悉傀記

相宮祐紀

第一章 ばけもの

(一)   骸

 黒く濡れた刃は、満ち足りたように。てらてらと、ぬらぬらと、つやめいている。袖で拭うと、じとりと、なまあたたかい感触が腕にまとわりつく。そうして幾度か拭き取って、おだやかな白銀を取り戻した刃を、鞘におさめる。柄から手を離したとき、意識がとけるように感じた。体の外へ、血とともに流れ出していくように感じた。それは虚脱のような、まどろみのような。濁った蜜の中へ、引かれて沈んでいくような。

 我にもなく、舌に染み付いた詞が口から、こぼれてくる。意識の輪郭がくっきりとして、かたちが戻ってくる。まだ夜は明けない。まだ。もう一度柄に手をかける。

 ふいに、息を詰めるように凪いでいた空気が震える。髪を舐めとるように、なびかせる。その揺らぎにこらえきれなくなったように、木の葉がざわざわと、悲鳴を上げ始めた。

 誘われて、足元から濃く、立ちのぼってくる。闇を吸い込みとかし込んだ、血だまりの、におい。そのまんなかでのびているのは、殺したての、ばけものだ。

 見下ろしたそれは単に、ぶよぶよとした、かたまりだった。生きているときはひとのかたちをしていたはずだが、もうはっきりと確認できない。それはあたりを沈める、この闇のためであり。頭上で叫ぶ枝葉に月光がさえぎられて、暗くてよくわからないのだ。そのせいだ。

 しばらくかたまりを眺めて、こちらに向かって何かが、伸びていることに気づく。ずんぐりとして、かすかに照りがある。太ったなめくじのようだ。それはばけものの、腕だった。さきほどまで、盛んに動いていた腕。その先端に引っ付いた手はひとの頭ほどの大きさで、ふっくらと丸みを帯びている。じっとしているところを見ると、かたちだけは幼子の手のようでもあった。何かを、握っている。血を吸い上げて、黒く染まっている何か。布切れのようだ。かがんで、力の抜けた手から抜き取る。

 濡れそぼったそれは、ずいぶんと重かった。持ち上げればしずくが絶えず滴り落ちて、血だまりにとける刹那にまろやかな音を立てる。広げると、小袖のようだった。ところどころ破れて、もとの色も模様も知れない、子供用の小袖。これは、ちょうどいい。

 血をこぼし続ける小袖を持ったまま、手を上へ。血が手首を、腕を、伝っていく。流れる。額に、頬に、首に。

 口を開ける。落ちる。ぬるいとろみが、内へひとひら、落ちる。絞る。血に浸された小さな小袖を、絞る。降ってくる。

 飲み下す。

 降りかかるものをすべて、飲み下す。

 捻り上げた小袖からは、ほどなく何も、出なくなった。絞りきって、硬くなったそれを懐に押し込む。口元を、ぬめった手で拭う。舌先でねぶる。みにくい骸に背を向ける。


 殺すしかない。死んでも殺すしかない。殺して死ぬしか、ない。

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悉傀記 相宮祐紀 @haes-sal

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