泥の魔女.3

 曇天と雪道が閉ざす無彩色の世界を、微かな夕陽が赤く染めた。

 凍てつく湖水地方で唯一の暖かな時間だった。釣瓶を落としたように陽が沈んだ後は、極寒の夜が訪れる。



 リタは不安げに窓の外を見つめていた。

 動物の肋をくり抜いたような廊下から老いたシスターが現れる。

「リタ様、あの娘を案じておられるのですか?」

「ええ。ジュデッカが"魔女"だとは思えないもの。凍えていないといいのだけど」


 金髪に夕陽の粒を絡ませて俯くリタを一瞥し、老シスターは唇を動かした。

「潔白であれば主がお守りくださるでしょう……斯様な時に何ですが……」

「瀉血ね?」

「はい。"魔女"に備え、リタ様の血を修道院の各地に配置したいのです」


 リタは逡巡の後、頷いた。

「いいわ。でも、ごめんなさい。最近、瀉血の後、目眩がしてしまうの。構わなければ、温かい場所で行っていただいてもいいかしら」

「勿論です。礼拝堂に参りましょう」



 老シスターはリタを伴い、礼拝堂に踏み入った。

 祭壇の真下には樫の棺が置かれていた。

「ご容赦を。アンドレ司祭を安置する場所が他にありません」

「構わないわ。瀉血が終わったら彼のために祈らせてください」

「本当にお優しい」


 シスターはナイフと真鍮の容器を取り出す。リタは袖を捲り、血が滲んだ包帯を解いた。幾重もの傷がついた細腕が露わになる。

「ねえ、シスター」

 リタは真っ直ぐに老女を見上げた。

「私の血はちゃんと役立っているかしら」

「勿論です」

「何方に保管しているの? 暖かい場所で古くなってしまったら困るわ」

「それは……」



 老シスターが言い淀んだとき、ノックの音がした。

 木戸の向こうから若い娘の震えた声が響く。

「緊急で……」

 老女は顔を顰めた。

「何事です」

「魔女が現れました……!」

「何ですって」


 老シスターが扉を開く。細い隙間から黒髪の修道女の怯えた顔が覗いた。白い喉には真新しい血を塗ったナイフが突きつけられていた。

「申し訳ありません、脅されて……」


 震える娘を押し退け、白髪と火傷痕が闇から滲み出す。

「いろいろと不用心ですね。服も脱がせず持ち物も取り上げないで投獄するなんて」

「ジュデッカ!」

 リタが声をあげる。


 老シスターは蒼白な顔で後退った。

「手枷をかけていたはずです。どうやって……」

「見ての通り鶏ガラですから、ちょっと削ればすぐ外せましたよ」

 ジュデッカの手首からは夥しい血が溢れていた。

「正気ではありませんね。そうまでして我々を謀るとは……」

「謀っちゃいません。"魔女"が来たのは本当です。ほら」



 言い終わる前に、ジュデッカはナイフを翻し、黒髪の修道女の喉を一突きした。リタと老シスターの悲鳴が重なる。

「何を考えているの!」

「よく見てください」


 ジュデッカがナイフを引き抜くと、修道女は喉を押さえて倒れた。指の隙間から鮮血の代わりに溢れ出したのは、泥だった。

 娘の身体が雨上がりの土のように泡立ち、汚水の匂いが漂う泥の塊に変わる。



「そんな……」

 リタは口元を押さえた。シスターは顔に刻まれた皺を濃くしながら厳しく首を振った。

「……非礼を詫びます。我々の失態でした。まさか、"泥の魔女"の眷属に易々と侵入を許すとは……」

「まだ終わっちゃいませんよ」


 ジュデッカは獣のように身を屈め、素早くリタの背後に回る。

「ジュデッカ……」

「私は魔女を嗅ぎ分けられるんです。ここに来たときからずっと泥の匂いがしてました」


 彼女は老シスターにナイフの先端を向けた。

「私を疑っているのですか」

「貴方だけじゃありませんよ。皆、何故"泥の魔女"の眷属が潜んでいると知って確かめようとしなかったんです。何故、聖女から貴重な聖なる血を抜いて弱らせようとしたんです? 」

