コキュートスの聖女たち

木古おうみ

泥の魔女

泥の魔女.1

 死人の肌のような青白い山稜を、ひとりの少女が進んでいた。



 黒い修道服は擦り切れ、膝まで雪に埋もれた脚は鳥の骨のように細かった。

 土で汚れた白雪に溶け込む老人じみた髪は縮れ、顔の右半分は痛々しい火傷で覆われていた。


 少女は馬車の荷台を引いていた。

 獣のように歯を食いしばって唸り、痩せこけた肩に縄をかけ、身を沈み込ませながら進む。

 本来彼女の代わりに役目を担っていたはずの馬は、僅かに後方で肋骨を剥き出しにして倒れ、鮮血を雪に染み込ませていた。


 雪で潰れかけた馬車の荷台からは、血塗れの男の腕が覗いていた。

 その手が微かに震えたのに気づいて、少女は振り返る。

「もうすぐ着きますよ、アンドレ司祭」

 男は嗚咽で答えた。

「泣いてるんですか。道半ばで"魔女"に殺されたら神に見捨てられるとでも? そんな無慈悲な神ならこっちから願い下げですよ」

「ジュデッカ……」


 ジュデッカと呼ばれた少女は、薄墨色の空を見上げて笑った。

「よかったですねえ、大丈夫です。どう考えたって、地獄はここにしかありませんよ」

 ジュデッカは荒縄で擦り切れた手を見下ろし、軛を肩にかけると、再び馬車を引き始めた。



 ***



 ドロテア女子修道院はイングランドの湖水地方、ヘルヴェリンに聳えていた。


 かつて純白だった壁は雪風に削られて汚れ、窓から見渡せたサールミア湖とアルズウォーター湖も凍りつき、今や雪原と見分けがつかない。忘れ去られた土地だった。


 元々、三年前の名誉革命で解体されていてもおかしくない、貧しい女子修道院だ。

 しかし、湖水地方に"泥の魔女"が出現し、カトリック教会が未然に防いだことで、復権とまではいかずとも英国内で目溢しされる程度の温情が与えられた。


 自然科学の台頭や宗教改革で権威を失いつつあったカトリックにとどめを刺したのも"魔女"。再び光を与えたのも"魔女"だった。

 木製の十字架は色を失いつつ、未だドロテア女子修道院の礼拝堂に垂れ下がっている。



 礼拝堂から亜麻色の髪の幼い少女が、カンテラを片手に飛び出した。

 時刻は午前六時。定時課を終えたばかりだった。


 少女は肋骨のような柱と天蓋が覆う廊下を駆け、曇った窓に張りついた。修道服の裾で結露を拭い、微かに澄んだガラスに映るものを見て息を呑む。



 背後から年老いたシスターが厳格な足音を立てて近づいてきた。

「何をしているのですか。礼拝堂の清掃は?」

「シスター、あれを!」


 少女は窓を指す。

 ガラスのヒビに、雪道に残った轍と足跡が重なっていた。吹雪に溶けて見えなくなりそうなほど痩せこけた少女が、馬車の荷台を引いて進んでいる。


「我々の味方でしょうか。それとも……」

 老いたシスターは首を振った。

「教会からの遣いなら既に来ています。追い返しなさい。抵抗するようなら、我々を害する者と見なします」

 少女は"魔女"の侵入に備えて窓枠にかけられたクロスボウを見下ろす。



 そのとき、廊下の奥から穏やかな声が聞こえた。

「お待ちください」

 青白い闇から日が昇るように輝かしい金髪が現れた。質素な修道服になだらかな曲線の身を包み、陶磁器のような白い肌の美しい少女だった。


 窓際のふたりが慇懃に礼をした。

「聖女様……」

「聖母の加護を受ける土地で、聖女など大それたことを申したら叱られてしまいます。リタとお呼びください」

 少女は失われた湖水に似た青い眼を細めて微笑む。

「どうなさったのですか?」

「不審な者がこちらに近づいておりますので……」


 リタは窓の外を眺めた。

「まあ、大変。怪我をしているようです。それにあの大荷物。早く出迎えてあげなくては」

「しかし、恐れながら"魔女"の手合いかもしれません」

「"魔女"なら我々に気づかれず入り込む術を持っています。あれほど目立つことはしないでしょう」


 少女がリタに縋りついた。

「"魔女"じゃなくても得体の知れない者ですよ。招き入れたら危険が及ぶかもしれません!」

「主の恵みの食卓には、全ての者が招かれています。我々が拒む理由はありません」

 聖母像に似た微笑に、少女は眼を輝かせる。老シスターは逡巡の後、告げた。

「扉を開けなさい。シスター・リタの御意向です」



 重厚な扉が開かれ、修道院に吹雪と血の匂いが流れ込んだ。

 修道女たちは寒気に身を震わせながら招かれざる来客を見つめる。

