泥の魔女.4
棺の蓋を突き破った両腕がジュデッカに伸びる。無造作な拳撃が痩せぎすの身体を薙ぎ払った。
「ジュデッカ!」
リタの叫びが礼拝堂に反響した。ジュデッカは壁に叩きつけられ、震動が燭台の炎を揺らす。
「お元気そうですね、アンドレ司祭……生きてたときより剛健だ……」
棺の残骸を払い退けて立ち上がった男は、ジュデッカの男の二倍近い長身だった。
金髪は黒く汚れ、腹と胸の傷痕からは土色の泡が絶えず湧き出している。
敬虔で清廉だったであろう面差しは、汚泥で濡れていた。
リタが声を震わせる。
「"泥の魔女"……」
煤と蝋の雫を被ったジュデッカは低く笑った。唇の端から血が伝う。
「成程、"魔女"は女だと思われていますからね。男に寄生するとはよく考えた……」
アンドレが牙を剥き、ジュデッカに剥けて駆け出した。口から唾液の代わりに泥が溢れる。
ジュデッカは転がって攻撃を避け、長椅子に突き刺さったサーベルを抜いた。肘を強く引き、真っ直ぐに刺突する。アンドレの胸を刃が抉った。
泥の泡が即座に傷口を修復する。
「参ったな」
ジュデッカはサーベルを引き抜いて素早く後退した。アンドレは猛然と向かってくる。燭台の炎が戦慄く。
ジュデッカはサーベルを捨て、両手で長椅子を持ち上げた。アンドレが体勢を低くして攻撃に移る直前、ジュデッカは跳躍し、垂直に椅子を振り下ろす。長椅子がアンドレの頭を首枷のように押さえた。
ジュデッカが椅子の足を回転させると、首の骨が砕ける音が響いた。
「これで……」
ジュデッカは刃を一閃し、アンドレの首を切断した。泥の塊は床の上で跳ねることなくべしゃりと潰れた。
ジュデッカは無表情に椅子から降り、サーベルを長椅子に突き刺す。
「ジュデッカ、後ろよ!」
リタが叫んだ。
アンドレの首から泥が流れ出し、泡立つ鎖となって切り離された胴体と癒着する。首の切断面と僅かにずれた頭部が傾き、ジュデッカを見定めた。
「くそっ……」
防御の構えを取る間も与えず、アンドレがジュデッカを弾き飛ばす。司祭は片足を振り上げ、ジュデッカの腹を踏み抜いた。溺死者のような声が漏れ、喉から胃液の混じった唾が飛んだ。
アンドレはジュデッカの腹を右足で押さえる。振り上げた左足で頭を潰そうしたとき、アンドレの腹から白銀の輝きが突き出した。傷口から零れる泥がジュデッカに降り注ぐ。
アンドレは首を百八十度回し、背後をかえりみた。リタが震える手で瀉血用のナイフを突き出していた。
アンドレは泥を零して笑い、リタを見下ろす。
「聖女……確かに聖母と同じ名の女から生まれたんだものね」
アンドレの喉から漏れたのは女の声だった。リタは目を見張る。
「母さんを知っているの?」
「ええ、この男の身体が知っているわ。お前の生まれはホワイトチャペル。聖マリアに捧ぐ小さな教会 に因んだ名とは裏腹に、街娼の溜まり場となった汚い街でしょう」
"泥の魔女"はごぼごぼと氾濫した川のような嘲笑を立てる。
「お前の母は聖母より寛大だわ。病人でも、盗人でも、誰とでも寝たんだもの!」
リタは顔を引き攣らせながら、それでも、微笑を浮かべた。
「そうね、私を育てるために。私にとっては聖母だったわ」
泥の泡が弾けた。"魔女"は細いナイフの突き刺さった自身の腹を見つめる。刃の先端に触れた泥が乾き、旱魃地帯のようにひび割れていた。
リタは口角を上げる。
「私の生まれがどうであれ、聖なる血がある限り、私は聖女でいようと思っているわ。それでひとを守れるのなら」
「娼婦の子が……」
アンドレは腕を振る。拳がリタに触れる寸前、肘から先が真下からの斬撃に斬り飛ばされた。
「娼館通いとは案外俗だったんですねえ、アンドレ司祭」
アンドレの脚の下から逃れたジュデッカがサーベルを片手に立ち上がる。
