泥の魔女.2

 リタは礼拝堂の硬い長椅子に腰掛け、ジュデッカの頰に氷を包んだ布を押し当てた。


「腫れてしまっているわ。早く引けばいいのだけれど」

「この顔で腫れがわかりますか」

 ジュデッカは火傷痕を引き攣らせて笑う。リタは皮肉も意に介さず、彼女の頬に両手を触れた。

「わかるわ。右と左で硬さが違うもの」

「……そうですか」


 ジュデッカは目を背け、巨人が揺らしているように震える窓を眺めた。

「酷いところですね」

「皆優しい方よ。今は脅威に怯えているだけ。それも隣人を大切に思う心あってこそのことだわ」

「ひとじゃなく場所ですよ。綺麗な湖水地方だと聞いていたのに、雪原と湖の見分けもつかない」


 リタは目を細める。

「"冬の魔女"のせいね。今じゃ何処もこんな風だわ」

「お陰で飢餓と病が蔓延してる。私たちも血眼で探し回っていますが、見つかりゃしない」

「氷がすぐ手に入るのはありがたいことだけれど。"魔女"に感謝してはいけないわね」

「いいんじゃないですか。魔女狩りの権威としてカトリックは生き延びたんですから。聖書様には好都合でしょう」

 リタは答えずに冷たい布をバケツに浸した。



 ジュデッカは棒切れのような足で長椅子に胡座をかき、修道服の下から煙草を取り出した。マッチを擦ると、礼拝堂に不似合いな煙の匂いが溢れる。


「ジュデッカ、いけないわ」

「許してください。男子修道院じゃみんな吸ってますよ。こんな寒さですから、目の前に火があると安心するんです」

「煙草で身体は温まらないわ。もっといいものがあるのよ」



 リタが振り返ると、示し合わせたように礼拝堂の扉が開いた。

 まだ幼子と呼べる、綿毛のような髪のシスターが、小さな両手に盆を抱えていた。質素な木の盆にはひび割れたカップとポットが載っている。


「ありがとう。重かったでしょう」

 リタは小走りに駆け寄って少女から盆を受け取る。少女は照れたように柔らかい癖っ毛で顔を隠した。

「聖女さま、あのね」

「どうしたの?」

 リタが屈んで視線を合わせると、少女は赤い顔を寄せて囁いた。

「聖女さまのお母さんはマリア様ってほんと?」

「まあ、そんな噂があるのね」


 リタは破顔した。

「残念だけど違うわ。後でお茶をしながらゆっくり話しましょうね。貴女のお話も聞かせてくださる?」

 少女は何度も頷くと、礼拝堂から駆け去った。



 ジュデッカは靴底で煙草を揉み消す。

「流石聖女様ですね」

「噂が一人歩きしているようだわ。でも、こんな私でも皆の希望になれるならありがたいことね」

「リタさんの血が魔女を浄化する力を持つと言うのも単なる噂ですか」



 リタは無言でポットから茶を注いだ。ジュデッカはカップを差し出す彼女の腕を掴み、修道服の裾を捲り上げる。

 陶磁器のような白い腕には包帯が巻かれていた。


「誰にやられたんです?」

「誰にもやられてないわ」

 包帯から血が染み出す。リタが顔を顰めたのを見て、ジュデッカは手を離した。

「瀉血ですか」

「わかるのね」

「顔色が悪いし、肌が少し黄色くなってますから」

「いざというときの武器になるよう、私から提供しいてるの。皆を悪く思わないで」



 ジュデッカは指先についた血を裾で拭い、呟いた。

「聖なる血は真実と……だったら、今回の一件も何とかなるかもしれませんね」

「来たときに仰っていた話は本当なの? "泥の魔女"が紛れていると」

「はい。アンドレ司祭は雑魚にはやられません。人間に擬態した"魔女"に隙を突かれたんでしょう」



 リタはカップに唇をつけ、目を伏せた。ジュデッカは安酒のように一息で茶を煽る。

「リタさんも知ってますよね。ノーフォークで最初に見つかった"魔女"」

「ええ。魔女狩り将軍マシュー・ホプキンスによる尋問と処刑で見出されたのよね」

「そうです。時代遅れな金銭目的の蛮行だと思われていた魔女狩りの評価はそれによって一変した。吊るし首にした女が血ではなく泥を吐き出し、調べたところ一族郎党が"泥の魔女"に変わっていた」


 ジュデッカは身を乗り出す。

「"泥の魔女"は人体に種を植え付け、人間を自分の眷属に作り替える。厄介なのは寄生されても全く自覚できないことです。無意識のまま"魔女"の利益になる行為を行う」

「判別方法は?」

「殺さなきゃわかりません」

「そんなものが紛れ込んでいるというの……」


 リタは俯いてから、わざと明るい声を出した。

「でも、"泥の魔女"の眷属は寒冷地では活動できないのでしょう? 泥が乾いて凍ってしまうと聞いたわ」

「短時間なら動けます。雪道でアンドレ司祭を襲撃して、この温かい修道院の中に駆け込むくらいの間は」

 礼拝堂に静寂が満ち、泣き叫ぶ吹雪の音だけが響いた。



 沈黙を騒がしいノックの音が破った。

「ジュデッカ、そこにいますね」

 重い扉が開き、老齢のシスターを筆頭に何人もの修道女が礼拝堂に雪崩れ込んだ。


 ジュデッカは素早く血が染みた服の裾を千切り、煙草の箱と共に長椅子の下に隠した。

「どうなさったの?」

「リタ様、彼女から離れてください」


 シスターたちはふたりの間に割って入り、リタを背に庇った。ジュデッカは肩を竦める。

「随分な扱いですね」

「アンドレ司祭が亡くなりました」

「何と」

「……悲しむ素振りすら見せないのですね」

「他人に見せつけるように哀しむのは偽善者のすることです」


 老シスターはジュデッカに歩み寄り、服の裾を捲り上げた。青い血管の浮いた枯れ木のような太腿に、ベルトでナイフが巻かれていた。

「アンドレ司祭の命を奪った傷はこの刃物と同じ形状でした」

「まさか。私も確認しましたが、あれは農具ですよ」

「お黙りなさい」


 声を合図に、シスターたちがジュデッカを押さえつけた。

「ジュデッカ、嘘でしょう!」

 駆け寄ろうとしたリタを老シスターが食い止める。

「彼女は危険です。"魔女"の眷属の恐れがあります」

「ジュデッカをどうするの?」

「今すぐにでも処刑すべきですが、教会の使者を殺すと角が立ちます。地下牢に繋ぎなさい」

「凍死してしまうわ!」

「泥は寒冷地では活動できない。彼女がひとのまま死ぬか、正体を表すか、良い証明になるでしょう」

「それでは旧時代の魔女狩りと同じよ!」


「構いませんよ。それで気が済むなら」

 ジュデッカは折れそうな肩を押さえ込まれながら言った。

「ただし、夜明けまでに私が生きていたら、今度は私が試す番です。凍えさせるよりもっと確かな方法がある。ここの全員に聖女の血を飲ませるんです」

 老シスターは硬く唇を閉ざし、かぶりを振った。

「連れて行きなさい」



 ジュデッカが連行され、扉が硬く閉ざされる。礼拝堂には冷めた茶と煙の匂いが残った。

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