世界を彩るのは
「ねえペイリー、僕は外に出ていいの?」
食事をとり、身体が普通に動くようになってきたアッシュはシェルターの中を探検しながら訊いた。
「もちろん。でも現在、外に人間社会があるかどうかは未知です」
「……やなこと言うよなぁ」
何が嫌なのか。ペイリーは首を傾げてみせた。
事実を伝えるのは正しいのだが、言い方の加減がペイリーには難しい。アッシュは諦めのため息をついた。
シェルターの中は殺風景だ。モノクロームの所々に警告表示の黄色や赤があるだけ。ぼんやりと薄い色彩のペイリーとアッシュはともすれば溶け込んでしまいそうだった。
それぞれの部屋は小さい。スリープボックスが設置されていた中核となる制御室。外部モニター機器の部屋。発電設備。食糧保存庫。そして地上へとつながる長い階段。
だが一つだけ、アッシュには教えない場所がある。ペイリーのスペアボディを保管してある部屋だ。そこは見せるなとアッシュの両親から指示されていたから。
アッシュが眠りについた当初のペイリーは〈2024-1〉だった。
だがその後の世界が陥った環境は過酷で、ペイリーが2024として稼働するにあたりボディを乗り換えざるを得なかった。何度も。
アッシュの目覚めに合わせて更新したボディが八体目。だから今のペイリーは2024-8だ。
「ペイリーは外を見て来たんだよね?」
「はい。人間が生存可能な状態になっているのは目視してきました」
「データだけじゃないんだ」
「数値だけで、アッシュを危険にさらせませんよ」
シェルターそのものは地中にあるが、実はペイリーは定期的に地上に出ていた。出入口が埋もれぬよう確保し続けなければならないし、発電や大気組成モニタリングに関わる設備が沈黙しては任務が果たせなくなる。
点検補修のためにシェルターを出るたび、ペイリーは自己の損傷具合を検討した。そして安全をみながら新しいボディへとデータの移植を行ってきた。
ペイリーが壊れたら、アッシュを起こす者がいなくなってしまう。そしてペイリーが壊れたら、アッシュを守る冬眠装置はいずれ停止しアッシュは眠りながら死ぬのだ。そうさせるわけにはいかなかった。
各地に埋まっているシェルターのうち、主の蘇生にまで成功したものはどれぐらいあるだろう。人間の残存数がペイリーの懸念材料だった。
ペイリーの製造番号は〈2024〉。それ以降の番号がどこまで造られたのかは知らない。それに他の個体すべてがノア・プロジェクトに投入されたわけではないだろう。被験者はいったい何人なのか。
複数人が同一シェルターに収容された場合も考えられる。だが入眠、覚醒に至れなかったケースもあるに違いない。
プロジェクト外で生存した人類がいる可能性も含め、人間社会がどこかに存続しているのか、いないのか。
そこにエンカウントできなければアッシュの一生涯をペイリーが守り抜くしかない。
「一度アッシュの目で外を確認するのはいいと思います。それから行動指針を定めましょう」
「僕、ママを探したい」
「いきなり遠出は危険かと。まずは今の世界に身体を慣らして下さい」
「じゃあ、階段のぼる。外を見るだけならいいでしょう?」
「もちろんです」
アッシュは嬉々として階段室の扉を開けた。その頭上に暗く細い空間が伸びているのが見える。口をあんぐりとして、アッシュは少し怯んだ。
「ここ、こんなに深かったんだ」
「そりゃあそうですよ」
来た時は突然のことにアッシュも混乱していて記憶が曖昧だった。あらためて見上げると、地の底に取り残された気がして身ぶるいがする。
さっさと一段目に足を掛けたペイリーは、思いついてアッシュに手を差し出した。だが少年としてはそんなこと恥ずかしくてできない。一人で手すりを握るアッシュの後を、ペイリーはついていった。アッシュにとっては百五十八年ぶりの地上への帰還だ。
「――ペイリー、ずっと起きてたの?」
階段をたどりながらアッシュは小さく尋ねた。その声も反響してしまう狭い縦穴。
「はい」
「ひとりで?」
「いいえ。アッシュがいましたよ」
「――僕は眠ってただけだし」
唇をかむ少年の様子に、ペイリーは不思議と笑顔になった。
間もなく地上だとペイリーは告げた。そこではドドド、という音が響いていた。シェルターが揺れるほどだ。
「なに、これ。トラクター?」
「平原バイソンだと思われます。いわゆるバッファローですね」
「バッファ……!? そんなの国立公園の保護区にしかいないはずじゃ」
「保護区なんてもう存在しません。生き残りが生息域を拡大したようで、よく群れが通るんです」
アッシュが収容された時、ここは小さな町の郊外だったはずだ。
周囲は広大なトウモロコシ畑。遠くにハイウェイが通り、寂れかけたダイナーがある、普通の田舎町だった。だがそれは百五十八年も前のこと。
記憶の中の町並みを踏みにじり、バッファローは駆け抜けていく。その音が近づき、また遠ざかるのを待ってペイリーは地上への扉を解錠した。
「開けます」
唇を引き結んでいるアッシュを目で確かめて、ペイリーは重い二重扉をギ、と順に動かした。草いきれが流れ込んだ。
広がるのは畑ではなかった。茫々とした緑の草木の海。
からまる蔓。
咲き乱れる花。
遠くを走るバッファロー達。
そして暴力的なまでに深い、空の青。
アッシュはふらりと一歩進む。守るようにペイリーが腕を伸ばしかけたが、たぶん少年はそれにも気づいていなかった。
町はどこ。アッシュは目をこらした。
だがそんなものはもう無い。崩れ落ちたか焼け落ちたか、遺跡を緑が呑み込んでいた。強い光が何もかもをくっきりと世界に縫いつけている。
「――」
アッシュは眼鏡も取らぬままで泣いた。静かに流れる涙。それを見て、ペイリーは存在しないはずの心臓がドクンと大きく打った気がした。かすれそうな声をしぼる。
「アッシュ――悲しいのですか」
「わからない、僕」
アッシュには何もわからなかった。ただただ世界が自分に迫ってきて、鮮烈に姿を変えていて、圧倒されていた。人なんてもういないのだと思えた。
なのにアッシュは生きている。ペイリーは不条理に耐えようとする少年と、彼を待ち続けた自分と、鮮やかな世界とを感覚した。
薄らと存在してきたアンドロイドと少年は、色彩に呑みこまれてしまうのか。
だがペイリーにはむしろアッシュが白く輝いて見えた。彼はペイリーがここにいる理由だ。ペイリーはアッシュの隣に立った。アッシュの手が自然とペイリーに伸びる。ペイリーは少年の手を取った。
風が強く吹く。茶色の群れはまだ向こうを走っていた。踏みつぶされた何かがへし折れる音は、木々か、瓦礫か。
人間の遺した全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ。力強い地響きが二人の腹に届く。それは命の音だ。ペイリーは立ち尽くした。
これまでに何度も見たはずの風景だった。なのにアッシュとならば、鮮烈なまでにストレージに刻まれていく。願いとはこういうものかとペイリーは知った。
この人。
この人がいれば。
この手をはなさないで。
あなたが大人になっても。
老いても。
死んでも。
――アンドロイドは少年を連れて行くことにした。方舟の行きたかった向こう岸へと。
その旅路は今、始まる。
方舟の向こうのペイリー 山田あとり @yamadatori
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