霧の魔女
霧の魔女.1
凍てつく夜闇の底から、炉に小さな火を焚べたように微かな朝陽が覗いた。
湖水地方の白い山陵が赤く縁取られる。
残り僅かな薪を暖炉に放り込みながら、ジュデッカは小部屋の窓の外を見遣った。
「夜が明けますね。リタさん、結局寝なかったんですか」
「頭がいっぱいだったの。火の番をしてくれてありがとう」
「しなきゃ朝を迎えるまでに凍死ですからね」
リタは汚れて元の布地の色がわからないソファに腰掛けて微笑んだ。
「ジュデッカ、貴女は強いのね」
「ええ、よく人間じゃないみたいだって言われますよ」
「そんなことないわ。いつも男子修道院のみんなと訓練しているの?」
「そうですよ」
リタが曖昧な笑みを浮かべたのを見て、ジュデッカは喉を鳴らした。
「もしかして、女ひとりで危ないんじゃないかと思ってます?」
「ええ。皆様を疑う訳じゃないけれど……」
「大丈夫ですよ。うちのひとたちはそんなこと気にしません。魔女狩りしか頭にない連中ばかりです。魔女を殺せるなら野良犬でも引き入れますよ」
「そう……貴女は何故男子修道院に入ったの?」
ジュデッカは少し考えてから、咥えた煙草を暖炉の埋み火に近づけた。
「聞いた話じゃ、私が拾われた当時は男子修道院に入れる予定はなかったんですが、私が女子修道院の門をくぐった途端、ひきつけを起こしてぶっ倒れたそうです」
「まあ、何故かしら」
「その頃の記憶がないのでわかりません。それが何度も続いたので、仕方なくトロメオ司祭が引き取ったとか」
リタは目を丸くした。
「トロメオ司祭が? すごいわ、"砂の魔女"と"錆の魔女"を倒して、"炎の魔女"とも戦った英雄が貴女の育ての親なのね」
「生みの親の顔は知りませんが、お陰で毎日扱かれて強くなりましたよ」
ジュデッカは煙を吐く。結露したステンドグラスに霧の橋がかかった。
「"泥の魔女"は死んだ。残るは三体。姿の見えない"冬の魔女"と"霧の魔女"、五年前の戦歴だけ残っている"炎の魔女"ですね」
「倒せるかしら」
「殺しますよ。それが仕事ですから」
リタは膝を抱えて烟る窓外を眺めた。
「夜が明けたら女子修道院から迎えが来るわ。あと少しね」
ジュデッカは煙草を咥えたまま立ち上がり、曇りガラスを修道服の袖で拭った。埃が取り除かれた跡に、一筋の闇が浮かび上がった。
修道院の外から、蹄が硝子片のような霜を踏みしだく音が響いた。吹雪に混じって馬の嘶きが聞こえる。
「来ましたね」
ジュデッカは暖炉に吸殻を放り込んで立ち上がった。
リタもソファから腰を上げる。薔薇の刺繍の色褪せた布地に一点の泥が染み付いていた。リタは袖口でそれを拭い、目を閉じて祈った。
ふたりが傾いた扉を開けると、黒塗りの荷台を備えた馬車が雪原に停まっていた。
重厚で陰鬱な佇まいは、"魔女"の脅威で死者の絶えないロンドンを駆け巡る霊柩馬車に似ていた。
黒い幌が開き、修道服を纏った、リタと変わらない年頃のふたりの娘が現れる。
両者とも雪原には似合わない容姿だった。
片方の娘は暖炉の火よりも鮮やかな赤毛を寒風に靡かせ、慇懃な表情を浮かべていた。
もう片方の娘は漆黒の髪の下に、暗雲からついぞ覗かない太陽に愛されたような褐色の肌を持っていた。
リタがふたりに駆け寄る。
「ホリーにエドナ! 遠路までありがとう。手間をかけてごめんなさい」
ホリーと呼ばれた赤毛の少女が険しい顔で首を振る。
「それより何があったの。何故修道院が壊れているの。リタ、貴女は聖女として教えを広めに行ったのでしょう」
褐色の少女エドナが口を挟んだ。
「ホリー、心配なのはわかるけど、そんなに一度に答えられないよ。それに、聞かなくてもわかるさ」
エドナは戸口にもたれていたジュデッカを指差した。
「男子修道院の猟犬がいるってことは、魔女が出たんだね」
リタが頷く。
「信じ難いでしょうけど、この修道院は"泥の魔女"に乗っ取られていたの……全員よ。ジュデッカが倒してくれたわ」
「何ですって?」
ホリーが青ざめる。ジュデッカはひきつけを起こしたように笑った。
「仰る通り、男子修道院の犬ジュデッカです。聖女様を噛んじゃいませんからご安心を。私が噛むのは"魔女"だけです」
ホリーは驚愕と侮蔑をない混ぜにした表情を浮かべた。
「……イスカリオテのユダの名を与えられた女修道士ね。信仰を持たずに魔女を狩るだけの猟犬と聞いているけど」