「弱らせるなど……」

「地下牢の配管、錆びてましたね。リタさんから抜いた血を捨てていたでしょう」

 リタは悲しみに堪えるように顎を引いた。

「役立ててくださるとも思っていたわ」



 老いたシスターは茫然自失の表情で後ろに退がり、壁にもたれた。木の十字架が震動で揺れる。

「何故……何故私は……」

 ジュデッカは淡々と答えた。

「お気の毒です。貴女たちは自分で気づけなかった。神に支えるつもりで"魔女"に支えていた。リタさんも気づいていましたよね?」


 リタはかぶりを振った。

「いえ……ただ、貴女が礼拝堂を出るときに何かを隠していたから。仕込みをしなければいけない理由があったのでしょうと思ったの」

「聡明ですね」



 けたたましい音で礼拝堂の扉が蹴破られた。

 クロスボウや剣、各々の武器を持った修道女たちが雪崩れ込む。

「"魔女"だ! "魔女"がいるぞ!」

「聖女様、逃げてください!」

 女たちの目に迷いはなかった。長椅子が等間隔で並ぶ礼拝堂を、壁に取り付けた燭台が燦然と照らしている。


 ジュデッカは痙攣するように身体を傾けた。

「本当にお気の毒です。それで何か変わる訳じゃありませんが」

 彼女はリタの張り詰めた横顔を見た。

「リタさん、耳を塞いでください」

 


 ジュデッカはリタを押し退け、長椅子を蹴り上げ、下に隠した煙草の箱を掬う。マッチを擦ると、空気が破裂した。


 凄まじい煙幕と共に、長椅子の木片が爆ぜ、礼拝堂に悲鳴と轟音がこだまする。

 火薬と煙の匂いにドブ川を炎が焼き払ったような匂いが満ちた。


 灰色の視界に、散乱した長椅子と床に広がる泥の塊が映る。リタは耳を塞いでいた半分手を外し、ジュデッカを見た。

「火薬……?」

「牽制程度にしかなりません。まだ残っていますね」



 銀の軌道が煙を切り裂いた。真後ろから降り抜かれたサーベルを避け、ジュデッカは後方に跳躍する。


 背の高い修道女が剣を振るいながら叫んだ。

「正体を表せ、"魔女"め!」

 ジュデッカは人間とは思えない身軽さで長椅子の背を蹴り、追撃を狙った刃に飛び乗る。

 突き出された剣の勢いに乗って滑り、ジュデッカは脚を振り切った。擦り切れた靴先が修道女の頭を貫き、泥が跳ねた。


 泡立ちながら土塊へと変わる女を押し退け、ジュデッカは再びリタの元へ戻った。燃えくすぶる真鍮の燭台が、影に潜む修道女たちの姿を歪めて写した。

「そこですか」



 椅子の背から音もなく木筒の先端が覗いた。マスケット銃が火を吹くより早く、ジュデッカは回避して床を這う。

 次の弾を込める娘の背後から棒切れのような両足が伸びた。ジュデッカの膝が娘の首を巻き取り、頸椎を折る。


 ジュデッカは立ち上がる反動で泥と化した女を蹴り上げた。死角から離れたクラスボウの矢が泥の盾を貫く。

「聖女の血、試してみましょうか」

 ジュデッカはリタの血が染みた修道服の端切れを拾い、ナイフに巻き付ける。


 直線に沿って投擲された刃がクロスボウを構える女の額を貫いた。次の瞬間、女の身体が光の粒に包まれ、一瞬で炎上した。



「想像以上ですね」

 ジュデッカは獰猛な笑みを向ける。長椅子の背に隠れたリタは顔を強ばらせただけだった。

「もっと喜びましょうよ。"魔女"を殺せるんですから」



 ジュデッカは白狼のような髪を振るい、張りついた泥を落とす。

 礼拝堂から煙が退く。欠けた柱や折れた長椅子には血飛沫の代わりに泥がこびりついていた。



 最奥の教壇に、年老いたシスターがへたり込んでいた。彼女は清貧を貫いた証に深く刻まれた皺を濃くする。

「まさか、全員なんて……」


 ジュデッカは言葉の終わりを待たずに足元のマスケット銃を拾った。一発の銃声で老シスターの額に風穴が開き、背後の十字架に泥が飛び散った。



 礼拝堂に静寂が戻った。

 リタはへたり込んだまま深く息を吐いた。

「みんな……」

「感傷に浸るのはまだ早いですよ。泥の匂いがします」

 ジュデッカは獣のように身を震わせ、喉を鳴らした。

「あのシスターが"泥の魔女"の本体だと思っていたのに。最も狙われにくい奴に寄生するはずなのに。最高責任者より狙われにくい奴なんて……あっ」



 死体か、とジュデッカが呟いた瞬間、祭壇の奥に安置された樫の棺が、音を立てて破れた。

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