 立っていたのは、敬虔な乙女たちと同じ素材でできているとは思えない、痩せぎすで粗野な少女だった。


「ジュデッカです。まず、窓から狙い撃ちしないでくれてありがとうございます」

 白狼のような縮毛を揺らしてジュデッカは頭を下げた。老シスターは顔を顰めて少女を見下ろした。


「その修道服は男児のものと見えますが、貴女はシスターではないのですか」

「何と言えばいいか……便宜上は司祭と同格ですが、女が司祭の地位にはつけないので、ジュデッカとだけ呼ばれています。異性装は厳禁なので男とも女ともつかない襤褸布を着ているんです」


 老シスターは溜息をつく。

「要領を得ない言葉で誤魔化すのはおやめなさい。貴女は何処の修道院からの遣いですか?」


 ジュデッカは猫のように曲がった背を伸ばした。

「カルバリ教会から来ました」

 修道女たちは顔を見合わせる。

「聞いたことがありません」

「そりゃ高位の人間しか知らない組織だからですよ。潰れかけの女子修道院の方が聞いたことないのは当然です」


 老シスターは顔に青筋を立てた。

「摘み出しなさい」

「お待ちを。私は存じております」

 立ち尽くす修道女たちの中央を通って、リタが現れた。ジュデッカは痙攣するような礼をした。

「聖女様、どうも」

「リタで構いません。お会いするのは初めてね。嬉しいわ」


 リタは困惑するシスターたちに微笑む。

「彼女は怪しい者ではありません。私と同じところから来たのですから」

「どういうことです?」


 彼女は辺りを見回し、聖句を詠むような声で告げた。

「カルバリ教会は魔女狩り、中世に横行した私刑の意ではなく"魔女"の討伐に特化した組織です。ここから遥かスカーフェル・パイクの頂上に男女の修道院を有しています。私はカルバリ教会の女子修道院から参りました。そして、彼女、ジュデッカは男子修道院の僧兵として各地を渡り歩き、皆様をお守りしている勇者です」


 ジュデッカは口角を上げる。

「ただの殺し屋ですよ。イスカリオテジュデッカのユダの名の通り。銀貨三十枚で魔女を殺します」

「面白い方。お会いできて光栄だわ」


 老シスターは咳払いした。

「魔女狩り集団……聞いたことはあります。貴女方が来るとの報告は受けていませんが」

 ジュデッカは肩を竦めた。

「報告するはずだったんですけどね。そのアンドレ司祭がシスターを通り越して一足早く神様の元の方へ手紙を持って行こうとしてるんですよ」

「何の話です?」

「今私が引き摺ってきた馬車の中で死にかけてるってことです」



 シスターたちは途端に青ざめ、外に飛び出した。三人がかりで雪が覆い隠す馬車の荷台から引き出されたのは、血塗れで息も絶え絶えの神父だった。


 リタが鋭く、しかし、慈愛に満ちた声で告げる。

「大変。皆様すぐに治療を」

 シスターたちがアンドレ司祭を修道院の内部へ担ぎ込んだ。


 騒然とする中、老シスターはジュデッカを睨みつける。

「何があったのですか」

「"魔女"の襲撃ですよ。ここに来る途中、ちょっと目を離した隙に馬ごとやられました」

「……"魔女"を見たのですか?」

「見てません」

「では、何故"魔女"の仕業と断定できるのですか」

「見えなかったことが証左です。状況からして、この修道院に紛れ込んでるのが自然かと」


 シスターはジュデッカの右頰を平手で打った。乾いた音が天蓋に反響する。ジュデッカは目を瞑ることすらしなかった。

「左の頬も差し出すべきですか」

「戯れはやめなさい。ドロテア女子修道院に対する侮辱は見過ごせません。第一、今最も怪しいのは自分だとわからないのですか」


 声を震わせる老シスターとジュデッカの間にリタが割って入った。

「どうか落ち着いて。カルバリ教会の僧兵が"魔女"に乗っ取られるはずがありません。信用できないというなら私の血を使ってもいいわ」


 青い双眸が老女を見上げる。老シスターは怒りに満ちた息を吐き、背を向けた。

「聖女に免じて聞かなかったことにしましょう」

「聞くべきですよ」

 火傷痕をより赤く腫らしたジュデッカが呟く。

「アンドレ司祭を襲撃したのは恐らく"泥の魔女"です。ご存知ですよね。疑心暗鬼と市井の魔女狩りをもたらした最悪の魔女。それがここにいるんです」


 声を掻き消すように、吹雪が窓を揺らした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る