「ええ、そうですよ。祈りは無意味でしょう。全能の神がいるなら何故"魔女"の存在を許してるんです?」
「貴女!」
「やめときな、ホリー」
エドナが溜息混じりにホリーを制す。
「信心深いのは結構だけど、みんながそうじゃない。私だって生きるために修道院に入っただけさ」
ホリーは眉間に皺を寄せ、踵を返すと、無言で馬車の方へ向かった。エドナは肩を竦める。
「悪いね。あの子は真面目すぎていつもこうなんだ」
「構いませんよ。ひとりくらいはそんなのがいないと締まらないですからね」
リタは聖者らしい微笑みを浮かべてふたりを見比べる。
「エドナ、馬車にはジュデッカも乗せていいのでしょう?」
「いいけど。この子はどうやってここまで来たのさ」
「彼女の馬車は壊れてしまったの。軛を引いてひとりで山を超えて来たのよ」
「とんでもないね」
「お褒めに預かり光栄ですね」
ジュデッカは火傷痕を引き攣らせた。
狭い馬車の荷台は四人の娘が乗り込むと、軋んで天蓋に積もった雪を零した。
屈強な馬が低く嘶き、氷に覆われた湖水地方の土地を駆け出す。
ホリーは旅の無事を祈る聖句を口にし、リタが言葉を重ねた。エドナとジュデッカは無言で窓外を見下ろし、鏡を破るように雪が砕けるのを眺めた。
ホリーは肩に落ちた赤毛を払う。
「ジュデッカ、貴女の信条はひとまず置いて、リタを守ったことには感謝するわ。彼女はかけがえのない存在だもの」
「聖なる血の力はすごかったですからねえ。カルバリ教会の女子修道院が戦果を挙げてる理由がわかりましたよ」
「リタに全て頼っている訳じゃないわ。私たちは常に"魔女"を倒す方法を考え、日々実践しているの」
「ホリーさんは見たところ高貴なお嬢さんに見えますが、貴女も戦うんですか?」
「馬鹿にしないでちょうだい」
ホリーが鼻白んだのを見て、すかさずリタが割り込んだ。
「ホリーは"魔女"に効く毒薬を開発しているのよ。薬学の知識が豊富なの。お医者さんとしてもとっても助かっているわ」
「成程ねえ」
ジュデッカは硬い椅子の背もたれに白髪頭をつけた。
「魔女狩りに門戸を問わず、手段を選ばずはうちと同じですね。そっちの方はジプシーでしょう?」
前の座席に座るエドナが、漆黒の瞳を向けた。
「ジプシーって呼ぶのやめてくれる? それは外の奴らに勝手につけられた呼び名なんだ。今じゃ盗人と同義語だしね」
「すみません。修道院から出たことがないんでどうにも常識が足りないんですよ」
ジュデッカは肩を縮める。
「別にいいよ。知ってて言うのと知らなくて言うのは違うからね」
「どうも。じゃあ、何と呼べばいいんです?」
「
「仲間内では何と呼ぶんです?」
「人間」
「いいですね。"魔女"じゃないってすぐにわかる」
エドナは口角を上げた。
「ジュデッカ、あんたは信仰がないんだって?」
「ええ、まあ」
「私もそうだよ。教会には振り回されてきたからね。皇帝ジギスムントの特許状なんて百年前に白紙化した。"魔女"が出なきゃ英国中から追い出されてたとこさ」
リタは顔を伏せ、ホリーは無言で目を背けた。
「生きるために旅芸人も物乞いも金物屋もやった。今はそれが修道女ってだけ」
エドナは吐き捨ててから、薄い陽光が氷を溶かして水晶のように輝かせる窓外を眺めた。
「リタ、悪いけどカルバリ教会に向かう前に別の場所に寄るよ」
「構わないわ。どちらに行くの?」
ホリーが服の裾から巻いた羊皮紙を取り出す。
「サマセットのウーキー・ホールよ。そこで小さな教会が自治区を作って暮らしているらしいの。物資の補給も協力してくれるらしいわ」
エドナが眉間に皺を寄せた。
「ただ、どこにも届出を出してないらしくてね。ちょっと不穏だ。補給のついでに調査と行こう」
「男子修道院からも二名派遣されるらしいわ」
ジュデッカは目を丸くした。
「うちのひとたちが? 大丈夫ですかね」
リタが彼女を見上げる。
「皆優秀な魔女狩りだと聞いているけど」
「そりゃ魔女狩りに関してはね……人間的には問題児ばかりですよ。ひとりまともなのもいますけど」
ホリーが含みのある咳払いをする。
薄く濁った氷を砕きながら馬車は進んだ。
コキュートスの聖女たち 木古おうみ @kipplemaker
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