新品だから安心してね~」


 そんなことを考えていると母さんがタオル類を抱えて戻ってきた。

 直後投げ渡されたハンドタオルを慌ててキャッチする。丁寧に手渡ししている黒江とエライ差である。別にいいけど。

 黒江はそれを受け取りながら、やや上擦った調子で先ほど叶わなかった挨拶を始めた。


「あっあの、すみませんお手を煩わせてしまって。私、黒江ナナっていいます。神崎くんとはクラスメイトで彼女とかではないです。私が彼の薦める映画を観たいって言ってお邪魔させて貰ったんですが、ご迷惑なら全然——」


「あら~いいのよいいのよ! 全然迷惑なんかじゃないわ。ナナちゃんね、ご丁寧にありがと。うちの子昔から家で映画観てばっかりで友達も全然居ないから心配してたのよ~! だからナナちゃんみたいな可愛い子が来てくれておばさん舞い上がちゃったわ~。ね、慎」


「ん!? そこで振られても返事に困るわ!」


 まさかのキラーパスに驚いてしまった。黒江の「全然」で軽いジャブを喰らって母さんに友達が少ない陰キャであることを暴露されて陽気に会話できるわけがない。


 ただ今のやりとりの何かが刺さったのか、黒江は少しだけ笑顔になった。母さんと話している間ずっと顔が強張っていたし、今ので多少は力が抜けてくれていれば良いが。


「ふふっ……あ、タオルありがとうございます。これどうすれば」


「はーい貰っちゃうわね~、ってナナちゃんまだ結構濡れてるわね。ドライヤー使う?」


「えっと、じゃあお言葉に甘えて。あと、出来れば何か着替えを……部屋濡らしちゃうと申し訳ないし、ジャージとか下だけでも貸して貰えると嬉しいなって」


 彼女はおずおずと言いながらチラリと目配せしてきた。後半は俺に向かって言っていたらしい。

 一瞬答えに詰まった。同級生の異性にノータイムで服を貸せる奴なんて居ない。

 そして、その隙を見逃さない強者がこの場には居た。

 

「ナナちゃん! それなら良い~のがあるわよ! サイズもきっとぴったりだと思うから、ちょっといらっしゃい。ついでに髪もドライヤーしちゃいましょ」


「え、ちょ、あの」


「母さんちょっと待っ——」


 母さんは目をランランに輝かせて有無を言わせず黒江を脱衣所へ引っ張って行ってしまった。声を掛けるも時すでに遅し。扉が閉まる直前、困惑しきった黒江と目が合った。——マズい。

 お節介ゴシップ好き普遍的おばさんの母さんと、母親と喧嘩の末に自殺未遂した黒江、相性は最悪にしか見えない。そうでなくても他人の親と一対一はしんどい。

 いやしかし、止める手立てもまた無い。まさか「その子お母さんと大喧嘩したばっかりで~」などと言える訳もないし、実際濡れ鼠の黒江には着替えもドライヤーも必要だ。


 それならばせめて、と脱衣所の傍まで行き扉の向こうに向かって声を上げた。


「黒江さん! 嫌なこと言われたりされそうになったら殴ってでも逃げてな」


「慎あんたお母さんのこと何だと思ってんの! こっちは良いからアンタも着替えて制服干しときなさいよ~!」


 効果があるかは分からない。そもそも全部俺の杞憂の可能性だってある。余計なことをしようとしても空回るであろうことは昨日散々実感している。でも何もしないのも座りが悪い。

 結局のところ全部“自分の為”だなと改めて思う。


 とにかく、母さんのテンションの高さは気がかりだが、基本は常識外れなことはしないし、下手なことにはならないだろう。

 

「でも不安だ……」


 部屋着への着替えを済ませ、今日観る映画の選定をしながら思わず呟いた。

 もうかれこれ十五分ほど経っている。黒江の長髪を乾かしているのだから相応に時間が掛かることは理解しているが、気が気ではない。


——そもそも母さんの言う「良いの」ってなんだろう。


 母さんの服というのが真っ先に浮かぶが二人は結構身長差がある。体型もだいぶ違う。“黒江に合う服”は我が家に絶妙にない物かもしれない。

 そんな考えても仕方ないことをグルグル思考していると、部屋の戸が軽やかにノックされた。


「入って大丈夫?」


 どうやら向こうも済んだようだ。ホッと息をついて「どうぞ」と声をかける。すると数拍の間の後、やけにゆっくりと戸が開かれる。妙に全ての動きがゆっくりだ。なにかあったのだろうか?

 その答えは黒江の姿を見てすぐに分かった。


「えっと、それは……随分ともこもこで」 


 彼女が身に纏っているのは“moco moco”が売りな有名メーカーのパジャマだった。予想外な姿に思わず変なコメントをした気もする。

 なぜ母さんがそんな若者ウケのいい歳不相応なものを——と思ったがそういえば父さんがいつだったか取引先から貰ったと持って帰ってきたのだった。

 母さんが意気揚々と着ようとするのを「勘弁してください」と父さんと共に必死に止めたのを思い出した。

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