「蔑みませんよ。寧ろ死ぬまで隠し抜いたことを褒めたいくらいです」
「ジュデッカ……」
リタが視線を向けると、彼女は火傷痕を引き攣らせるように笑った。
「リタさん、助かりました。これでいけます」
ジュデッカは痩せこけた腕でアンドレの身体に掴みかかる。"泥の魔女"が吠えた。
「お前……魔女殺しの……裏切り者か!」
「よく知ってますね」
吐き出された泥がジュデッカに降り注ぐ。彼女は構わず、アンドレの腹にナイフを押し込んだ。
「三年間逃げ続けたようですが、今日で終わりです。厄介な泥も外なら凍りつくでしょう」
ジュデッカは痩躯から想像のつかない力でアンドレの身体を押し、窓ガラスを突き破る。
七色のステンドグラスが散り、押し寄せた吹雪が燭台の炎を掻き消した。
藍色の闇が満ち、外から断末魔の悲鳴が聞こえた。
血も凍る風が礼拝堂に吹き渡り、泥を霜に変えた。
リタは修道服の裾が黒い水を吸い上げるのも構わず座り込んでいた。
傾いた扉を押す音が響き、リタは振り返る。
「ジュデッカ……倒したの」
「ええ、殺しました」
彼女は死人のような血色の肌を更に青白く染め、背中に袋を背負っていた。
「それは何?」
「残り物を拝借してきました。資源は有限ですから使わないと。水挿しに銀の器、煙草もありますよ」
リタは呆れ混じりに苦笑する。
そのとき、扉の先から小さな影が覗いた。ジュデッカはサーベルを片手に振り返るった。
「待って、ジュデッカ」
リタが駆け寄って制止する。扉の影から綿毛のような頭が覗いた。幼い修道女が震えながら現れた。
「聖女様……みんな、みんなが……」
少女はしゃくりあげながら何度も目を拭った。ジュデッカが金の瞳を冷然と光らせる。
「リタさん、わかっていますよね。ここの全員です。例外はありません」
「わかっているわ。でも、時間を頂戴」
リタは沈鬱な面持ちでジュデッカから袋を取り上げ、中から水挿しを取り出した。彼女は銀の器に水を注ぎ、自分の血を一滴垂らす。
ジュデッカが見守る中、リタは完璧な笑みで少女に振り返った。
「怖かったでしょう。もう"魔女"はいないわ。安心して」
リタは跪いて少女に水を差し出す。
「お茶ではなくて残念だけど、これを飲んで落ち着いて。それからお話ししましょう?」
少女はまだ震えていたが何度も頷いた。
「何がいいかしら。眠れないとき、ママが私にしてくれたお話がいいわね」
リタは少女が器を唇に運ぶ間、穏やかな声で話し続けていた。
"魔女"が死に絶え、礼拝堂に静寂が戻る。
吹雪が小さな泥の塊を白く染め替えた。
ジュデッカは盗んだばかりの煙草に火をつけて呟く。
「本当に聖女様ですね」
「そんなことないわ。聖女ならひとを守れるはずでしょう。私は"魔女"を殺すことしかできない」
「いいんじゃないですか」
紫煙が天蓋に立ち昇った。
「カルバリ教会男子修道院の標語は『百人の無辜の民を殺してでも、一体の魔女を殺せ』です。かの魔女狩り将軍マシュー・ホプキンスの遠縁にあたる司祭が掲げました」
「そう……」
「無辜の民の百人には勿論我々も含んでいます。尊い犠牲にも、大罪にあたる自死に相応しい心構えだ。だから、ゴルゴダの丘の名を掲げているんです」
「でも、私は百人を助けたいのよ。そんなことは神にしかできないと知っていても」
「不遜ですねえ」
ジュデッカは痙攣するように笑う。
「命知らずは歓迎です。教会のお飾りになってでも"魔女"を殺す気概があるのなら、一緒に来ますか」
「ええ。それで未来の百人が守れるのなら、連れて行って」
明かりの途絶えた礼拝堂に、煙草の先端の小さな火が灯る。赤い輝きが泥に塗れた十字架を照らした。
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