眼鏡泥棒

シンシア

フワッとね

「すまないね」



 男は住居兼事務所のソファーで申し訳なさそうに体を小さく丸めてはうなだれている。



「ほんとですよ。私が探すこと自体に文句はないのですが、あの眼鏡を失くすなんてそんな馬鹿なことを起こさないでください。貴方様はあの眼鏡が無ければほとんど見えないではありませんか」



 少女は腰に手を当ててプリプリと怒っている。



「そうだね。君が家に居てくれて助かったよ」









 今朝から寝室の机に置いたはずの眼鏡が無いのである。私は酷く目が悪いので眼鏡を外すときは決まった場所に置くようにしている。


 昨晩の記憶を辿るが、絶対にあの机の置いたという記憶は何故か存在しなかった。

習慣化されていることなので単純に眼鏡を置いたということが、昨晩のことだと断定することができないだけかもしれないが不可解である。



「エミ。昨晩の記憶がないのだけど、私はそんなに酔っていたのかな」


「いえ、昨晩はお酒を飲んではいませんでしたよ」



 エミは手際よく床に散らばった書類の数々を纏め上げてはデスクの上に置く。

ぼんやりとだがそんな風に見える。あれは私がふらついた時に倒してしまったものだ。



「ひょっとすると、泥棒の類が盗んでいったのでは」



 少女は突拍子もないことを呟いた。



「私の眼鏡をかい? 金品ならまだしも眼鏡なんか盗んで何の意味があるんだ」


「金品はかえって盗みづらいですよ。ほら、話題になったではありませんか。名探偵の推理の正体は眼鏡だったっていう記事。もはや眼鏡が本体だー的なやつです」


「そんな言いがかりをつけられたこともあったね」


「推理以前に貴方様から眼鏡を盗すんでしまえば、確かに無力化できますね。金品をここから盗むのだって、街で事件を起こすことだって今の状態であれば容易ですね。現に今はソファーで体を丸めているだけです」


「おっしゃるとおりです」



 チクリと横から針で刺されたような気分である。


視力の悪さは分かっていたが、彼を失って初めて彼のありがたみが心に沁みわたる。もう体の一部と化した眼鏡は眼の前にあるのが当たり前の存在であった。気づいてみれば、眼鏡があることが前提の生活なのだ。書類に目を通すことだって眼鏡がなければできない。真っすぐ安全に歩くことすら眼鏡の力を借りているのだ。もっと大切にしなければならない。



「フリマアプリで貴方様の眼鏡と思われるものが多数出品されていますよ」



 眼鏡に想いを馳せていると、エミから声が掛けられた。



「私の眼鏡はこの世界にたった一つだよ。まったく可笑しな話だ」


「っ──し、真偽は、どうだっていいのですよ。売れればいいんです」


「そんなものなのかね」


「はい。ですが私が見たところ、ここに本物はありませんね」


「なぜそう分かるのかい?」



 舌打ちが聞こえた。エミが舌打ちを聞いたのは初めてである。おそらく目が見えない私に自分は今怒っているのだということを伝えるためだ。それか酷く怒らせてしまったのだろう。



「忘れたのですか。あの眼鏡を贈ったのは私ではありませんか」



 そうであった。生活に溶け込みすぎていて失念していた。



「すまない。忘れていたわけでは。いや正直忘れていた。それぐらい私の体の一部になっていて、馴染んでしまっていたんだ」


「か、からだの!?──い、いえ、もういいですよ」



 なんとか許してもらえたようだ。はっきりとは見えないが彼女は顔を両手で隠しているようだ。余程悲しかったらしい。


 それからエミが部屋の隅から隅まで探してくれたのだが、眼鏡が見つかることはなかった。



「エミもういいよ。新しい眼鏡を買いにいくのを手伝ってくれるかな?」


「はい! 喜んで」



 やけに上機嫌なことが声色から分かる。眼鏡屋まで一人でたどり着けないというのもあるが、眼鏡をかけていない状態での眼鏡選び程あてにならないことはない。試着用には度が入っていないので、どんな眼鏡をつけたって視界がぼやける。鏡を見ても自分では似合っているかどうかが分からないのだ。


なので、誰かが付いて来てくれるのに越したことはない。


そういえばあの眼鏡をエミから贈られた時もこのような話の流れになったことを思いだした。



 彼女に身支度を手伝ってもらって外に出た。ぐっと手を握られて街へとくりだす。



「もしも私がエミじゃなかったらこの状況は危険すぎますね」



 ドキリとした。声色とぼんやりとした背格好からエミだと断定したが、泥棒に入られたのだとしたら今この手を引いている少女が信頼のおける助手ではない可能性もある。



「いや、私を騙すことはできないよ。こんなことに推理など必要ない。いいかい、私の全身の細胞が君をエミだと認識しているんだ。もはや私の半身と化した君を間違うわけないじゃないか」


「っ──!……そ、そう、で、すか。──先程体の一部を失くされたばかりなので全く説得力がありませんが」


「おっしゃるとおりです」



 失くしたのが眼鏡の方でよかった。こんなことを言ったらまた彼女を怒らせてしまうかもしれないが、もしも、連れ攫われたのが彼女であったらと思うと生きた心地がしなかった。



「何か考え事をしているのですね。今の貴方様にそんな余裕があるようには思えないですが!」



 えい!と急に強く手を引っ張られた。


 私は体勢を崩してしまう。


 あっという間に視界は黒く塗りつぶされたと思ったが、地面に当たるスレスレの所で止まった。肩には強い力がかかる。しゃがみ込んだエミに抱き止められたのだ。



「ほら、こんな時ぐらい思考を止めてみるのはいかが?」



 至近距離で視界いっぱいに映し出される彼女の顔。その端正な顔立ちに心臓が掴まれたみたいに息が苦しい。この距離であればはっきりと形を捉えることができる。


 艶やかな黒い髪。キリリとしたつり眉。パッチリとした二つの眼。くろ、ぶちの眼鏡?



「それは私の眼鏡じゃないか!」



 私がそう指摘するとエミは笑いだした。



「なんで今まで気づかないのですか。私のこと、もっとちゃんと見てくださいよ」



 エミは呆気にとられた私の体を支えながら起こすと、眼鏡を外して私に手渡す。



「すまなかった。こんな強引な手段を君に取らせてしまうとは」


「いえいえ、私の方こそ申し訳ありません。貴方様の大事なものを取ってしまったことに変わりはありませんから。何だって罰は受けます。助手をやめてもいいです」


「そんな! ちょっと待ってくれ!」



 地面に倒れ込むと思ったら眼鏡が見つかって、何故か助手が辞めようとしている。私は怒涛の展開に思わず待ったをかける。


それから一つ息を吐き出すと眼鏡を顔にかける。一気に視界が広がる。何と空が青いことか。空気がよく鼻に通る。



「君は泥棒に入られたかもしれないと言ったね。私はあの時盗まれたのが眼鏡で良かったと思ったんだ」


「はい、金品であれば──」


「ちがうよ。君に何もなくてよかったと思ったんだ。だからその」



 言葉にした途端に恥ずかしいことを口にしたことに気が付いた。エミは顔を下に向けてしまっている。



「怒ってないんだ。君とこうして仕事以外で外に来られたわけだし、助手を辞めるなんていわないで欲しい。エミが必要なんだ」


「もう、そんな風に言って! 勘違いしてしまいますから、他の女の人には絶対に言わないでくださいよ」



 エミはそう言うとにこりと笑った。



「勘違いとはどういうことだ?」


「ほんとっに! そういうところです!!!」

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眼鏡泥棒 シンシア @syndy_ataru

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